刑務所の外壁は茨のようなバリケードと、悪趣味なガイコツ柄の防護シートに全面を覆われている。耐水合板を打ち付けて塞いだ窓に日光は入らず、時計を見なければ今が昼なのか夜なのかもはっきりとしない。法務機関としての佇まいは完全に失われ、ライカーズの趣味にリフォームされた悪の居城と化していた。
 テオは最上階のセキュリティルームで、昨夜からネットワーク機器のアップデート作業に追われていた。アクセス権限を失ったISACに代わる新しいAIを装備品に組み込んだ事で、情報共有の質は格段に良くなった。現状ではこれまで通りISACと呼んでいるが、人数分のアップデートが終わったら、記念に新しい名前を考えてやった方がいいだろう。
 眼鏡を外して背伸びをしながら、モニタールームの天井を見上げた。睡眠不足の目に、白熱灯の光が強く染み込む。デスクの上に置いたスマートウォッチに目をやると、日付は変わり午前一時になろうとしている。警備のシフトが切り替わる時間だ。ジャッジから見廻りの結果と、必要な物資の報告を聞かなくてはいけない。それを考えると少し気分が重くなった。

 シビックセンターを制圧した後、キーナーはドラゴフへ指示を出して、テオの元へライカーズの人員を寄越した。つまりはテオの護衛だ。刑務所は頑丈な作りに加えて、人が寄り付く理由もない。司令部を構えてプロジェクトを進めるには都合がいい場所だった。だからこそキーナーはこの場所を考えてくれたのだが、何も護衛までつけて欲しいと言ったつもりはなかった。
 派遣されたライカーズのまとめ役がジャッジという男なのだが、初っ端の挨拶から不遜な態度を隠そうともしなかった。はじめはテオの仕事道具を冗談めかした言い方で馬鹿にした。その後も度々テオに対して、下に見るような言動を繰り返した。テオの得意な領域に無理解を示すだけならまだマシだ。動物が火を恐れるように、未知の存在を受け入れられないのは仕方がない。しかし無理解を超えた彼の悪態の数々は、どうにも腹立たしかった。
 ライカーズは名前のとおり、ライカーズ島の脱獄囚を中心としたギャングの集まりだ。厳粛なる法が住まう場所に住み着くとは、随分な皮肉だと思う。
 もっとも、今のアメリカは法治国家としての機能を完全に失っている。誰を生かし、誰を殺すかはディビジョンエージェントの権限に委ねられている。政府にいいように使われているとも知らず、正義のヒーローを気取るディビジョンがのさばっている限り、この国は腐敗し続ける。やがて未開の沼地に戻り、新たな支配者を待つ事になるのだ。そうして歴史は繰り返される。

 ジャッジからの報告を聞いたら、三時間ほど仮眠を取りたい。アラームを設定しようと考えていたテオの耳に、スマートウォッチの電子音声が飛び込んできた。
『警告。エリア内にJTFの戦闘員を検知』
 画面をタッチして、侵入者の情報をラップトップで確認する。それから、少し考えた。普通なら警告が来た時点ですぐにジャッジへ連絡をするのだが、テオはこの所ずっと頭の中に取りついていた鬱憤を、どうにかして解消したかった。わずか一分程のシミュレーションだったが、頭の中でうまくまとまった。ジャッジへ無線を繋いだ。
「ジャッジ、聞こえてる? テオだ」
「何だ。定期報告はこっちからするまで聞くなって言っただろ」
「それは後だ。JTFが建物に入ろうとしてる。正面玄関の方に五人、あと二百メートルで到着する。それから西のビルにスナイパーが一人。こいつはたぶん屋上だ」
「はっ、ネズミより頼りねえな。すぐ駆除に向かう。お前はそこでいつも通りオモチャで遊んでろ」
「いや、今回は僕も手伝うよ。スナイパーを狙うのにちょうどいい場所がある」
「悪いが忙しいんでな。ジャッジ、アウト」
「ジャッジ? おい、聞いてるのか?」
 何度か声をかけたが、無線機から反応はなかった。来るなという事だろう。舌打ちしながら、テオは荷物をボディバッグにまとめて、ベルト部分にスマートウォッチを巻いた。最後にデスクの下からMk20を取って、慎重に肩に提げた。

 セキュリティルームを出て、廊下を左に曲がると資料室がある。不要な物を詰め込んだ倉庫になっているため、部屋は散らかり放題だ。ランダムに転がったコンテナをまたぎ、壁際に身を寄せた。
 テオの目的は、西通りに面したこの壁だった。窓は侵入防止のため全て塞いでいるが、壁の一部が銃撃で損壊している。目隠し代わりの石膏ボードを外し、防護シートのつなぎ目をめくれば外の様子が覗ける。腰の高さから上に五十センチほど空いた穴だ。外から見られずライフルを構えるのには最適のポイントだった。
 コンクリートの裂け目にMk20の胴体を固定してスコープで覗き込み、ビルのスナイパーを観察した。八階の屋上にうつ伏せで位置を取り、大きく動く様子はなかった。ISACからのHUD情報によれば距離は七三メートル。周囲に積み上がった廃材から細い布きれが伸び、南東の方向に大きくはためいている。風は強いが、スコープには暗視機能の他、弾道計算MODを組み込んでいる。タイミングを外さなければ大丈夫だ。
 大きく息を吸い、ぴたりと止めて神経を研ぎ澄ます。MODの表示通りに照準を定め、二発続けてトリガーを引いた。7.62mm弾が肩と頬を撃ち抜いて、周囲に血飛沫が広がった。遠吠えのように空気中へこだまする銃声を、地上の連中は気にも留めていないようだった。達成感と共に軽い吐き気がしたが、肩で大きく息をして頭の空気を入れ替え、ジャッジへ無線を繋いだ。
「ジャッジ。屋上のスナイパーをやった。他にサポートは要る?」
 無視されると思ったが、応答が返ってきた。雑音の中に混ざる銃撃、そしてジャッジの苛ついた声だった。
「いいか、余計な事はするな。俺がドラゴフにどやされるんだ。わかったら引っ込んでろ」
 通話ボタンから手を離して「ろくでなしの犯罪者め」とマイクに向かって言い捨てた後、ライフルを壁に立てかけた。ボディバッグからドローンを取り出し、足の関節部分へ四基のデコイを、ストラップのように吊り下げた。ラップトップを開き、自動操縦の指示を出す。丸い翼を広げたドローンが、壁の裂け目から静かに飛び立った。ここからは正面玄関の様子を正確に確認できないため、ラップトップの画面にドローンのカメラ映像を大きく表示した。

 地上ではライカーズとJTFが汗臭い銃撃戦を繰り広げている。そこへ一基のドローンが飛来し、等間隔にデコイを設置した。煙と共に、ライカーズのホログラムが現れ一斉に銃口を向ける。予想通りJTFは慌てふためきホログラムへ向かって発砲するが、その内二人は迂闊に物陰から頭を出したせいで、マシンガンの銃弾を浴びる破目になった。正面玄関のライカーズはホログラムを含めて十五人。それに対して、残ったJTFはたったの三人だ。
 彼らはどう見ても自棄になっていた。おそらく従軍経験の浅い、ボランティアの民兵だろう。ここがJTFの盲点だった。アウトブレイクによる人口の急激な減少を受けて、生き残った警察・消防・軍隊で再編成されたのがJTFの概要だ。それだけでは十分な数にならず、政府はさらに一般人を民兵として組み込んだ。絶対数が増えたとしても統率力や戦闘力は落ちるし、個人差のせいでチームの能力にも大きなムラが出ると、予想はできていたはずだ。
 勇敢な軍人は戦略的撤退を知っているが、無謀な市民は追い詰められるとパニックに陥り、こうして自殺志願者のように敵前に飛び出してくる。やはりJTFはろくでもない組織であり、政府の期待に反して全く成果を上げられなかったのも無理はない。

 戦況は数分で終わりに向かいつつあった。生体反応を停止したのはスナイパーを含めてJTFが五人。ライカーズは一人軽傷だ。あと一人を始末すれば、防衛は成功する。しかし、しばらく待っても動きはなかった。ISACからの通知もない。戦線は沈黙し、やがてライカーズ達は銃口を下ろして死体の様子を確認し始めた。
「……」
 まさかこの状況でライカーズの攻撃を潜り抜け、逃げたのというのだろうか。一人で基地に逃げ帰ったとしても、この戦力差を思い知った後なら、報復に来るかどうかは疑わしい。
 とにかく状況をジャッジに連絡した方がいい。返事がなくてもマイクで一方的に情報を伝えれば、後は彼らが判断するはずだ。テオはラップトップの画面を視界に留めつつ、無線機に手を伸ばした。
『付近に市民の生体反応を検知。所属、不明』
 ボディバッグに巻いた時計から音声が響き、背筋を緊張が駆け上った。
「誰かいるのか?」
 振り向くと、開け放たれたドアの前に、アサルトライフルを腰だめに構えた男がいた。目が合うなり銃口を向けられる。足を踏み込み、書架の影に転がり込むと同時に銃撃音がけたたましく鳴り響いた。無造作に積み上げた本やファイルケースが派手に崩れ、視界にはスモークのような埃が立ち込めた。カバーの体勢で腰のハンドガンを抜いて、安全装置を解除する。心拍数が一気に上昇して息が上がり、両手で祈るように銃を握りしめた。おそらくこいつがJTFの最後の生き残りだと直感した。しかしなぜISACの検知を逃れ、こんな所まで来れたのだろうか。
 コンテナを蹴り飛ばし、再び男が現れた。距離は約四メートル。今撃たなければ一瞬でやられる。大股で駆け寄る男に向かって続けざまに二発撃った。わずかに逸れて天井にめり込んだが、一発は確実に肩に当たったはずだ。過剰なアドレナリンで痛覚が狂っているのか、叫び声を上げながら男は銃のグリップを振りかぶり、ほとんどタックルの状態でテオを殴りつけた。全身に強い痺れが走り、バランスを崩したテオは床に倒れ込む。手から離れたハンドガンが床を滑り、壁際にぶつかった。
 最悪の展開だった。時間が重たくゆっくりと流れ、動けない体の代わりに頭の中が目まぐるしく動き始めた。この距離で銃撃しない所を見ると、マガジンを使い切ってしまったのかもしれない。まだ弾があると思わせるブラフだとしても、テオには対抗するための手持ちの武器がない。窓際に置いたライフルもここからでは距離が遠すぎる。決まっているのは、立ち上がるまでにあの鉄の塊で、今度こそ確実に頭を殴られるという事だ。絞られた選択肢は二つ。このまま頭蓋骨を破壊されるか、防御のために腕を一本犠牲にして、再び立ち上がるかだ。勝算は少ないが、相手も躍起になっている。防御した後に隙をついて膝を蹴り飛ばせば、きっとハンドガンを拾いに行ける。体感よりずっと短い、一秒前後の時間。己の生存本能に従った判断で、テオは左の頭をかばった。
 同時に、二発の銃声が響いた。触れるほど迫った男の体が二度弾み、最後に頭へ一発。血と脳漿を噴いた体がテオの足元に倒れ込み、それっきりピクリとも動かなくなった。
『生体反応ゼロ、市民の死亡を確認』
「無事か? テオ」
 通知に重なる聴き慣れた肉声に、テオは顔を上げた。扉にはキーナーが立っていた。朝のブリーフィングで呼びかける時と変わらない、静かな声だった。ブーツをゆっくり鳴らしながら歩み寄り、構えたままのハンドガンからは細い硝煙を立ち上らせていた。
「ああ……何とかね」
 震える手で眼鏡を押し上げた。足元で沈黙した体には、既にオイルのような血溜まりが広がり始めていた。

 死体を保護シートに包み、医療室に運んだ。一対一でやり合ったが、JTFにしては出来る奴だった。しかし、あまりにも勇敢すぎた。アサルトライフルを回収して弾倉を確認したが、予想通り弾薬は入っていなかった。
 エレベーターへ向かう途中、廊下でライカーズの巡回と鉢合わせた。テオから一通りの状況を説明したが、「ジャッジに伝えておく」と極めて事務的な返事を残して去っていった。もう少しで大事な護衛対象が死ぬかも知れなかったのに、他人事のような態度だ。ライカーズ達と話していると、疲れで一層体が重くなる気がした。
 セキュリティルームに戻り、ペットボトルの水にタオルを浸して顔と手を拭った。キーナーはモニターの前を歩きながら、監視カメラの映像やデスク周りを一つ一つ見ていた。現場を自分の目で確認する事にこだわる彼は、時折こうして様子を見に来る。定期的ではなく、多忙な仕事の合間を縫って突然やって来る事がほとんどだ。今回助けられたのも偶然の出来事だった。
 顔を見ると本来は嬉しくなるはずなのだが、あれだけの事があった。心身はいまだ強い緊張状態が続いていた。
「さっきのあいつ、警備を潜り抜けてきた。どうやってここに辿り着いたんだ?」
 キーナーはセキュリティルームの出口を顎で示した。
「この奥に渡り廊下がある。下からジップラインを使って登っていくのが見えた。追ってきたら、ピンチの君と遭遇した訳だ。JTFだったが、制服が汚れていた。私のISACではうまく認識できなかった」
 その説明でピンときた。死体のTシャツは出血も酷かったが、銃撃を掻い潜ったためか、かなり汚れていた。更に思い出してみれば、顔にも泥が付着して何者かを判別しづらい状態だった。
 ISACの生体認証システムは、服装や顔などの視覚情報をJTFのオンラインデータベースと照らし合わせ、一致したものを個人情報として通知する。人間と同じで、見た目の情報にかなり依存している。マスクをしていたら顔認証ができないのと同じ要領だ。精密だが、必ずしも正確ではない。
「なるほどね。僕のも同じだった。肝心な時に役に立たないなんて。もっとバージョンアップする必要がありそうだ」
「いずれにしても、刑務所に抜け穴はよくない。あの廊下は封鎖した方がいいだろう。念の為に、君が使っている『窓』もな」
「……わかったよ」
「それから、このフロアには人間が少なすぎる。これでは護衛を頼んだ意味がない。人数を増やして、二四時間体制で見張らせろ」
「……」
 今度は即答ができず、テオは口をつぐんだ。
 確かに警護を手配したのはキーナーだ。一度は断ったが、聞き入れてくれなかった。建物をここまで派手に飾り立てず一人で静かに潜伏していれば、攻め込まれる可能性は低い。ただし一人きりの状態で、さっきのような戦闘能力の高い人間に出くわす可能性もゼロではない。あらゆるリスクを考えた上で、キーナーの判断はもっともな物だった。しかし、このまま従うのはどうしても癪だった。
「何か不満があるのか?」
「ある……けど、ちょっと複雑なんだ」
「曖昧だな。具体的に説明してくれ」
 キーナーはデスクの端に軽く腰掛けて、腕を組んだ。背後から浴びせられるモニターの青白い光が、理知的な顔立ちに冷たい陰影をもたらしていた。
 あまり話したくなかったが、説明しないと納得してもらえないだろう。
「正直言うと、ライカーズとは気が合わない。特にジャッジ。腕は立つかも知れないけど、嫌な奴だよ。僕の事を貧弱なオタクだって見下してる。ライカーズは皆そうだ。あいつらに近くでウロウロされたら、逆に落ち着かないよ」
「君は海軍に所属していた。名誉ある経歴だ。卑下する事はない」
 その言葉を素直に受け取れず、首を横に振った。苛立ちの原因を口に出してしまうと引っ込みがつかず、ネガティブな感情が増幅してくる。
「アンタは実際キャンプ・レモニエで前線を経験してる。だからそう思えるだけだ。ジャッジは僕の仕事を聞いて、僕に何て言ったと思う? 『安全な部屋に一日中座って、言われた通りに敵をやっつけるテレビゲーム』だってさ。ドローンのパイロットがどれだけストレスを抱えてるか、分かってもいないくせに」
「テオ、」
「あいつらには協調性がない。普段からもっと協力してれば、JTFの侵入だって防げたはずだ。けど現実はこうさ。サポートしてやったのは僕なのに、礼の一つもない。むしろ邪魔者扱いされた。あいつらにまともな理屈は通用しない。何を言っても無駄なんだ。これがどういう意味かわかるだろ? 僕は最初から舐められてる。僕の経歴なんて、あいつらにとっちゃ始めからどうでもいい事なんだよ!」
 無性にイライラして、最後は怒鳴るようにまくしたてた。しばらく沈黙が訪れたが、キーナーはその間じっくり考えるように目を閉じ、「そうだな」と口を開いた。
「確かに我々はもう軍人じゃない、だからここには明確な規律がない。良くも悪くもだ。権限を個人に下ろし、各自が自己判断でスムーズに動けるように、意図的にそうしている」
そこまで言って、キーナーは数拍の間を置き、改めてテオを真っすぐ見つめた。
「つまりジャッジの発言が冒涜にあたるのかは君の捉え方による。だがそれでは君の気が収まらない。なら解決策を提案しよう。この現場のトップは事実上、君だ。これからは君の前で仕事以外の無駄口を叩いたら、即刻ペナルティを与えればいい。規律を作るのではなく、作ったところで守れないであろう人間から順番に黙らせるんだ。どうだ、シンプルだろう」
「……え?」
 思わず聞き返したが、キーナーはまるで新しいボードゲームの遊び方を説明するように、流暢に話を続けた。
「彼らはよそ者に厳しいが、非常に仲間思いだ。お互いを『家族』と本気で呼び合っている。そうだ、まずはジャッジ以外の『家族』を見せしめに使うのが効果的だろうな。どうする? もし不安なら協力してやる」
「そ、それは……」
 言葉に詰まり、彼の顔をまともに見る事ができず、目線が落ちて床の辺りを彷徨った。テオの頭は噴き出した怒りでいっぱいになっていたが、そこへ大きな動揺が生まれていた。
 テオが本来、規則やモラルに敏感な事をキーナーはよく知っている。そして彼が言う「ペナルティ」とは書類上の生優しい罰則ではなく、人の心を激しく震撼させるものだ。キーナーは話さなかったが、少し前にドラゴフと仕事上のトラブルがあり、ドラゴフの部下が一人犠牲になったと、他のライカーズが噂しているのを聞いた。それと同じ事が起きようとしている。テオがやりたくないと言えば、キーナーが代わりにやるかも知れない。いや、きっとやるだろう。
 ガスが充満しきった密室でマッチに火を灯すような、不吉で凄惨な予感に襲われていた。自分の機嫌一つで、気に入らない誰かが目の前から消える。一時の気が晴れたとしても、その先きっと重い罪悪感が付きまとうだろう。考えれば考えるほど、さっきまで煮えくり返っていたはずの頭が、少しずつ冷静さを取り戻してきた。
 ……ここでテオはようやく気が付いた。キーナーの意図は、その提案を本当に実行する事ではない。テオの想像力を掻き立て、恐れさせ、そして落ち着かせる事にあったのだ。
「いや……そこまでは、いいよ。彼らとは生きてる世界がまるで違うんだ。いちいち腹を立ててたらキリがない。そもそも、これは仕事だ。個人的な感情は関係ない。割り切るよ」
 自分に言い聞かせるように答えた。デスクから体を離し、テオに近付いたキーナーは少し姿勢を低めて、視線を合わせた。
「テオ。君は真面目で思いやりがある。そして何よりも優秀だ。昔から君の事は高く評価していた。でなければあの時、仲間に誘う事はしなかった。私のスカウトの信条は友人付き合いではなく、完全な実力主義だ。それは君もよく知っているだろう」
「あ……ありがとう」
「とんでもない。私の台詞だ。君の賢明な判断を信じて正解だった」
 感情をコントロールできずにいたテオに対して、キーナーは冷静な態度を一貫していた。もし彼に諭されなければ、どうなっていただろう。彼に向かって理不尽な怒りをぶつけてしまった事を、申し訳なく、恥ずかしく思った。
「あの、八つ当たりみたいな事言ってごめん。こんなつもりじゃなかった。最近、ジャッジとの事もあって、すごく気が立ってて……本当に悪かったよ」
 テオの謝罪に応えるように、彼の口元が柔らかく釣り上がる。先ほどまでのゾッとするような表情はどこかに消えうせていた。
「構わない。私も影では散々な言われようだ。主導権を握る立場にいると、周りの声がよく聞こえるようになる。全ての人間を平等に納得させる事は難しい。苦労はあるが、今の君の気持ちは誰よりも理解しているつもりだ」
 テオの肩を軽く叩くと、キーナーはその場から離れた。ホワイトボードで警備のシフト表をチェックし始め、監視カメラの映像にも目を向けている。
「……なるほど。この数なら上の階にも充分回せるな。ついでに見張りの位置も変えた方がいい。正面に偏り過ぎている」
 少しぼんやりしていたが、軽く頭を振って、ラップトップの画面ロックを解除した。
「了解。こっちでメンバーを選んで、マシな奴を手配するよ。あと、廊下だけど。建設現場から、余分なスレートをいくつか持って来れないかな。それからロープも……できれば番線か結束線だったら嬉しい。すぐに完全封鎖するのは難しいけど、バリケード代わりになりそうだ」
「わかった、探しておく」
 アンニュイな気分を引きずらないように距離感や声の調子を変えて振る舞っているのは、キーナーの計らいだろう。新しい警備の配置とバリケードの仕様をまとめるためにキーボードを叩いていたが、気づけば彼の後ろ姿ばかりを盗み見ていた。

 ……彼は目的のためなら、仲間の命さえ脅しや説得の材料に使う。そして誰を犠牲にしてでも、テオの事を守ってくれる。父も兄もテオの前から姿を消したが、彼だけは見捨てなかった。誰も認めようとしなかったテクノロジーの新しい活用方法、おしゃべりなマスコミが唯一語らない政治の真実、そして家族を奪った権力への憤りにキーナーは強い関心と共感を示し、テオを右腕として側に置いている。
 彼を批判する人間が少なからずいる事をテオも知っている。責任ある立場の人間を責めるのは、誰にでも簡単にできる事だ。しかし批判で溜飲が下がっても、安全と平和は手に入らない。今この時代に必要なのは、人が人として真っ当に生きられる世界のはずだ。そのために求められるリーダーの素質とは、対処すべき問題に背中を向けて人々を慰める優しさではない。いくら人間性を非難されようが目的を見失わず、問題そのものに向かい合う強靭な精神と行動力ではないのか。
 テオだって、キーナーの思うままに操られていると、頭の何処かでは気付いている。だが彼は上辺だけの常識や良識に収まる人間ではない。彼は全てにおいて、人間として本質的に正しいのだ。テオは彼を心から尊敬していた。彼が正規のディビジョンエージェントだった頃、か弱い人々を救うために何ができるかを熱心に語っていた時から、その気持ちは変わらない。だからテオは彼の誘いに応え、ここまで付いてきたのだ。

「……」
 デスクに手をついてノートに文字を書き付けているキーナーの背中が、急に恋しく思えた。まだやる事は残っているが、立ち上がって彼の背後へ向かい、後ろから体をくっつけた。広い肩甲骨が顔に押し当たり、肌の香りがぐっと近付く。息を吸うと、深い安堵が全身へと行き渡った。
「どうした?」
「本当に僕の事がよくわかるんだな、と思ってさ」
「ああ。君は反抗的な部下に手を焼きながら、膨大な量の仕事をこなしている」
 背中越しに、心地よい声の振動を肌で聞いた。
「……その通り。だからご褒美があれば、僕はもっと頑張れる」
 紙の上を走るペンが一瞬止まり、また動き出す気配を感じた。
「ご褒美か。何だろうな、想像もつかない」
 芝居がかったとぼけ方に苦笑してしまったが、熱はもう抑えられない所まで高まっていた。
「……あっちに、まだ見せてない部屋がある。ちょっと狭いけど」

 セキュリティルームの側面にはサーバールームがある。その一つをテオだけが使う休憩室に改造していた。簡易ベッドと小さな冷蔵ボックス、デスクと工具ラックで足の踏み場はないに等しいが、広いだけの空虚な部屋より、必要な物がすぐ側にある方が落ち着く質だった。
 ドアを開けて中に入りながらも、キーナーの首にしがみついてキスをねだった。もつれるようにして、そのままベッドに転がった。二人分の体重を受けたベッドが不服そうな音を上げる。キーナーは意外に乗り気で、押し倒したテオの首筋に顔を埋めて情熱的に肌を吸い、そして優しく噛み付く。それだけで、体中の血に甘い輸液が巡っていく心地だった。彼の背中に腕を回し、ゆるく髪を掴んで息をついた。
 彼の肩の向こうが、底無しの暗闇に見えた。サーバールームという特性上、セキュリティ面の意味で窓は元々ついていないし、体と目を休めるために照明も取りつけていない。ベッドの近くに置いた小さなスタンドライトのおかげで、辛うじて互いの姿が見えるくらいだった。
 プライベートな部屋とは言え、無防備に服を脱ぐ訳にはいかない。だからこうなる時は、あまり時間をかけずに行為を急ぐのが常だった。しかし今は、表面だけの触れ合いがいつも以上にもどかしい。死線を潜り抜けて生を掴み取ったという事実が、本能を強く揺さぶっていた。
 キーナーの指先や唇が与える刺激から逃れるように身をよじり、ベッドの近くに置きっぱなしの携帯ポーチから、小さなボトルを取り出した。
「……これ、使った方がいいかも」
 油と増調剤を混ぜて作ったグリースで、主に機械のメンテナンスに使うものだ。衛生用品ではないが、いざという時に無いよりマシだと思い、ボトルを分けていた。キーナーは「随分気の利いたものがあるな」と目を細めた。より先へと急かそうとしている意図が伝わったらしい。テオの体をうつ伏せにひっくり返して、ジョガーパンツを脱がせた。グリースのボトルが開き、粘った音がする。期待と緊張で口の中が乾きあがる。片手が臀部を掴み、もう片手が躊躇いもなく中に入ってきた。
「……いっ、ぁ……はぁっ」
 シーツに顔を擦りつけて堅く目を閉じ、暴れそうになるのをこらえた。脊髄を撫でられるような感覚で、体が一気に熱を持つ。彼の手は魔物のようだ。テオを助けるためにハンドガンの引き金を引いた手。死体から血まみれのドッグタグを引きずり出し、ついさっきまで淡々とメモを取っていた手。それが今はテオの体を自在にもてあそんでいる。
 しばらくは歯を食いしばって耐えていた。指に絡みついたグリースが唾液をすするような音を立てて往復し、収まりきれずに汗ばんだ太腿を伝っていく。腰が甘く痺れて、膝を立てているのが辛くて仕方がなかった。
「キーナー、ぁ、もういい、早く」
 微笑するような吐息が背中にかかり、衣服を探る音がした。さっきより熱くなった彼の手がテオの腰を掴む頃には、テオは我を忘れて再び催促の言葉をもらしていた。
 待ちわびた質量がみっちりと突き入れられ、声にならない悲鳴が喉に詰まった。キーナーは後ろからテオの顎を掴んで、上を向かせた。背中が反る格好になって息が窮屈になるが、感覚は鋭く張り詰めた。中で硬く腫れた性感帯を内側から擦られると、そこから頭まで貫かれるような強い刺激が走る。そのまま腰が連続してぶつかった。
「うあ、っ!あ……ああっ、あっ、」
「テオ……少し声が大きい」
 ため息まじりの声で詰られた。顎を掴んでいた手をずらして、口の中に指が入ってくる。声を上げるつもりはなかったが、大きく口を開かないように、奥へ入り込んでくる長い指を震える舌で散漫に舐めた。
 やがてテオに覆いかぶさるようにして、体勢が低くなった。攻められる動きが一層強く、速くなる。密着した肌が激しく擦れ、火傷しそうなほど熱い。耳元に吐きかけられる、かすかな唸りを交えた荒い呼吸に、優越感に似た喜びが疼き上がった。捕獲される格好で犯されているのは自分の方だったが、特別な言葉を囁く事もなく無心に求めてくる姿を見ると、そう錯覚せずにはいられない。
 キーナーの落ち着いた低い声と、言葉巧みに人を動かす雄弁さはとても魅力的だ。しかし彼はベッドの上でほとんど言葉を発さない。二人のどちらかが、あるいは両方がムードを大切にする根っからのロマンチストなら、話は違うのかも知れない。あやしげな音楽が流れるピンク色のベッドルームは、機会があれば行ってみたい。けれど生活感に満ちた場所で、覚えたばかりのように没頭する方が今の自分は似合っていた。
 されるがままに同じ体勢で堪えていたが、彼を受け止める場所と、掴まれたままの腰が次第に苦しくなり、少しだけ体を起こそうとした。しかしすぐに上から首の根を押さえ付けられ、余計にベッドに沈んだ。腰骨や首筋に食い込む指、そして殴るような音で突かれるのは、快楽ではぐらかせない痛みとなり、あらゆる場所を追い詰めた。どうにか抑えていた声も、意識が混濁するにつれて、泣き声のようにか細く漏れていく。わずかに感じた精神的な優位性も今となっては粉々に握り潰され、テオはうわごとのように彼の名前を呼んでいた。

 痛い事は好きじゃない。けどこのまま頭か体がどうにかなって、壊れてしまうのも悪くないと思った。もしそうなれば、キーナーはきっと迷わず自らの手を汚してくれる。テオには高潔な自尊心と、破滅的な自虐の思いが共存していた。傲慢で身勝手に生きてきた人間と、自分は絶対に違う。誰かに認められたい一心で、ひたすら努力して、我慢してきた。死ぬほど辛い事も数多くあった。それでもここまで這いつくばって生きてきたのだから、簡単に死にたくはない。だがもしこの先、名前も顔も知らない誰かに無様に殺されるくらいなら、いっそキーナーに殺してほしいと考えていた。
 奇怪で、矛盾した願望だった。テオの頭の中をバグで麻痺させ、隅々まで支配して離さないのは、後にも先にも一人だけ、彼だけだった。

 浅い夢を漂い、やっと降りてきた意識を掴み、ゆっくり目を開く。さっきと変わらない暗く狭い部屋で、テオはベッドに横たわっていた。乱れていたはずの着衣は元の状態に収まっている。顔を上げると、同じく普段通りに服を着込んだキーナーがベッドの端に腰掛けて、クリップで留めた厚い紙の束に目を通していた。体を起こすと関節のいくつかに痛みが走ったが、デスクに置いたミネラルウォーターをどうにか取る。乾き切った喉へ、一気に水分を流し込んだ。
「……僕、寝てたのか」
「三十分くらいな」
書類から目を離さずにキーナーが答える。
「もしかして、途中で?」
「終わってからだ。途中だったら私もさすがに傷つく。こんな平気な顔はしていられない」
「……そうだよね」
 親指で目蓋を揉みながら、息を大きく吸って吐いた。
「最近、あんまり眠れてないんだ」
「そうだろうな。ストレス解消もいいが、疲れが溜まっているなら、まずはゆっくり休んだ方がいい」
 それから、とキーナーは狭苦しい部屋を見渡した。
「この部屋は換気が良くない。今誰かが来たら、私達の事を『誤解』されてしまう」
 テオがあらぬ疑いをかけたせいか、その言葉選びは彼の小さな仕返しのように聞こえた。しかし今のテオには、それを笑うくらいの余裕が生まれていた。
「はっ……そりゃ困る。にしても、ちょっと仕事が多すぎるね。これじゃ優先順位がつけられない」
「理解してくれ。君に期待しているんだ」
「わかってる。そうだな、あと少し……一時間くらいならいいだろ。スケジュールを相談したい」
 デスクからラップトップを取り、隣に詰め寄って座ると、キーナーはようやくこっちに顔を向けてくれた。
「間に合いそうか?」
「言っただろ。僕はご褒美があれば頑張れるって」

 また今夜も、テオは生き延びてしまった。
 生きている限り、この世は常に最悪の状況でしかない。そしていつかは、あの黄色いシートに包まれる日がやって来る。それは今生きている誰もが恐れている、醜くて虚しく、驚く程あっけなく訪れる最後だ。
 この世の全ての事象は、常にテオへ死を授けようと待ち構えている。どうあがいても、いつかは必ず終わるのだ。正義の元に裁かれ処刑を受ける罪人のように。あるいはただ大きな空洞へ投げ込まれる産業廃棄物のように。あるいは愛しくてたまらない彼の手で、……。
 得体の知れない高揚で肩が震えるのを、手のひらで強く押さえつけた。
 夜明けは新しい絶望の始まりだ。陽が登るまではあと数時間。キーナーの傍で束の間の猶予に甘えながら、彼にも等しく訪れるであろう死はどんな物なのか、テオはぼんやりと想像していた。