無限の粒子の波に揺られる夢を見ていた。体は軽いが、ひどく冷たい。暗い海の底でたった一人溺れている心地だ。

 動かない腕を伸ばしてひたすら出口を求める。無意味にもがき、どれくらいの時間が経っただろう。水底に沈んでいた体が、明るい意識の世界へゆっくりと押し上げられてきた。

 

(……)

 目を覚ましたクリプトは、ブランケットを両腕にきつく抱き込んでいた。はみ出したつま先は、シーツを擦るように動かしてやっと感覚を得られるほど冷えきっている。

 顔を捻ってみると、開けた記憶のない窓が全開にされて、隙間から細い陽光が差し込んでいた。カーテンが久しぶりの外気を喜ぶように、上下に大きく深呼吸している。体が硬く冷えている原因がわかった。そして一体誰の仕業なのかも明らかだった。

 隣を振り返るが、ウィットはいなかった。残っているのは、枕の代わりにした大きなクッション。いつも暑苦しく感じる体温は、すでにシーツには残っていない。自分以外、一切人間の気配がしない部屋は一層寒く感じた。

 

 原因を考えようとしたが、寝起きの頭は動かすだけで軽い痛みを伴い、笑えるほど使い物にならない。枕の下に潜り込んでいたスマートフォンを手に取って、ぼんやりとメッセージ履歴を辿ってみる。手がかりはないかと思ったが、昨夜会う前に送られたメッセージ以降、ウィットからの発信はなかった。

 ……勝手に帰ってしまったのだろうか。記憶が確かなら、部屋に連れて来たのは昨日が初めてだ。連れて来たと言うより、酔った勢いで無理やりついて来た、の方が的確だ。ウィットはかなり浮かれていた。いつにも増して鬱陶しいくらい甘えてきたし、ついでに「明日は俺が朝飯作ってやるから、勝手にエナジーバーとか食うなよ」と何度も念を押していた。

 酔っ払いの約束に期待なんかしていなかったが、すっぽかされた虚しさを一人で持て余すのは腑に落ちない。ただでさえ頭を動かすための糖分が足りず、次第に苛立ちが生まれてくる。

 寝そべったまま、シーツに肘をつきサイドテーブルへ手を伸ばした。見つかったら没収されかねないチョコレート味のエナジーバーを、眼鏡と一緒に隠していた事を思い出したからだ。都合がいい事に、ヘッドボードにはウィットが置きっぱなしにしていったミネラルウォーターが十分残っている。裏切りの代償として、約束を破り返す事でちょうど良い清算になると思った。

 フィルムを剥がして、一口目に歯を立てる。同時に、寝室のドア付近に不穏な気配を感じた。振り返った瞬間、大きな買い物袋を抱いたコート姿のウィットと思いきり目が合ってしまった。

「おお、クリプト。起きてたのか」

「……あ」

「っておい、何食ってんだ!」

 視線が一瞬でこちらの口元にフォーカスし、次には見ている方が血圧の上がりそうな剣幕で騒ぎ出す。内心「しまった」と思ったが、ここまで来たら引っ込みはつかない。無視して食べ続ける事にした。甘いはずのチョコレートはレンガのような鈍い味がする。ウィットが帰ってきた事への僅かながらの安堵と、見られたくないものを見られた動揺で味覚が麻痺してしまったのだろうか。

「朝飯の前にそんなもんでカロリー摂るなよ! どこに隠してたんだ、ベッドの下かこの野郎っ」

 目線を逸らして水を飲み、聞こえないふりをした。しかし、このまま黙っていたら永遠に追求されそうだ。

「お前こそ……どこに行ってたんだ。連絡もしないで」

「あ? 買い物だ、買い物」

 ウィットは撫然と答えて、腕に抱いた買い物袋を強調した。

「この辺慣れてねぇから、でかいマーケット探すのに時間かかっちまったの」

 袋にぎっしり詰め込まれているのは、パンと野菜、あとは匂いからして多分肉だ。目線を落とすと、指一本を頼りにコウモリみたいにぶら下がっているビニール袋からは、瓶のシルエットがいくつも透けて見える。調味料やジャムだろうか。ウィットの店で見た事はあるかもしれないが、何に使うか見当がつかないし、一度では到底使いきれない数と量に思えた。

「朝飯だけだろ。何でそんなに爆買いしてるんだ」

「だってよ、さっき冷蔵庫開けたら、なんにも入ってねぇんだもん」

「だから「何もない」って、昨日も言っただろ」

 ウィットは「な、な、なに……」と吃ったが、一度言葉を飲み込んだ。それでも喉に通りきらない言い分があるのか、困り果てたように目線だけで天を仰ぎ、深いため息を漏らした。

「あのなぁ。「何もない」のレベルが違いすぎんだよ。水とカップ麺しか入ってなかったぞ。パスの家の冷蔵庫の方がまだ色々入ってるんじゃねぇか? あとカップ麺を冷蔵庫で冷やすな。意外とシケって不味くなるぞ」

(ゴチャゴチャうるさいんだよ……)

「ゴチャゴチャうるさいんだよ、って顔もするな。せめて調味料くらいは置いとけって。一通り買ってきたから、勝手に捨てるなよ」

 他の事では一つも勝てないくせに、食生活の事になると途端に説教臭くなる。言い返したいが、これに関しては何を言っても勝てる気がしない。こいつが酒と料理で生計を立ててきた事もあるが、あまり言いたくはないもう一つの理由の方が大きかった。

 ……人並みに食えるようになった後も、飢えは抗えない恐怖の対象だった。何かを食べるという行為に楽しみを見出した事はなく、生命維持のための栄養補給に過ぎないと思っていた。無頓着だと言われても、生き延びる事を優先してきた結果、こうならざるを得なかったのだ。

 ただ、こんな暮らしになった今、ウィットが作る手の込んだものを食べる事は嫌いじゃないと気付いた。と言うより、嫌でも気付かされた。デリケートな鮮度の肉や魚、そのままでも十分に食べられそうな野菜やフルーツ、名前さえ知らない香辛料が、ウィットにかかれば魔法をかけられたように正真正銘の「料理」へ変わる。それは飢えへの恐怖とは全く逆の、贅沢でむず痒い現象だった。

「聞いてんのか? わかったならわかったって言え」

 ウィットはとんでもなくうるさいしお節介な奴だが、幸せの定義や価値観を当たり前のように押し付けた挙句、二人で分け合いたがる。それが自分にとっても密かな楽しみになってしまった今、裏切られたらひどく落胆してしまうのだ。もっともらしい言い訳をつけて、意地でも冷静な自我を保とうとしてしまう程に。

「……わかった」

 ウィットの目つきは子供のつたない謝罪を聞くように、にんまりと緩んでいた。

「そうそう、それでいいんだよ、クリプちゃん」

 紙袋を持っていない腕を伸ばし、頭を遠慮なくぐしゃぐしゃに撫で回された。今すぐやめろと言いたかったが、言葉に出すのを堪えた。ウィットが体を寄せた事で空気が大きく動き、コートに溜まった外の冷気が肌にまとわりついて、震えそうになったせいだ。部屋の中がこれほど寒いのだから、外はもっと寒かったんだろう。

 いつまでも寝ている自分を起こさないようにベッドを出て、健康的な目覚めのために窓を開けて、そして驚くほどの量の買い出しをしてウィットは帰ってきた。自分には、誰かのためにここまで気を遣って時間を投資するなんて真似は、到底できそうにない。

 年下のくせに肝心な所でやけに年上ぶった振る舞いをするのはどうにも気に入らないが、今だけはスルーしてやる事にした。

 

「よし、んじゃそろそろ飯作るか。あーそうだ、約束破ったから、お前も手伝えよな。洗うとか、切るくらいはできんだろ」

「仕方ないな……」

「ふーん。絶対イヤだと思ったけど? 急に聞き分けよくなったな。なんか気持ちわり」

「勝手に言ってろ」

 ベッドを降りて、クローゼットの奥にしまっていた厚手のパーカーを羽織った。ウィットはすっかり機嫌を直したらしく、朝食のメニューだというバケットサンドとポトフのレシピを、聞いてもいないのに繰り返し暗唱している。それをラジオの天気予報のように聞き流しながら、ウィットに並んでキッチンへ向かった。

 季節が変わろうとしている。今日はいつもより寒く、そしていつもと変わらずうるさい休日になりそうだ。

 

 

 

 

 

(企画に基づき書かせていただきました。→https://twitter.com/Shionorz/status/1450412226041430016