「ソラス中央採掘場で大規模崩落事故、十三名が死亡」

 

濡れた髪からタオルを離し、ラップトップに浮かび上がった記事をクリックした。

ニュース欄には事件の概要がまとめられている。

「7日午後、マーシナリーシンジケートが管理するソラス中央採掘場で崩落事故が発生。現場で作業中だった十二人が巻き込まれる大規模な事故になった。現場責任者の男性の行方が分からなくなっていたが、掘削場のサイロで生き埋めになった状態で発見され、その後死亡が確認された。

また資金提供を行なっていた投資家の男性が、7日未明に自宅で首を吊って死亡していた事が分かった。

現場責任者と投資家の男性、二人の間に何らかのトラブルがあったものと見て、さらに詳しい情報を調査中。

【記事提供:ソラスシティ・ダイヤモンドポスト】」

 

ニュース映像には、特殊車両やマスコミに包囲された採掘現場の様子が延々と映し出されている。顔にまとわりつく髪をかき上げながら、深いため息を吐いた。

(……本当に、馬鹿な奴らだ)

 

ニュースで見た二人の顔は、まだ新しい記憶として残っている。人の心の内など知れないが、あの二人の間にこんな結果を生むようなトラブルがあったとは考えにくい。不自然で、想像の余地を大きく残した事故だった。最も自然な推測は、彼らが手を取り合い仕組んだクーデターが無惨にも失敗に終わったという可能性だ。おそらく未遂のうちに計画がバレて、シンジケート側に先手を打たれたのだろう。

現実はゲームではない。シンジケートという強大なボスに真っ向から歯向かおうとすれば、皆こうして「削除」される。真実は奴らにとって都合のいい形に捏造され、ネットで淡々と報道された後、やがて過去の出来事として忘れられてしまう。ニュースサイトに記事を提供しているのも、奴らが抱き込んでいる大衆誌のデジタル媒体だ。これ以上、深入りした取材活動は許されないだろう。

あらゆるメディアや権力を押さえつけながらも、奴らは奴らでしばらくの間、この二人の身辺を徹底的に洗うはずだ。男を買うという趣味が共通している以上、自分の仕事に行き当たる可能性はある。寝物語にシンジケートへの恨み事を聞かされた人間も、おそらく自分だけではない。

驚くべきは、二人に訪れた最期が思っていたよりも少しだけ早かった、という事だ。監視の目はすぐ近くでぎらぎらと光りながら、ネズミが残した真新しい足跡を探している。潮時が来ていた。ネズミはネズミらしく、闇に紛れて逃げるしかない。

 

街には夕刻から陰鬱な雨が降り続いていた。

部屋を引き払う手続きを済ませて、傘を手に繁華街のメインストリートに出た。街にはすでに夜の喧騒が訪れていたが、今夜は随分と表情が違う。

この街は日が沈めば、眠りから目覚めたように毒々しいネオンの花が咲く。しかし雨のせいで街全体が湿気を帯び、ぼやけたネオンが霧となって視界をどこまでも眩ませていた。

砂漠地帯は大雨が続くと、水を吸わない固い砂質が災いして、たちまち各所で洪水が起きる。砂漠で最も多い死因は溺死だとさえ言われているほどだ。何も考えずに荒野へ繰り出せば、その日の運によっては悲惨な死に方をするかも知れない。それはこの星に住む人間なら頭のどこかに知識として染みついている。普段なら街の外で仕事に励んでいる連中も、今夜は街に留まり刺激的な享楽を求めて練り歩いていた。すれ違う酔っ払いを避けながら、日中で店じまいしたマーケットへたどり着く。近くには人だかりができていた。マーケットと向かい合わせになった劇場の、電子モニターの前がやけに騒がしい。

「……」

傘を持ち上げて上方を見た。壁に埋め込まれたモニターの中では、新しい惑星を舞台にAPEXゲームのライブ配信が行われていた。高層ビルが連なる人工的な緑地と、富裕層のために作られた住宅街、そして膨大なエネルギー源を中心とした研究所。人が住めない環境になった天空都市はアリーナにうってつけだ。ソラスで着々と進んでいた発掘作業がしばらく滞る事を考えると、当分はこの場所がメインのアリーナになりそうだ。

……今夜もどこかの星で誰かが血を流し、有象無象の観衆と、時の権力者達が彼らの血をうまそうにすすっている。このゲームは常に、誰かの犠牲の上に成り立っている。誰が傷つこうが死のうが、それはゲームを彩るパフォーマンスでしかない。無数の苦しみや痛み、財産、そして命を養分として、奴らは自分達の腹に巨大な胎児を飼い続けるつもりなのだ。

無意識の内に、画面を射殺す形で見つめ続けていた。傘に覆われたせいで周囲の視界が狭まり、すぐ近くで足を止めた男の存在に、この瞬間まで気づかなかった。

 

「……黒づくめの服に、黒い傘か。隠れ過ぎてて逆に目立ってるぜアンタ。この街の連中は派手好きが多いからな」

 

張りのある声が、静かな雨の音を無粋にかき分ける。肩越しに振り返ると、背後には真っ赤な傘を差した男がソープオペラの一場面のように気だるく立っていた。

背筋がざわめき、周囲の景色や人間、他の全てが波引くように遠のいていく。

「よお、聞こえてるか?」

はっきりと聞こえたが、答えたくもなかった。代わりに腹から込み上げるさまざまな言葉を、喉下で押し込めた。

……できる事なら二度と会いたくないと思っていた。だがそんな人間に限って、探してもいないのに突如目の前に現れる。道のない砂漠で迷える旅人を導く、悪い幻のように。

今更何のつもりだと、一思いに罵りたかった。自分の都合で秩序を侵し、薬で人の体を好き放題に弄んだ事実は覚えているはずだ。

怒りを隠せないのが自分でもわかるほどだったが、男は少しも気にしていない様子だ。どんな神経をしているのか、飄々とした微笑みを崩そうとしない。それはどこか張り付けられた仮面のように感じ、目の前に佇む姿は不気味だった。

「怖い顔すんなって。誰かと待ち合せ中だったか?」

「……関係ないだろ」

それだけを絞り出すと、男は据わった目つきのまま笑い、自分の口角をいじる仕草を見せた。

「おお、怖ぇ。そんな顔じゃデートの相手も逃げちまうだろ。あー、わかったぞ、今日はオフって事か。実は俺もなんだ。ちょうどいいや、一杯付き合えよ」

「はぁ……?」

「いいって。金なら心配すんな、おごってやるからさ」

今一度、男の顔に目を凝らした。まるであの夜の事などはじめから存在しなかったようにヘラヘラと笑いながら、「こっちだ」と背中を向けて勝手に歩いていく。

後をついて行く気には到底なれず、赤い傘が遠ざかるのを黙って睨んでいた。角を曲がりかけた男は、急に振り返ってこちらへ声を張り上げた。

「何やってんだ、置いてくぞバカ!」

「!」

モニターを囲んでいた見物客の視線が次々に突き刺さり、咄嗟に傘を下げて顔を隠した。

やはりこいつは、いつ会ってもどうかしている。気圧のせいとは思えない頭痛を覚え、こめかみを押さえた。

 

 

今夜のパラダイスラウンジは、看板のネオンが消えている。

「今日は店閉めてんだよ。おかしな天気のせいでやる気が出ねぇからな。どっかで飲もうと思ったんだが……偶然ってのは怖いもんだな」

裏口から鍵を開けた男はぶつぶつと呟きながら、キッチンとカウンターの周りにだけ最小限の照明をつけた。

「突っ立ってないで、そこ座れって。おごってやるって言ってんだ」

「……気前がいいんだな」

「この間、延長の金置いていったろ。俺は見ての通り商売で生活してんだ。金の事で借りは作りたくねぇの」

片眉を大袈裟に持ち上げ、いかにも常識ぶった事を言う。言い返すのも面倒に感じ、黙ってスツールに腰掛けた。

「何か食う?」

「……何があるんだ?」

「えーっと、サルサソースとサワークリームのポテトフライ、辛さマシマシのバッファローウィング。あとおすすめは、ウチの秘伝メニューのポークチョップだな。これは一番評判がいいんだ」

自慢気だったが、聞くだけで胃の入り口が狭くなる。

「……やっぱりいい。腹は減ってない」

「そうか?アンタ、もっと食った方がいいぜ」

男が手慣れた手つきでシェイカーを転がしている間、店を軽く見回した。初めて訪れた時と変わらない、年季の入った広い店だ。住んでいたあの家も一人では広すぎる。居場所が広ければ広いほど、男を包む寂寥は濃いものに感じられた。

同じ色をした二人分のカクテルと、塩を軽くまぶしたナッツがテーブルに置かれた。男はカウンターを出て、隣のスツールに腰掛ける。

いつかの光景が嫌でも蘇ってくる。置かれたグラスを口元の高さまで持ち上げた。雪が溶け込んだように真っ白なカクテルを軽く揺らすと、ラムの甘い香りが漂った。

「言っておくが、ヘンな物は入れてないぞ」

「……」

「アンタって、変わった奴だよな。そんな警戒してるんなら、普通ついて来ねぇだろ。いや、待てよ……まさか殺すつもりじゃねぇよな?だから二人っきりになれる場所を選んで……」

「冗談言うな。お前一人の事で人生を棒に振りたくない」

「そっちこそ、真面目に答えんなよ」

「さっきはお前がデカい声を出すから、仕方なく合わせて来てやっただけだ。おかしな真似をしたらただじゃおかない」

「いいから、怒るなって。せっかくの酒が不味くなる。気楽に行こうぜ」

無理やりグラスを重ねて、誤魔化すように飲み始めた。人を小馬鹿にするような態度は相変わらずだ。

グラスを傾けて一口を舌に溶かし、横顔をちらりと盗み見た。同じようにグラスをあおっている顔は、調子よく微笑んでいる。しかしこうして近くで男の様子を見ると、その顔色の悪さがやけに気になった。目の奥が虚ろに澱み、頬がやつれている。酷く疲れているようだった。

これまでの自信に満ちた高慢な態度は、しばらく会わない内にどこかへ消え失せていた。今の男は表情の皮の下に肉を縫いつけた人形のような、活力がなく虚しい横顔をしていた。

……推測だが、しばらく薬をやっていないようだ。遊ぶ金が底を尽きたのか、それとも更生の道を歩き出すハメになったのか、その理由までは計り知れないが。

「……お前、ひどい顔だな」

「おいおい。こんな男前に向かって、その言い方はねぇだろ」

「医者には行ってるのか?俺が友人なら、今のお前には関わりたくない」

「はっ。医者でも友人でもないアンタが、わざわざ俺に嫌味を垂れる理由は何なんだ?」

「……別に。ただの気まぐれだ」

視線を斜めに流した。

「明日にはこの街を出る。お前に会う事はもうないからな」

「そりゃ寂しいね。で、この街で最後に飲む相手が俺か?」

「多分そうなる」

「やっぱりそうか。アンタ、オジサマ以外に友達いなさそうだもんな」

「……」

もう少しで漏れそうな舌打ちをグラスで隠した。言い返さなかった事に、男は若干の優越を含んだ笑いを漏らした。どこまでも人をからかうのが好きな性分らしい。

……奇妙な時間が流れていた。華やかな賑わいも、気の利いたBGMもない。鬱屈とした雨音に囲まれ、この世界に二人だけしかいないような錯覚に包まれていた。

最後に会った夜は、意識が吹き飛ぶまで互いの体を犯し合った。夢と現実が入り混じった吐き気のする感覚が、今でも頭にこびりついて離れない。

あの夜から数日、高熱と悪夢でまともに眠れない日が続いた。自分の体を見る度に、男の言葉が胸に突き刺さり、思考を重く縛り付けた。人間の欲望をくすぐり、自尊心と引き換えに金を集める。醜い金持ち共と自分は違うのだと言い聞かせて、束の間の安堵を得る。その生き方こそ汚らしく誰よりも滑稽だ。言われなくても、自分が一番分かっている。

肌も言葉も嫌というほど晒け出したせいか、この男には遠慮や気遣いの類は無用に思えた。きっとこいつも同じように感じているのだろう。

ラムを腹に溶かしながら、レコード一曲分の沈黙を過ごした頃だった。

「……なぁ」

「……」

「急にこんな事を言うのもアレだが」

「何だ」

「いや、そう言うんなら、世の中のほとんどの出来事は急に始まるもんだよな……えーと、何の話だったかな」

グラスを揺らしながら、わざとらしく上を向いて考えるふりをしている。

「あー、つまり何で俺がこんな事をやってるのかって言うと……実のところ、俺はかなりのロクデナシなんだ」

「そうみたいだな」

「おい、相槌が早いんだよ……くそっ」

自分で言い出しておきながら、やけに歯切れが悪い物言いだった。結論を先に言わないタイプの喋り方は、本来なら数秒も聞いていられないほど頭が苛つく。が、この男には曖昧な喋り方など瑣末に思えるくらい散々な目に遭わされた。もはや諦観さえ感じ始めていた。

「はぁ……まぁいいや。俺も始めからこんなロクデナシだった訳じゃなくて、こうなる前の話なんだが……。アンタは流行に疎そうだけど、APEXゲームくらいは知ってるだろ?俺はあそこで一時期、スターって呼ばれてたんだ」

「!」

反射的に顔が動き、そのまま男の顔を凝視した。不思議そうに目を見開いている。

「意外でもねぇだろ。アレは俺のために用意された舞台なんだって思ってたくらいだぜ」

疑いの目を向けながら、頭の中に凝縮された無数の情報を呼び起こし、この男にたどり着くための照合を試みた。しかし、簡単には合致しない。あのゲームに名乗りを上げる人間は数えきれないほどいる。そして、あらゆる理由で舞台から消えた人間も。

こいつの前で少しでも動揺してしまった事を悔いながら、姿勢を少しだけ変えて男の方を見た。

「……『だった』って事は、今は違うんだな」

「……」

「何があったんだ?」

聞かれて当然のはずだが、男は下を向いて口をつぐんだ。おそらく簡単に話せない秘密を抱えているのだろう。道化じみた顔つきに、今までとは違う重い影が差していた。さっきまで機嫌よく酒を楽しんでいたとは思えない豹変だった。

スツールの下で足を組み替え、わざと聞こえるようにため息をついた。嫌でも察してしまう。こいつがどんな長話を自分に喋りたがっているのか。

「……話してみろ。少しなら聞いてやる」

「ちょっと長くなるけど?」

「いいから、話せ」

男はカウンターに肘をついて考え混んでいた。しばらく何も言わなかったが、やがて観念したように深く息を吐き、話し始めた。

「……はじめに言っとくが、俺はな、本当はやめるつもりなんか少しもなかったんだ。はじめは上手くいってたんだよ。ガキの頃に夢中になったビデオゲームが現実になったみたいにな」

緊張で舌の動きがぎこちないが、黙って聞いた。

「俺はあのメンバーの中じゃ間違いなく一番目立ってたし、あの手のゲームなんか見ねぇような女のファンも多かったんだぜ。一番のファンはイヴリン……母さんだった。俺がゲームに出るために、背中を押してくれたのは母さんだからな。母さんは毎日のようにゲームを見て、俺を応援してくれてた」

「……そうか」

「けど、しばらく経った頃、母さんの調子が悪くなってな。俺に余計な心配かけたくないって、自分から病院に入ったんだ。トシがトシだから、体の具合もそんなに良くはなかったんだが……いわゆる心の問題ってやつだ。医者から聞いたんだが、昔の記憶と現実に起きてる事が、時々曖昧になっちまうみたいなんだ。最初のうちは食事の時間をすっぽかしたり、病院のあちこちに忘れ物をしたり、小さな事だったんだけどな」

相槌を待たず、男は段々と自分の話に夢中になっていく。

「物事の転機ってのはいろんな事情の重なりなんだよな。ちょうど同じ頃、俺にもアレがやってきた。アレだよ、そう、ざつ、……挫折、そう、挫折だ。俺より目立つ奴がどんどん出てきて、いつもの調子が出ねぇ時が多くなった。ネットじゃ好き放題書かれるようになった。戦績の事だけじゃねぇ、ゲームに関係ない根も葉もないゴシップだとか……アンタは経験ないと思うけど、やってもねぇ過去の「やらかし」まででっちあげられたりな。そのうち俺をフォローするような言葉だって、ネガティブに聞こえてくるようになったよ。何を言われてんのか気になって、夜も寝れなくなるくらいにな。

俺は毎日自分の事で精一杯で、母さんの見舞いにだんだん行けなくなった。母さんは無理に来なくていいって言ってくれた。俺の事なら何でもお見通しだから、何で悩んでるのか知ってんだと思う。俺はそれに甘えてた。そうやってやり過ごしてたら、いつからか具合が急に悪くなって……久しぶりに病院に行ったら、母さんが俺の顔を見て言ったんだ。『あなたは誰?ずいぶん親切にしてくれるのね』って。ははっ……耳を疑ったが、ああそうか、そういう事なんだ、って思い知らされた」

顔を動かさないよう、視界の端で男を見た。さっきよりうつむいた横顔には前髪がのしかかり、その表情を窺う事はできない。

「……俺のせいなんだよ。俺が側にいてやれなかったせいで、母さんは病気がどんどん進んじまった。俺が顔を出すと、あなたはいいから、早くあの子を連れてきてちょうだいって捲し立てられた。あんな怖い顔を見るのは初めてだったぜ。俺は何も言えなかった。母さんはそのうち、俺だけじゃなくて、医者にまできつく当たるようになった。あの子のところに帰りたい、あの子はまだ7つで、靴の紐だって自分で結べないんだから、ひとりぼっちで家に置いておけるわけないでしょう、ってな。親父や兄貴たち……俺たち家族が皆そばにいて、全部が普通だった頃……一番楽しかった時間に心が戻っちまったんだろうな。

俺にとっては母さんだけが家族なのに、俺はその母さんに、家族として見てもらえなくなった。一人でいる時も、母さんの言葉が頭の中でずっと聞こえてくるんだよ。『あなたは誰?』そう、俺は一体誰なんだろうな?そう思い始めたら、どうしようもなくなった。試合が終わったら、テレビもネットも見ないで……ただ酒を飲んで寝て、その日をどうにか終わらせるんだ。けど、ある日突然、ほんとに突然だ。夜中に酒を飲んでたら、頭のどっかが吹っ切れたんだ。……悪い意味でな。俺はこの街じゃ人気者で有名だが……それでも、俺の事を知らない奴を探した。名前も知らないバーに行って、名前も知らない野郎に声をかけられて、一緒に酒を飲みまくって……。汚ねえ便所に引っ張られてって、気がついたらそいつのアソコをしゃぶってた。ポルノで見た女の真似してな。その後は、店から追い出されるまでヤり続けた」

初めて会った時より随分窪んだ瞼。その向こう側にどんな卑猥な思い出を浮かべているのか、男は片方の唇から濡れた犬歯を見せていた。

「俺がハマってる薬さ、そいつに教えてもらったんだよ。似たようなのはそこら中に出回ってるが、混ぜモンなしのいい代物だぜ。一日中頭から離れなかった嫌な事が、アレを使ったら全部忘れられる。それに、そいつはヤってる時、この世界で一番俺に夢中なんだ。誰かにここまで求められるなんて、今まであったのかって思うくらいに。そこからどんどん転がり落ちて……今に至るって訳さ。ゲームなんか、気がついた頃にはエントリーもしないようになった。あのゲームに『穢れなき参加者はいない』なんて言われてるが、実際シンジケートは、ブランディングってやつには厳しいんだな。俺のプロフィールは、気がついたら公式からまるごと削除されちまった。もう誰も俺の事なんか覚えちゃいないだろうよ。

俺の事を知ってる奴にこんな姿は見せられねぇ。母さんはもちろんだし、昔からの知り合いも、皆いい奴らだからな。俺がゲームを降りたのを、『母さんの面倒を見るため』だって心配してくれるんだ。本当にいい奴らだろ?だから俺も、昔からの俺……バカみたいに明るくて、家族思いで、何から何まで完璧な『俺』に見えるように振る舞わなきゃならない。だって皆がそれを望んでるんだからな。けど俺はもう、昔の俺には戻れねぇんだよ。俺に薬を売ってきたあいつは、俺を置いてどっかに逃げやがった。恋人だと思ってたのに。ああ、そうそう。ちょうどアンタみたいに、ガキっぽい顔して中身はエラぶった、いけ好かねぇ兄ちゃんだったな……」

「……」

「……どうだよ、これでもう分かっただろ?アンタはとんでもないロクデナシに雇われて、今じゃあタダで、そのロクデナシのつまらねぇ身の上話を聞かされてるって訳だ」

取り憑かれたように休みなく喋り続けた男の顔が、ようやくこちらを向いた。

「呆れて物も言えねぇって顔だな」

「……」

「いいさ。アンタは得だよ。そうやって黙ってるだけでサマになる。俺はダメなんだ。喋ってないと、怖いんだよ。俺の話、誰も聞いてないんじゃないかと思って」

せせら笑いながら、グラスを握りしめる指先が震えているのを男は隠そうともしない。

「だがな、いいか?これだけは言っとくぜ。俺は出会った奴ら誰にでもこうして自分の秘密をベラベラ喋ってる訳じゃない。俺が何でここまで自分をさらけ出して、何もかも喋っちまってんのか。そんなの決まってるだろ?アンタは……。……アンタは、明日にはどっか行っちまう、ただの他人だからな」

顔を斜に構えてこちらを見つめ、男は皮肉気に言い捨てた。

しばらく言葉を返せなかった。うらぶれた視線を横顔に浴びながら、グラスの前で組んだ指を見つめた。

初めてこの店で会った時、帰り際にゲームのチラシが握りつぶされ捨てられていた事を思い出した。彼の寝室に隠されていた母親との写真も、同じように傷つけられていた。向き合いたくない現実から逃げるように。

こいつは外見に似合わず繊細な人間だ。どん底の状況になっても、失望されるのを恐れるあまり、人の善意にすがれない。ストレスの捌け口をどこにも向けられず、不相応な暴走に身を委ね、心の皮が剥がれる痛みを快楽だと思い込む。それは他人を利用した自傷行為でしかない。止まらない言葉の奔流は、男の傷ついた心から垂れ流される血のように思えた。

「……」

目線を落とした。数口つけたグラスで揺れているカクテルは、嘘のない純白だった。

……「xyz」。アルファベットの終わりの3文字を示し、これ以上追及しようのない最高のカクテルである事を表している。しかし、男の顔はそんな美しい完成品を作り上げたとは思えない、静かな絶望に歪んでいた。

この男にとって、終わりは完成ではなく、逃げ道の塞がれた深い絶望を意味している。男のすさんだ目つきが、声にならない言葉で必死に訴えていた。

『俺を助けてくれ』

胸に絡みつくのは、例え難くもどかしい感情だった。これほど喋り続けているのに、どうしてこいつは一番言いたい事を言えないのだろう。

男に視線を向ける事なく、口を開いた。

「……俺は、他人に同情しない。お前が俺にやった事を許したつもりもない」

「……」

「だが、不思議だな。他人のはずなのに、俺はお前によく似た人間をよく知ってる。そいつはお前と同じで、孤独なんだ。裏切られたくないから、誰も信じられない。周りにいるのが利用できる奴なのかそうじゃないのか、そんな目でしか見れなくなる。本当は、そんな目で見られるのが何よりも怖いくせにな」

ずっと喋り続けていた男が、遮る事もなくうつむいたままじっと聞いていた。

「それでも一人で生きていけるのは、はじめから周りに誰もいなかったからだ。だがお前は違う。お前は周りに見捨てられて、たった一人にされた。今じゃ、信じていた母親にまで忘れられようとしてる。それがどれほど辛いのか、他人の俺でも想像はつく。……人気者のスターとやらが、ここまで惨めに落ちぶれるんだからな」

そこまで言って、グラスの細いステムに触れた。

「……もう一杯作ってくれ」

隣を見るが、男は覇気を失いすっかりうなだれていた。

「どうした?喋りすぎて疲れたか」

「……そうかもな」

「じゃあ、静かにしてろ。その方がずっといい」

「何なんだよ、アンタ。『喋れ』の次は『静かにしろ』って」

じろりと見上げる顔は、叱られた犬のように情けない。

「……お前の話は十分聞いた。ここからは、俺が好きな『静かな』時間にしてもいいか」

「……」

「俺はお前の言う通り、黙ってるのが好きだ。酒もなるべく静かに飲みたい。俺は客としてお前に提案してるんだ。静かにして、余計な事は何も言わなくていい。どういう意味か分かるだろ。ここには俺しかいない。今夜はこれ以上……誰かの気を引くために、子供みたいに必死になって喋らなくてもいいって事だ」

眉尻の下がった男に、グラスのプレートを指で押さえて寄越した。

「ほら、一杯だけ作ってくれ。お前は今まで会った中で一番のろくでなしだ。それでもお前は、この店のバーテンダーだろ?マティーニ……いや、ウィスキーにしておくか。そんな情けない顔でまともな酒が作れるか、やっぱり心配になってきた」

柄でもない事を言えば笑うかと思ったが、笑わなかった。感情の消えかかった顔に血が通い、うっすらと熱が灯っているようだった。

「アンタってさ、本当は……結構、いい奴なの?」

「うるさい、黙って持って来い」

「……はっ。やっぱ撤回だ」

男はうんざりしたように顔を振り、それから消えいるようにぼやいた。背けた顔は薄暗いバーの明かりに隠れていたが、拗ねた子供みたいに唇を尖らせていた。

 

カウンターへ立ち二人分のグラスを換えて、四角い瓶を握った男が目配せをしてくる。何も言わずにグラスを受け取り、淡々と注がれる深い金色を見つめた。

待ち侘びたはずの沈黙は、互いの心音に耳を澄ませる時間に成り代わっていた。建物を叩いていた雨音が遠く感じた。

……相容れない人間なのだと、今この時も全身で感じていた。こいつもある意味シンジケートの被害者だ。しかし初めて会った時から気に食わない、本当の理由を思い知った。こいつは憎たらしいほど、自分と同じ色の暗闇を腹の底に抱えていた。

最後に会った日、男は自分を「半端」な人間だと罵倒した。こいつも自分と同じ、あるいはそれ以上の「半端者」だ。人生が一瞬で壊れてしまう人間はごく稀だ。こいつが言う通り、物事の転機、つまり予想もしていなかった悲劇は、小さな要因がノイズのように絡み合い、歪みを生む。一つ一つの歪みたちはやがて歯車の動きを徐々に狂わせ、道を外れたと気づく頃には全てが遅い。だからと言って、人は簡単に悪人にはなれない。生まれついての外道でもない限り、傷つく事を知らない悪人のふりをして、まともな境遇の人間を恨みながら生きていくしかない。

不可解でしかなかったこいつの心が、今は手に取るようにわかる。誰も信用しないから、誰にも信用されない。他人を値踏みし、利用し合える関係だからこそ、安心して渇きを満たせる。もう会う事のない他人にしか心の内を晒せない。まるで鏡写しだ。男の心の最深部に潜んでいたのは、受け入れがたい自分自身そのものだった。

ただの偶然か、それとも互いに同じ匂いを嗅ぎ合うせいか、この男とはこうして何度も出会ってしまう。隣にいるだけで、自分の影に飲まれるような、重い禁忌を犯す心地だった。

「はぁ……」

グラスを置いた男が、意味深に浅い息を吐く。これだけの量で酔いが回ったとは思えないが、ゆっくりと肩に寄りかかってくるのを黙って受け止めた。

「……なぁ?」

「……」

「聞けって。うるさくしねぇから」

男は甘えるように顔を近づけて、耳に口を寄せる。空気に溶けそうな囁き声が耳朶をくすぐった。

「……俺のこと嫌い?」

「……好きな訳ないだろ」

「へぇ。実は俺もなんだ。気が合うね」

「何が言いたいんだ?」

男は肩に手を乗せたまま、犬のように頬を押し付けてくる。声にできない言葉を吹き込むように、そのまま口づけをしてきた。

同じ酒の香りと、温かい舌の感触が広がる。

こちらの唇を軽く噛んだ後、反応の薄さに呆れたのか、わざとらしく舌舐めずりをしてみせた。

「おい。ちょっとはムードってやつを読んでくれよ……『何がしたい』、だろ?」

「……お前」

「いくらほしい?いくらでもやるから、可愛がってくれよ」

「……」

「あれから、誰とヤっても寂しいんだ。アンタじゃなきゃダメなんだよ……」

じっと見つめる目に熱が移されそうだ。

「……言っただろ、お前から仕事は受けない」

「プライベートなら、話は別ってことか」

「好きに取ればいい」

もう一度唇が絡む。嬉しそうな舌が、すがりつくように中を探ってきた。預けられた体重でスツールが小さな音を立てた。

「……っ、ふ」

押し付けられる唇は、懸命に喋っていた言葉では伝えられない激情を訴えていた。上顎の裏をべろりと舐めとってくる舌を、優しく引き寄せる。擦れ合う頬が熱くなり、男の息が荒くなっていく。隣に座っていた体が重心をこちらへずらして、腰が両膝の上にずしりと乗った。

「んっ……ッ」

腹を緩やかに起伏させて、昂った熱をこれ見よがしに押し付けられる。太腿の血流が止まりそうだった。使い込まれたスツールが軋み、体が傾きそうになる。

「っ、お前……重いんだよ」

すでに呻き始めた唇を避けて忠告するが、聞く様子はない。またがって離れない尻を掴み、革のベルトを引っ張り上げた。歓喜に近いため息をあげた男の顔は、うっとり火照っていた。

「……しょうがねぇ、奥連れてってやるよ」

 

バーのバックルームは倉庫のように狭苦しい。共に倒れ込んだのは、分厚いラグを敷いたアンティークソファだ。普段はベッド代わりにしているのだろう。二人分の体重で革が摩擦し、古い木の床がわずかに軋んだ。

男を組み敷き、シャツの上から腰を抱き寄せて、浅い息を口で塞いだ。

「ん、んッ」

唇をついばみながら、さりげなく部屋の周囲に目をやった。

初めてこの店に来た時、男はこの場所に案内してこなかった。キャビネットや壁には、少し前までそこにあった何かを取り払ったであろう形跡がいくつもある。見るからに不自然だった。この店の古めかしさは、数代を継いで守ってきた歴史の表れだ。かつて飾られていたのは、きっと家族との写真や思い出の数々だ。どこにいても悲しい記憶に視界を塞がれて、逃げ場のない焦りと寂しさが男をここまで追い詰めてしまったのだろう。

筋肉でふっくらと張った胸に顔をつけて、小さく尖った乳首を口に含んだ。舌で絡め取り、跡がつくほど吸い上げてやる。

「は、ぁう……」

相変わらず敏感な反応だったが、顔つきや身体に不審な様子はない。体が欲している刺激を与えられて、純粋に興奮しているようだ。今夜は本当に「シラフ」らしい。

互いに服を脱がせながら、肌の暖かさを確かめるように触れ合った。男はむず痒そうに腰をひねり、まとわりつく衣服を蹴り払う。ソファの背もたれに自ら脚をかけて大きく開き、あらわになった秘部に指を這わせて、視線を誘った。

「俺のここ、何で絵描いてんのか、気になるだろ……?」

「……どうしてなんだ?」

不可思議な刻印にまみれた長い指が、すでに紅色に染まった肉孔へ今にも入ってしまいそうだ。

「俺の相手……タトゥーアーティストってやつでさ。ここに彫りたいって言ってきたから、OKしてやったんだ。あいつになら、何されてもいいって思ってたからな。次に指だ……掘る順番おかしいって?裸になってじっくり見る場所が優先だろ。裸じゃない時はこの指を見て、一日中あいつの事を考えてた」

「……」

「いつか全身、あいつの絵でいっぱいになるはずだったのにな……途中で逃げられちまった。死んだのかな、わかんねぇけど」

「……他の男の話か。聞かなきゃよかった」

「恋人面かよ……似合わねぇな」

言葉を返さずに、脚を割り開いて顔を埋める。驚きと喜びの混じった嬌声を聞きながら、舌に唾液をためて、柔らかく盛り上がった秘部を舌でこじ開けた。

「ぁ!は、あぁ」

下腹がうねり、入口が待ち兼ねてとくとくと疼き始める。

「ぁ、もっと、中、なめて」

弛緩と収縮が止まらない粘膜の奥に、そっと舌を埋め込んだ。唾液をすすり、陰嚢の付け根に鼻を押し当てて熱い肉を貪った。

「あぁ、ぁっ!……ん、いい、っうぁ」

太腿に、小さな汗が玉の粒となって浮かび上がる。入り口をほぐしながら顔をゆっくりとずらし、片手で男の陰茎を優しく扱いた。すでに十分な血が集まっているが、焦らすような摩擦を与えると先端が透明な蜜をこぼし、ぬるぬると光る。

「あっ!それ、ん、一緒にすんの、やばい、ン、んっ」

開いた太腿の内をひくつかせ、こちらの与える刺激に陶酔している。肉の穴から舌を抜き、次ははち切れそうなほど反り返ったペニスを根本から舐め上げた。

「あ!うぁ、あ、あッぁ……!」

男がたまらず髪を掴んでくる。小刻みに震える芯を口の中の全て使って包み、緩慢だが強い力で吸引した。

「ん、ふ……っ」

喉奥から、無意識の内に男の肉を味わう声が漏れてしまう。ぴくぴくと蠢く亀頭から染み出した愛液を吸いながら、ほぐれた秘部に指を添えて、慎重にねじ込んだ。

「ぁ、っん、くぅ……!」

手のひらで尻の割れ目を固定し、中をくすぐりながら奥を開く。指の付け根まで満たしたら、内側から腹をなぞるように引き抜き、そうして敏感な場所を繰り返し撫で続けた。同時に口の中では執拗に亀頭をもてあそび、細かな血管が集まった裏筋を舌の根で揉みしだいた。

「あ、い、ぃっ、きもち、ぃ、ぁ、あぁ」

男は背を反らせて、浅く続く快楽に耐えていた。いたずらに指を抜くと、小さな空洞が刺激を求めて切なく開閉していた。虐められて我慢できなくなったのか、男はペニスを痛ましく屹立させたまま、焦れたように上半身を緩く起こした。

「なぁ、……俺にも、やらして」

「ん……」

体勢を変えるとすぐに腰に抱きつき、熱い息のこもった舌に陰茎を包まれた。

顔で円を作りながら先端を舐める舌が、無数の触手のようだ。そのまま奥へ引き込まれ、舌と喉肉が全体をきつく締め上げる。

「はぁ……っ」

こらえても、声を伴った息が上がってしまう。髪を撫でてやると、褒められている気分なのか嬉しそうな声で呻き、待ちかねたように首を前後に揺すり出した。

口の中が熱くぬかるみ、唾液が次々に溢れて腹へ溜まっていく。男は己の口内そのものが性感帯であるように、感じ入った声で更に激しく扱き始めた。

「んぐ、ぅ……んく、んっ、ン」

喉のうねりとともに、男の嗚咽が粘膜に直接響く。ずきずきと痛みを伴う刺激で眉根が歪み、腹に取り付いた髪を鷲掴んだ。指で深くかき分けた頭皮は熱く汗ばみ、まだ離してくれそうにはない。両手で頭を捕らえて前後に動かし、柔らかくも窮屈な男の口内に身を預けた。

「ん、く……、」

射精するには緩いスピードだが、永遠にまとわりつく心地よさはいつまでも味わっていたくなる。息を合わせてしばらく没頭した後、時間をかけてそこから引き抜いた。男の口から泡の混じった真っ白な唾液がこぼれ落ち、赤い舌が舐め拾う様子は待ち焦がれた餌を待つ獣のそれだった。

 

ソファに寝転がった男は、再び自らの脚を開いた。その間に腰を割り入れて、糸を引いた陰茎を肉襞に沿わせる。

期待で赤く染まった秘部を見下ろし、溶け合いそうな粘膜同士を触れ合わせた。夢でも見ているような顔を手のひらで撫でて、言葉はなく男へ問いかけた。口を半開きにした男と目線を交わしたまま、十分に滾った肉の入口にペニスを押し当て、口付けるようにそっとこじ開けた。亀頭がくぷりと埋まると、それだけで男の全身がわなないた。

「ぁ……ぁあ、ぁ!」

腕に抱いた体が震え上がる。息を深く吐きながら、緩慢に中をかき分けた。これ以上ないほど奥まで身をうずめて、息を吐き切った。

「あぁ……ぁ、は……」

男が腹をひくつかせる度に、そこは肉の喉輪のように脈打ち、迎え入れたものを加減なく絞ろうとする。

気怠いため息と共に、ゆっくり腰を動かした。自分でもされた事がないほど緩やかに、寂しそうに疼く場所へ慰めを与えた。

「は、ぁ、あぅ……っ」

腰を引けば、逃すまいと肉が吸い付く。飢えた腹の中を抉りながら、男が自分に見せてきた色々な表情を一つずつ思い出した。人を食ったように笑い、挑発的な言葉で孤独を隠す唇。悲しみと紙一重の、怒りに濡れた目つき。自分にはない、いや、心の中で死んでいたと思っていた懐かしい表情だった。

しかし、懐かしむのはこの一晩きりだ。この男と自分は、孤独同士で居場所が隣り合っただけの、混じる事はないただの二つの分子だ。こうして恋人のように抱き合うのは今日が最初で、そして最後でなければならない。

深い呼吸と共に緩やかに肌を合わせながら、彼の名前を思い出す。

「……エリオット」

「……ん?」

しばらく呆けた顔で、男はこちらを見上げていた。自分がつぶやいた言葉を、すぐには理解できなかったらしい。幼子のような反応に、思わず口の端が持ち上がってしまう。

「どうした、エリオット」

もう一度呼ぶ。次は俄に反応が変わった。驚いていたが、徐々に困ったように歪んでいく。

「……なんで、だよ」

「なんで、じゃない。お前はエリオットだろ」

男はしばらく言葉を出せずにいる。目の縁が充血して潤み、涙を堪えているようだった。それでも喉を鳴らして息を整え、声を絞り出して答えた。

「俺は……っ、知らねぇ」

「……」

「アンタの本当の名前、知らねぇ。けど、本当の名前呼んだら、アンタは今すぐここからいなくなる……そんな気がすんの」

男の目は、どこにもいない人間の後ろ姿を見つめていた。他人の機嫌や隠し事には人一倍鋭いのだろう。名前を教えたあの時は関心のないふりをしていたが、偽名を名乗った事には気づいていたようだ。

「ああ、教えない。お前なんかに教えてやる訳ないだろ」

耳に口をつけて、他の誰にも聞こえないように囁いた。

「だから、今日はずっとここにいる」

男の喉からわき上がった声は、嗚咽とも歓喜ともつかない、ただ純粋に燃え上がる感情の塊だった。

 

衣擦れを大きく響かせて体を起こした。ソファの背にもたれると、追いかけるように膝の上にまたがってくる。自ら熱い肉を開いて、根本から先端までみっちり吸い付くように受け入れた。

「ん、っはぁ……」

意識が飛ぶのをこらえるように男は肩にすがりつき、腰を前後に擦り付けた。再び一つに溶け合う心地よさで、互いに腕を回して唇を貪った。

男に動きの主導権を委ねたまま、首筋にキスをする。顔をずらして左右に一度ずつ唇をあてた。喉から漏れる唸り声は、触れるほどの軽微な刺激では物足りないとわかりやすく訴えていた。

弾力のある頸動脈に軽く歯を立てて、すでに汗だくの皮膚を噛みながら吸い上げる。

「あ、もっと、強く吸って」

吸っている方まで痛くなるほど音を立てた。肌が鳴るたびに体が跳ね上がり、繋がった部分が何度も大きくうねった。暗がりでもわかる濃い鬱血痕を残しながら、男の腰を手で押さえつけた。尻に埋まったペニスを引き抜いていく。もう少しで亀頭が抜けてしまうのを敏感に察知したのか、決して逃すまいと強く収縮し、くびれから鈴口までを強烈に締め付けられる。一瞬の眩暈をおぼえ、背筋が震え上がった。

「はぁ……っく」

汗で滑る尻を掴み、力強く包む肉の中へ、一気に熱を埋めた。下から重心を押し上げられた男の息が小刻みになり、天井を向いたままぶるぶると身を震わせた。

「は、ぁあ、ひぁ、……!」

感度を増して従順な性器と化した排泄口から、再びぎりぎりまで引き抜き、また奥を支配した。徐々にペースを上げて、男の体が軽く弾むほど追い詰めていく。

「あっ!あっ!あっ!はぁ、あぁ……っ!」

男の息づかいに合わせて中が規則的に蠕動する。時折ねじるように背中側を突き上げながら、乱れ狂う男をじっくり見上げた。

「ぁあ、あぅ、っ、いっ……いい、きもち、ぃ」

今までに二度抱き会ったが、男から発せられていたのは、薬の興奮に引き摺られた、どうしようもなく下卑た喘ぎ声だった。今は違う。懐かしい思い出に甘えるような、感傷を絞り出した切ない悲鳴を上げ続けていた。

張り付いた肌が熱い汗を滴らせ、互いの体の境目を溶かしていく。

腰に両腕を絡ませて、盛り上がった背中の筋肉を掴みひたすら奥を貪った。ごつごつと体がぶつかり、粘った肌の音と、硬い布が軋む音が重なった。

「ぁん、いっ、そこ、好き……すき、ぃ」

胸筋が目の前で反り返っている。噛み跡のついた胸に顔を押し付けて、大きく音を立てて吸い上げた。こちらの髪を無造作に掴み、自らの胸に引き寄せて離そうとしない。

「あぁ、あは、ぁ……!あッ、ひ、……いい、」

衝撃で揺れるペニスから薄い涎がこぼれていく。限界を訴えながらも、淫らに揺らめく腰は貪欲だった。

「ッあ、……ッ!いく、いっ、く、……あ、ぁ、あ……!」

腹筋が取り憑かれたように震えて、体格からは考えられない小さく高い声で鳴き声をあげた。

粘度のある汗が噴き出し、根本を飲み込んだまま何度も秘部がひくついた。ポンプのようにうごめく肉に隙間なく包まれて、体中の水分が奪われそうだ。視界が一気に狭くなり、張り詰めた衝動が腹の底から押し上がった。

「ん、っ……!」

男の背中を強く抱き締め、熱くたぎった肉穴に精を吐いた。密着した男は深い息をつきながら、続けざまに放たれる欲望を受け止めた。

気が済むまで搾り取った後も、男はそこを締め付けたまま離す様子はない。しっとり濡れた頬を押しつけ、射精したばかりで感覚の鈍った舌を強気に吸い上げてくる。

「ん、ふっ……ン、ん」

愛おしげに口づけを楽しんだ。擦れ合う秘部からは、白い粘りが次々に滴っていた。溢れるほどの精液で潤った中を、男は腰を円状に動かしながら堪能する。やがてその動きは、上下にあやしく波を打ち始めた。

「は……っ」

血流が暴れ出す音を耳に感じ、体が熱くなる。男に強く包み込まれた陰茎は、抉るための形を再び取り戻していた。

互いを食い合ったまま、男の体を再びソファへ押し倒した。

とろりと上を向いた目に瞼がのし掛かり、眠気に近い感覚を持て余している。ゆるく甘い絶頂の波に身を預けているようだ。痴態を見下ろしながら両脚を押し広げて、体を密着させる。そのまま、男の腰が浮くほど奥までペニスを突き入れた。

「ひ、ぁは、くぅ……!」

男の太腿から足先へかけて震えが伝っていく。二、三度の抜き差しだけで、精液で潤った媚肉はぐちゅぐちゅと鳴き、白い泡になって尻へ流れた。まだたっぷり詰まっている粘液をかき混ぜるように、少しずつピストンの動きをつけていく。

「はあっ、あ、あっ、はぁ……っ」

熱に浮かされた顔で、男がか細い悲鳴をあげた。逃げる場所などないが、それでも逃がさないように背中を強く抱いた。ペースを奪った事を示すように、ソファを重く軋ませながら能動的に腰を動かした。

「あ、あ!っは、はあっ、あぁっ」

頬のあたりで感じる首筋が、痙攣に近い動きで甘い声を絞り出していた。まだ頭にしがみついている理性を揺り起こす。体重を男にかけて顔を掌で包み、囁くように聞いた。

「……エリオット、これか?」

「んッ!ぅん、それ、い、いっ!きもちい……」

されるがままに開いていた両脚が、強い意志を持って腰に絡みつく。応えるように、真上から続けて叩きつけた。肌を打つ鈍い音が響き、ソファが規則的な軋みをあげた。

「あっ!はぁッ!はぁ、はっ、あっ、いぃっ、っあ、あ!あっ!あぁ!」

裏返った声で呻き、熱気のこもった顔が上を向く。体を貫かれるたびに、目尻からは小さな涙の粒が光りながらこぼれていた。頬に舌を乗せて涙の跡を拾い、啜り泣く唇を何度も吸いながら、男の肉体に己の本能を預けていく。

「うぁ、ぐ、ぁ、ぁあ、あ、いい、い!すき、すき、すきぃッ」

横に開いていた口が、興奮とともに縦に広がり始める。息が深くなり、太腿の汗が一層じっとり粘ってきた。

「あっあ、ぁ、またいく、いく……ぁ」

絶頂を恐れるように大声で泣き叫んでいた男は、呼吸の仕方を忘れたように小刻みに喉を震わせる。やがて抱きついたまま硬直した。

「あぁ、あっぐ……んっ!……ッ!ぁ……!あ……っ!」

短い悲鳴を続けて漏らした後、男から全身の力が抜けた。喉をのけぞらせたまま、深い呼吸に溺れている。しかし、熱い肉壺はまだ貪り足りないのか、びくびくと連続して凄まじい収縮で襲ってくる。中を突くたびに体が痺れる。繋がった部分から体を全て丸呑みにされそうだった。背中を抱き、髪を掴んで男の底知れない秘部の最も奥に向かって熱を突き刺した。

「ッく、ぁ……!ッ……!」

豊かな胸筋に顔を押し付け、声を押し殺した。脈動のままに腰が跳ね上がり、待ち構えていた場所へどくどくと精液を注ぎ込む。獰猛な息を吐きながら波打つように腰を揺らし、ちぎれそうな程にきつい肉で根元から先端を扱いた。

背中に取り付いた男の指先が力を取り戻し、杭のように肌にめり込んだ。しがみついたまま、何かを訴えるような啜り泣きに近い呼吸が切なく響く。

「はッ……ひぁ、は……あぁ、あ……」

波状に押し寄せる快楽の最中にいるのか、密着した男の体がひとりでに痙攣している。重なった腹筋の間に、汗とは違う生温かい液体の感覚が広がっていた。とっくに絶頂に達していたが、そこはまだ貪欲にペニスを咥え込み、ほとばしる濁りを美味そうに飲み込んでいた。

腰を揺する度に精液が泡と共に吹き出して、陰茎を伝い流れ落ち、ソファを遠慮なく汚していく。眉を寄せて奥歯を食いしばり、疼く腹に力を入れた。どくりと噴き出る精を吸い上げて、目の前の肉体が一際淫らに反り返る。本能が深く満たされる快感に、大きく身震いした。

「はぁっ……、は……っ」

最後の一滴まで絞り出し、男を抱いたまま深く呼吸をした。淫猥な音と共に引き抜いた陰茎は濃い白濁にぬめり、芯はひたすらに脈を打っている。恍惚状態が長く尾を引いていた。

朦朧とした視界で肌をずらした。男は息絶えそうな浅い息で、こちらを見上げている。頬を汚す涙を拭おうともしない。下腹から胸にかけて、真っ白に濁った液体が飛沫となって溜まりを作っていた。

どちらからともなく、無言で唇を味わった。時折こぼれる吐息は疲れ切っていたが、少し笑っているようだった。

 

 

カーテンの向こうでは、まだ雨が続いている。

脱ぎ散らかした服を寄せ集めながら、ソファで眠ってしまった男の顔を見下ろした。乾き始めた額に、汗でねじれた髪が絡みついている。起こさないように指で毛先を撫でて、一度だけ頬に触れた。

「……」

初めて会った時、客だった男を確認するための合言葉が頭の中にふと蘇る。

『その夜だけは、俺を心から酔わせてくれたのに……今じゃ、どこにいるのかわからない。蜃気楼みたいに遠い場所に立って、俺を笑ってるのかもしれない』

(蜃気楼か……)

口の中で反芻した後に、ふと思う。自分は以前から、この男を知っていたのかもしれないと。直感的にそう感じたのではない。男に出会ってから蓄積されてきた、無数のノイズに導かれた結果の感覚だった。

それらは遠い時間をかけて記憶の間に紛れ、すっかり澱と化していたものだ。

……マーシナリー・シンジケートが設えたAPEXゲームの技術室。戦争のもたらした傷跡はまだ癒えないが、争いはいつの時代も金になる。命をかけた戦いを見応えあるショーにするには質の高い技術が要る。ここにいる自分達は、間違いなく選ばれた存在だった。隣でラップトップのキーボードを叩く彼女の横顔は、まるで玩具を自慢する子供だ。血生臭い戦場であるアリーナを、いつも二人で創造神の心地になって見下ろしていた。

その地上に、一人のおかしな男がいた。ゲームに参加するのは後に戻れない理由のある人間がほとんどだ。家族のため、復讐のため、奪われた自由や権利のため。しかし彼は人生において一つの悩みもないような、ひどく陽気な男だった。ホログラム技術で己の虚像をいくつも作り、前線を大胆にすり抜け、敵や味方を無差別に惑わせる。きっと勝つためではなく、血と名声を浴びる事を心から楽しんでいるのだろうと思っていた。……今夜その心の奥底を覗き見るまでは。

「!」

そこまで考えて、我に返る。目を離す前と変わらない寝顔が、穏やかな呼吸を繰り返している。

(……こいつだったら、何だって言うんだ)

足元に目を逸らし、カーペットに脱ぎ捨てられた男のブーツを意味もなく見つめた。

あくまで不確定な情報から繋ぎ合わせた、想像がもたらしたバイアスだ。本当に奴がどこの誰だったのか、今となっては分からない。自分にとって、ゲームのプレイヤーの情報など、膨大に積み重なったログの一つでしかない。ここにあるのは頼りない記憶を継ぎ接ぎした、……ただの抜け殻だ。

ローテーブルに丸まっていた薄いブランケットを、男の体にかけた。手短に着替えを済ませて、バックルームから静かに店内へ出た。

 

店の隅に設られた洗面台で髪を整えていると、背中に他人の気配が近寄ってくる。正体はすぐにわかった。鏡に動きが丸写りだったからだ。

「……起きたのか」

ブランケットを頭からかぶった男が腕を巻き付かせている。驚かせるつもりだったのだろうか。

「やっぱり行っちまうんだな」

「……ああ」

「今日は、ずっといてくれるんじゃなかったのかよ」

「時計を見ろ。もう0時過ぎてる」

「はあ?おとぎ話かよ」

うんざりした声を寄越したが、次にはまばたき一つで色を変えた。

「な。……もっかいしようぜ。まだいけんだろ?」

男は洗面台に手をつき、体を押しつけて圧迫した。掌が服の上から太腿を撫で上げ、機嫌を取るように柔らかく握り締めてくる。

「時間切れだ」

手を退けたが、男は引かない。

鏡の中の腕に抱き寄せられ、揺れた視界に一瞬戸惑う。目の前には本物の男の顔が迫っていた。

頭を隠していたブランケットが、肩口から胸元を晒しながら落ちる。肌にいくつもついた赤い跡が、褐色の肌に生々しく映えていた。

「知ってるか?『嘘』ってのは、この世界じゃ一番安い薬なんだよ」

「……」

「アンタはとんでもない嘘つきだ。どこに行くのか、何をやらかしに行くかは知らない。知ったこっちゃない。けど、俺はどこにも行かない。この店でずっとアンタを待ってる。だから、また帰って来いよ。嘘でもいい、約束してくれ」

目が潤んでいるのは、さっきまで共有していた熱の名残だろうか。何も言わずに、無防備を装った唇に指でそっと触れた。少しの抵抗もない、なすがままになった男の唇。顔を軽く傾けて、一度だけ口付けた。男はただ黙って、体の自由を全て預けていた。

顔を離して、男の視線を受け止めた。濃い睫毛に囲まれた琥珀色の目が、陽炎のように切なく揺らいでいた。

「これでさよならだ。……エリオット」

濡れた唇が一度だけ緩く開いて、閉じる。そして、初めて感情を知ったように、ぎこちなくゆっくりと吊り上がった。

「くくっ……。やっぱり、俺はアンタが大嫌いだ」

 

 

どす黒く濁った空に向かって傘を差した。ぼやけたネオンの合間が不自然にきらめいている。傘の表面を叩く雨音に混じり、異質な音が背後の空から迫っていた。光をまといながら街の隙間を駆けていく、電子の羽虫。監視用のスパイドローンだ。かつてこの手で生み出した技術が、今は日陰者に成り下がったマスターの行方を探し回っていた。

傘を深く傾け、うつむいた。視界に降りた深い影の中で、いくつもの彼の記憶が水滴のように混じり合い、歪で、ひどく美しい闇となってこちらを手招いていた。

(不確かなものは要らない。嘘も、幻も。俺が欲しいのはお前じゃない。……どこにも逃げない、真実だけだ)

吐き捨てて、ぬかるんだ道に一歩を刻みつけた。

渇き切った星で奇跡のように降り注いだ雨は、一晩中やむ事はなかった。