「酷い顔だ」

 携帯ゲーム機から顔を離した大兄の、口からぼそりと剥がれるような低い声。
 普段と少しも変わらないその声が、今の俺の耳にはやけに障った。
 大兄の両脇を固める黒服の鉄仮面も、鳳凰の翔る敷物も、金箔押しの卓も、ここにあるものは日常のそれと何も変わりはない。
 ただ俺の頭の中だけが、鋏で切り取られたように暗く空洞だった。
「辰巳幸四郎が死んだか」
「……」
 俺の顔がぴくりと引き攣るのを見たか見ないか、大兄は再びゲームのディスプレイに目を落とした。
 しんとした部屋には不釣り合いな、軽快でチープな電子音が弾み出す。
 三聖会の長である大兄が自分を呼ぶのには必ず理由がつく。組織としての体裁を整える為、それ以外にない。
 俺達の間には家族としての親愛だとか、そういった生温い感情のやり取りはなかった。
 家業に背いて奔放な暮らしをしている俺を疎ましく思っている程だ。あの日から数日が経つが、部屋に閉じこもってばかりの俺を単純に案じている訳ではないのだろう。
「ろくに食ってもいないようだな」
 首をかしげる仕草は手元のゲームによって発せられたようだ。
「ハ、そのまま後でも追うか。俺は止めんが、家の名前は汚すな。お前ならいくつか方法は思いつくだろうが…」
「…大兄、俺は」
「孫子曰、」
 画面から少しも目を離さずに大兄が諳んじる。
「将弱不厳、教道不明、吏卒無常、陳兵縦横曰乱」
「……」
 大兄が好んで使う例えが耳に刺さる。大将が弱ければ、兵は道を見失い、やがて秩序を失い崩壊する。そういった意味の言葉だ。
「あの日本人がどれほどお前を動かす者だったか、興味はない。しかしこの街で我々のような後ろ盾もなく、あれ程大きな看板を挙げるには…少し、足りなかったか」
 ここがなぁ、と振り子の動きで自分の頭を滑稽に振って見せる。
 俺の目は物を見るだけ、耳は物を聴くだけ、そして歯は食いしばるだけのもので、この奥から言葉らしい言葉を出す事はできなかった。
「将が思いのままに理想を語るのは、自由だ。が、兵はどうだ?覚束ない足場に放り出されて、そこで兵がそれに耳を貸すか?そんな馬鹿な将に命を預けたいと思うか」
「……」
「内から生まれる不調和こそを乱と呼ぶ。お前も薄々と感じていたんじゃないのか、外ではない、内にある乱れを」
義眼の光る片目も禍々しいが、何よりはその口元だ。
 大兄の問いかけはいつも、俺を蔑む手段の一つだった。
「…俺は、…自分の生き方は自分で決めると、言ったはずです」
「……」
「俺は辰巳を認めました。認めるだけの器があいつにはあった。それがなければ、俺が手を貸すはずがない…大兄の言う乱とやらを招くような馬鹿な人間に、俺は始めから興味なんかない」
 自分の声はこんなに弱々しいものだったか。
「日本人だとか、そんな事は関係ない…俺は一人の人間として、辰巳に手を貸そうと決めた…それだけです」
「…愚かな。孔明にでもなったつもりか」
 言うなり大兄は椅子から立ち上がった。
 見上げるほどの長躯が俺のすぐ横を、まるで俺など見えていないように通り過ぎる。
「冬偉。盲執は捨てろ。どれだけ喚こうが、お前の劉備はもういないのだ」
「……」
 きつい香が鼻をついた。
 俺の目もまた、大兄を追う事はなく、
 革靴の音は遠くなって、やがて消えた。



 ビルの屋上からは夕暮れがよく見えた。背中にはもう薄闇が迫っているのだろう。
 ミネルバが入っていたテナントはこの少しの間に引き払われ、新生ミネルバは二代目社長に山城尊を置いた。
 まるであの混乱が踏み越えるべき1マスだったように、一歩一歩世界は変化していく。
 変わらないものなどない。あり続けるものなどない。
 今目の前にある夕陽を明日の朝には忘れてしまうように、それは簡単でとても冷たいものだ。

 手摺に凭れたままコートの内側に手を入れて、煙草とライターを取り出した。
 吸う習慣のない煙草を一本唇に挟む。
よく使いこまれていて、端の辺りのメッキが剥がれたライターには、龍と、相対して尻尾を喰い合う蛇が描かれている。
 蛇は古来より人間から神として崇め奉られるが、同時に人を喰らう慾深い化け物として忌み嫌われる生き物だ。
 都合がよければ神様扱い、そうでなければ殺しさえする。人間とは勝手なものだと思う。
 何よりそんな勝手な料簡が、時には人間同士の間にも罷り通るところが、だ。
「……」
 ビルの風から守るように火をつけて吸うと、一口で何とも言えない不快感が胸いっぱいに充満した。
「ごほ…っ」
 火を離すが、一度咽ると続けて咳き込んでしまうから情けない。
 喉が咽せて、頭は自然と下へ俯く。
 手摺越しの視界がガラリと変わり、夕陽の代わりに飛び込んできたのはぞっとする程低い場所に敷き詰められた街。
ビルの間を縫うように通う道路も、その上を行く車も人も、模型のように小さい。
「……、」
 高いな。
 胸の奥がどくりと疼いた。
 …ここから飛べば、何処へ繋がるのだろうか。
 そんな事を一瞬でも考えてしまったのがたまらなく悔しくなった。
 錆びた手摺にごつりと額を当てる。
 じんとした痛みはどこか心地良い物に思えた。
 俺は一つ息を吸った。

「……孫子曰、」

 辰巳。

「…視卒如嬰児、故可与之赴深谿、視卒如愛子、故可与之倶死…」
 
 俺が好きな孫氏の例えだ。たとえ他人でも、我が子を愛するように見守れば、やがて自分のために死地を共にしてくれる。仲間とはそういうものだ。
 ……俺が知っているその男は、自称・正義の味方。
 とんでもなく無鉄砲で、人を信じては損をして、それでもこの汚れた街の真ん中で、決して汚れない目で生きていた。
 俺は俺の意思で、そいつについて行くと決めたのだ。
そいつのためなら地獄みたいな所でも行ける。そこが例え本当の地獄だとしても、そいつのためなら。
 書を読むたびに、俺は鼻笑していた。
 ……「人の為」になんて、そんなおかしな事があるはずないと、思っていた。
 人間は一人だ。自分の為に生まれ、そして自分の為にしか生きられない。
 そう思っていたはずなのに。

「…苦いなぁ…」



 あの嘘みたいな四月一日を忘れるには、どうしたらいいのだろう。
 大きな声で叫べば、あいつは答えをくれるだろうか。
 温かい風は言葉もなく、ただ優しく、肩を撫でて立ち去るだけだった。