中央タービンのメンテナンスルームには、巨大なプロペラが空気をかき混ぜる音が反響し続けている。破れた箇所から血のような火花を漏らすケーブル、熱い排気を吐き出す圧力扇も休みなく騒がしい。機械の一部に組み込まれたような錯覚に陥りそうだ。こんな所で一日中働いていたら、マービン達さえいつかは気がおかしくなるだろうと考えながら、クリプトは愛銃のシリンダーを入れ替えた。右手で構え直し、壁際でへたり込んだ男の顔をサイト越しに捉えた。
「まだ諦めないのか?ミラージュ」
「ったく、しつこいんだよ、クソ……ッ」
ミラージュは赤黒く濡れた脇腹を片手でかばいながら、肩を壁に擦り付けて無理矢理立ち上がろうと懸命だ。しかし脚の力が体重を支えられず、潰れるようにぐしゃりと座り込んでしまう。色気のない昼色灯に照らされた顔には、憔悴のためか深い影が差している。額に浮かんだ脂汗が髪を湿らせ、食い縛った歯からは唸りのような息を吐いていた。
ここまで追い詰めるのに随分長い距離を移動した。傷と疲労で体はもう限界だろう。
「お前に大事な仲間をやられた。復讐するのは当然だ」
「く……、」
ミラージュを執拗に追ってきたのは、複数の部隊を巻き込んだ乱戦の最中、こいつに仲間を殺されたからだ。ライフルによる狙撃で首から上を吹き飛ばされ、応急処置は間に合わなかった。別部隊の陽動に紛れてまんまと場を掻い潜ったミラージュをスパイドローンで追跡し、ようやくこの中央タービンで対面を迎えた。
今となってはお互いに一人きりだ。周辺に部隊はいない。中継カメラもあいにく「調子が悪い」らしく、生き残ったレジェンド同士の顛末を追いかける気はないようだ。ひっそりと報復を与えるにはちょうどいいシチュエーションだった。
ゲームに勝つという、本来の目的を捨てたと言えばそうかもしれない。しかしここで終わってもいいとさえ思うほど、今の自分はミラージュを追うという執念に駆られていた。
低い天井が閉塞感を助長する部屋は、たった二人でも狭苦しく感じる。あと数歩近寄れば靴の先がつかえそうだ。
「……おい、撃たないのかよ。俺がじわじわ弱っていくのを眺めたいのか?しゅ、趣味悪いぞ」
「警戒してるだけだ。お前がデコイじゃない確証はあるのか?」
「ああ、ある……あるさ。見てみろ、ここにいる俺が、はっ……一番ハンサムだからな」
こんな時でもヘラヘラと軽薄に笑うのがミラージュの癖だが、仮初めの強がりは神経に余計な負担をかける。頬の筋肉は細かく引き攣り、吃りが目立ってきた。こいつの言う通り、デコイならここまで生々しい挙動は再現できないだろう。
ミラージュが本物である事を確信して、胸のポケットからバナーを取り出して見せた。視線だけをバナーにずらしたミラージュは一瞬目を見開く。データ端末に変わり果てたのは、ミラージュと同じ顔の男だった。
「こいつもハンサムだろ? お前が殺した。覚えてるはずだ」
「……はッ……だったら何なんだよ」
「同じ方法で殺してやる」
50口径のリボルバーで眉間を示した。言うまでもなく、普通のピストルとは比べ物にならない威力だ。
「今からお前の頭を吹き飛ばす。うるさいおしゃべりも終わりだ」
脅しでないことは十分に伝わっている。薄っぺらい虚勢で作られた笑顔が、一層強張っていくのが見てとれた。
とうとう観念したかと思ったが、ぐったりしていたミラージュの手元が一瞬動き、脇に隠れた死角がかすかに光る。
「!」
咄嗟に肩を横へ引いたが、銃声は三発続いた。一発がかすめた肩峰に鈍い衝撃が走る。弾は胸部を覆うアーマーをかすり、痺れを感じただけだ。ミラージュは腹部の傷を押さえた手でハンドガンを隠し持っていた。だが四発目以降はホールドオープンを起こし、トリガーを引こうとする音が何度も響くだけだ。虚しい抵抗にすがり、この距離でまともに照準を絞れないのが如何にもこいつらしい。
ミラージュへ向かって大きく踏み込み、靴先で腹部を鋭く蹴り上げた。うめいて前のめりになった肩を掴み、勢いで床へ押し倒す。手を離れたハンドガンが床を滑っていくのを横目に、膝をついて馬乗りになった。
「抵抗するな。楽に死ねなくなるぞ」
息の上がった顎の下に銃口を押し当てる。喉の皮膚がへこむ程に圧迫すると、冷たい鉄越しにごくりと大きく喉が鳴った。
「……ッ、ちくしょう……」
ミラージュは歯を噛み、しばらく「ちくしょう」「何でだよ」と無意味なぼやきを繰り返していたが、やがて諦めるように顔を俯けた。
「……くそ……っ」
捨て台詞を吐きながら、衣服の上から自分の胸元を、祈るように強く握り締めている。ロザリオを持ち歩くほど信仰心があるのか知ったことではないが、この期に及んで何にすがっているのかと、一抹の興味をくすぐられた。体重をかけた状態で腕を捻り上げ、襟をまさぐった。
「離せ……、離してくれよ……っ」
ミラージュの抵抗を押しのけて奪い取ったのは、血で所々が汚れたバナーだ。パネルに表示された顔を見て、更に関心をそそられた。いつも鏡の向こうで自分を見つめている、嫌という程に見慣れた顔。服装や髪型は随分違うが、こいつの相棒は間違いなくクリプトだった。おそらく戦いの途中で殺されたのだろう。
「なるほど。……奇遇だな」
互いに同じ相棒を失い、その上こうして敵同士として再会するなんて、何とも滑稽な展開だ。
バナーを奪われたきり、ミラージュは魂を抜かれたように項垂れている。取り返す気力もなくなったようで、小さな声でぼそぼそと何かを呟き始めた。
「……ト」
「……クリプト」
始めはよく聞こえなかったが、ミラージュは繰り返し口を動かして、自分の名前を何度も呼んでいた。
「なあ、クリプト」
「……何だ?」
「頼む……た、助けてくれ。俺はここまで、十分やった。そうだよな……」
萎んだ声で小声を漏らす顔つきが、今までとはまるで変わっている。
「今更命乞いか……通用すると思ってるのか」
銃口の角度を傾けて喉に圧をかけた。息が詰まるくらい食い込んでいるはずだが、構うことなく必死に呟き続ける。
「クリプト……おい、聞いてんのか、どこにいる」
「……ミラージュ?」
「どこにいるんだよ、クリプト……早くこいつをやってくれ、殺されちまう」
現実逃避めいた独り言を繰り返すミラージュに、ある意味ぞっとした。ミラージュが呼んでいるのは自分ではない。すでにここにいないクリプトに向かって助けを乞うていた。
「……呆れたな。どうかしてる」
……これはゲームだ。ここで命を奪っても本当にこの世から消える訳じゃない。が、傷を受ける痛みや苦しみは紛れもなく本物だ。強烈な没入感に呑まれるからこそプレイヤーは死ぬ気で戦い、観客は熱狂する。しかしそんな戦いを繰り返していると、精神的な影響は免れない。極度のストレスや過剰なアドレナリンが錯乱を引き起こし、ゲームと現実を混同してしまうプレイヤーは少なからずいる。恐ろしく現実的な夢を夢だと気づかず、覚めるまで足掻き逃げ惑うように。
特にミラージュは陽気な雰囲気の奥に、人一倍臆病な内面を隠している。深い傷の痛み、目前に迫った死、そしてたった一人残された不安で、軽いパニックに陥っているのだろう。
「ここまで来て見逃す気はないが……見逃しても、今のお前じゃ最終ラウンドまで生き残るのは無理だろうな」
淡い同情を覚えながらも、銃を降ろす気は更々なかった。
「早く楽にしてやった方が、お前のためにも良さそうだ」
虚脱しかけているミラージュの襟をしっかり掴んだ。のけぞった首筋が大きく露出したが、
「……?」
そこに視線が引きつけられ、自分の目を疑った。
インナーで隠れていた首筋に、赤い内出血痕がいくつも付けられていたからだ。どう見ても戦いで負った傷ではない、生々しい劣情の跡。きっと昨夜、誰かと激しく抱き合っていたのだと推察した。
凝視されてようやく気づいたらしく、ミラージュは身を硬くしながら極まりが悪そうに目線を逸らした。
「お前……」
侮蔑の言葉を浴びせようとしたが、やめた。顔が触れ合うまで近づいて、ある匂いが鼻をついたのだ。キスマークと濃厚に関係しているであろう、男特有の匂い。おそらくミラージュの体液だ。そしてこいつのだけじゃない。ひどく馴染みのある、快と不快の狭間を漂う匂いがうっすらと混ざっている。それが自分の、クリプトの体液だと気づくのに、時間はかからなかった。
想像が決定的な確信へ結びつくと同時に、後頭部から背筋へ、冷水が伝うように血の気が降りていく。芽生えかけた微かな情けはどこかへ消え失せていた。
バナーにもう一度目をやり、続けてミラージュへ目配せした。
「……随分こいつを信頼してたんだな。だが、肝心な時に側にいないのは……恋人とは言えないだろ」
過敏に反応したミラージュは咄嗟に何かを言いかけたが、唇を噛んで必死に言葉をこらえた。それが妙に可笑しく、笑いが漏れてしまう。
「お前、本当にわかりやすいな」
おしゃべりな人間は都合が悪いことを多弁でごまかすのが得意だが、ごまかせない真実の前では言葉が出ず、こうして見抜かれてしまう。日頃から余計なことを喋らずに黙っている方が、秘密も嘘も隠しやすいものだ。
ミラージュのありふれた人間臭さが決して嫌いじゃなかった。しかし今は、その浅はかさにひどく裏切られた気分だった。
取り上げたバナーを、ミラージュの顔の横へ転がした。
「もう諦めろ。こいつはお前を助けには来ない」
握ったままの銃を顔の上にかざし、バナーに向かってグリップを振り下ろす。ミラージュが反射的に顔を背けるのと、バナーの盤面が砕けるのはほぼ同時だった。
何が起きたのかは、顔を背けていても明らかだった。ミラージュはおそるおそる振り向いて、歪に潰れたバナーを呆然と見つめている。
「……嘘だろ、そんな」
眉根を悲痛の形に引き絞り、宝物を壊された子供のような、泣きそうな顔に変わっていく。優越感とはまた違う、痺れるような衝動がわき上がった。
かつてないほど、好奇心が暴走を始める。
……その肌の奥を暴けば一体どんな味がするのか、どんな顔と声で自分を求めるのか。知りたくてたまらなかったものが目の前にある。
起きた光景をまだ信じられないミラージュは無防備そのものだった。解放された首筋に顔を埋めて、喉へ噛みつくように口付けた。
「っ……!」
ミラージュの肩が突っ張った。おかしな幻覚から引き戻されたばかりのように体が硬直している。
舌を立てて熱い肌を舐めながら襟をまさぐり、強引に左右へ服を開いた。首だけじゃない、鎖骨や胸にいくつもキスマークが浮かんでいた。こんな色だったのかと思うほど赤い乳首の周辺には、爪や歯を立てた跡がある。全てがまだ新しい。試合の直前か、あるいは試合中に刻み付けられたのだろう。
どちらにしても許せなかった。自分が戦いの事だけに思考を巡らせている時間、ミラージュが自分ではないクリプトと声を殺しながらセックスに夢中になっていたのだと想像するだけで、飢えのような激しい嫉妬に襲われた。
首筋を立て続けに吸われて、ようやくミラージュは我に返ったように抵抗し始めた。
「や、めろっ……」
「どうして。俺はお前の恋人だ」
「違う……」
頭の後ろに手を回し、髪に指を引っかけて撫でつけた。整髪料の強い香りが妙に懐かしく感じる。
「そんなに嫌がるなよ、ウィット。いや……エリオット、かな?」
わざとらしく嘲るように名前を呼んだせいか、ミラージュの声色がにわかに変わった。
「触るな!」
まだそんな力が残っていたのか、胸板を拳で強く押し返された。下から見上げてくる目は、さっきまで命乞いをしていたとは思えない、仇でも見るような暗い憎悪の色を含んでいた。
「俺に、俺に触るな!こ、これ以上やるんなら、もう、っ、殺してくれよ……そっちの方がマシだ」
「……」
首元にミラージュの腕が食い込む。顎から頬にかけて取りついた手には爪が立ち、痛覚を細かく刺激した。しかし今、そんな痛みは問題じゃなかった。こいつに拒絶する自由なんてないはずだ。誰に見られてもおかしくない状況でスリルに酔うのが好きなくせに、何故受け入れようとしないのか。理不尽さを通り越して怒りが込み上げた。
「……触るな、だって?」
リボルバーを握る指一本ずつに力を込め直した。ミラージュの鬱陶しい口を手でまるごと覆い、頬骨が軋むほど掴む。
「お前こそ……他の男触った汚ねぇ手で、俺に触るなよ」
首に取りすがっているのはミラージュの右手だ。右の肩に銃口を押し当てて、一発トリガーを引いた。撃鉄が弾ける音に、肉が破裂する音が重なった。
「ぐっ、んんーーッ!!」
上腕に拳ほどの穴が空いた。熱い血が噴き出し、足元にばらけた肉片が叩きつけられる。一発では完全に切断できず、表皮や筋をひきずった状態で首筋に張り付く腕は異様に長く見えた。
「い、あぐ、う、あぁ……ッ」
ミラージュはこもった悲鳴を上げながら、眼窩からこぼれそうなくらい開いた目で潰れた自分の腕を凝視している。
「静かにしろ」
叫び声が漏れないように口を改めて手でしっかり押さえつけ、次は左腕に二発続けて撃った。今度は仕損じることなく、二発分の弾丸で風穴は腕の直径よりも広がり、腕を丸ごともぎ取った。すでに血溜まりになった床に浸り、赤黒い光沢にまみれてぴくりとも動かなくなる。
「ぅう!ぐぅ、う!ん、ッーー!!」
断末魔に近い絶叫をあげながら、自由のきかない体でのたうち回るのをじっと見つめていた。やがて、押さえつけた指の間から激しい咳とともに、吐瀉物が漏れてきた。
「ごほ、おぇ……う、ぐ、うぇ、っがぁ、っ」
思わず手を離すと、全身を震わせながらおびただしい量を吐き続けた。何とも言えない匂いが鼻をつく。
「……痛いか?」
一応聞いてみるが、何も聞こえていないようだ。
首にすがりついたままのミラージュの腕が重く、邪魔で仕方なかった。銃身に引っ掛けて剥がし、床に叩き落とした。
目にかかった血飛沫を手の甲で拭い、懐から両刃のナイフを取り出した。肩と腕は、わずかに残った表皮と針金のような筋を芯にしてしつこく繋がっている。刃を外側に立てながら皮を剥ぎ、ぬるぬるした神経を削ぎ落とした。
一発で吹き飛ばせると思ったが、実際やってみると案外難しい。標的に触れるほどの距離で引き金を引くのは、決まって頭を撃ち抜く時だった。
顔を傾けて、切断面を覗いてみる。肉がかき混ぜられていてよく見えない。出血はしているが、致死量ではないようだ。至近距離の発砲で動脈が焼き切れたか、もしくは潰れたことで血管が運良く塞がったのかもしれない。
ショック状態に陥るかと思ったが意識を手放すことはなく、酸素を求めて喘いでいる。気絶できないのがむしろ哀れなくらいだった。ライフライン程の専門家じゃないが、彼女がこの様を見たらきっと驚くだろう。
ようやく千切れた腕を、手に取ってしげしげと眺めた。空を掴むように苦しげに曲げられた指。皮を隔てた内側はここまで違うのかと言うほど、刺激臭が強く咽そうになる。皮膚は熱いくらいの温度になっているが、握りしめたところで少しも反応しない。ミラージュの体から離れると、それは奇妙で気味の悪い肉塊にしか思えなかった。
誰にとっても意味をなさなくなった腕を、用済みのマガジンを捨てるように足元へ放り棄てた。
「あ……ぁぐ、……っ」
ミラージュは吐くものがなくなり、口から胃液を幾筋も垂らしている。もはや恐怖の対象としか思えないのか、目に涙をいっぱいに溜めてこちらを見上げている。その目つきは己の中に潜む征服感をくすぐるのには十分だった。
濡れた顎を掴み、金属に覆われていない二本の指を口の中にねじ込んだ。
「俺を嫌いになったか?なら噛みちぎってみろ」
「っう、……っ」
ミラージュは躊躇し、縮こまった舌と歯列をありえない程震わせている。
「お前は腕を両方ダメにされたんだ。指じゃ割に合わないくらいだろ」
わざと指を奥歯に噛ませながら、感じているであろう苦しみと悔しさを代弁した。嘔吐物が残り不快なぬめりのある口内が、唾を飲み込む度に引き攣っている。何度か繰り返してようやく意を決したのか、徐々に顎に力が入り始めた。人より少し大きく見える犬歯が指の皮に食い込み、じわじわと痛覚を刺激する。苛立つほど時間をかけてようやく肉を突き破りそうなくらいに歯が迫ってきたが、
「……く、……っう、ううっ」
しかしミラージュはそれ以上力を入れることなく、目を硬く閉じた。目尻から一筋、もう一筋涙をこぼしながら、何も言えずに首を弱々しく振って訴えるだけだ。
「できないのか?……だから、お前は甘いんだ」
落胆したが、何となくこいつにはできないだろうという予感がしていた。体力が著しく低下して顎の力がなくなっている事もあるが、ここまでの仕打ちを受けても非情になりきれない弱さをよく知っていた。相手は恋人によく似た男なのだから、尚更なのかもしれないが。
「舐めろ。お前のせいで汚れた」
指を奥に突っ込み、静かに催促した。もはや目線を逸らす事さえ許さない距離だ。ミラージュの顔が微かに上下に震え、頷きを示した。分厚い舌が指にそっと絡み、機嫌を伺うように吸い付いた。
「ん、……っ、ふ」
濃い睫毛が濡れて、毛先の影が頬にまで落ち込んでいる。顔を苦悶に歪ませながら、それでも必死に指を吸うのは気味の良い光景だった。口の中が、じわじわと唾液で充満してくる。少しも歯をぶつけない器用な舌使いだ。男の部分を愛撫するように、舌の根を持ち上げ指を粘膜で密閉し、強く圧迫しながら擦る刺激がたまらない。背筋が総毛立ち、押し倒したミラージュの腹に接した欲望がどんどん熱く膨らんでくる。
ゆっくり指を引き抜くと、粘度の高い唾液が玉を作りながら顎の下へ落ちていく。だらしなく開いた口に顔を寄せて、濡れた唇を吸った。
「ん……、」
初めてのキスは血と饐えた匂いでいっぱいだった。気持ちの良いものではないのにひどく情欲を煽り、執拗に味わった。普通なら嘔吐を漏らした人間とキスをしたいとは思わないが、今のミラージュは惨めに汚されているほど愛おしく見えた。
「う、ぅう、んっ」
窒息したような呻き声を無視し、頬を擦りつけながら舌を奪う。卑猥な音を聴かせるように互いの唾液をめちゃくちゃにかき混ぜた。
剥き出しになった首が紅潮し、さらに濃くなったキスマークが目障りだった。上から歯を立てて、かき消す様に強く吸う。口付ける場所全てを、湿疹のようにいくつも鬱血させた。
浅く速い呼吸で上下する胸に顔を埋めた。よく鍛えられ、うすく脂肪がついた逞しい胸だ。血と汗がたまった鎖骨のくぼみに口付けながら、片方の胸筋を手で鷲掴み、下から上へ肉を集めるように揉んだ。
「はぁッ、はぁ……っ、あぁ……」
ミラージュの喉から、絶望するような吐息が漏れ始めた。この状況でとどめを刺されず、代わりに何をされるのか。受け入れ難い仕打ちなのだろう。しかし抵抗する様子はなかった。吃るどころかまともに言葉を喋ることさえできないようだ。
うるさくて仕方がなかった部屋が、今はひどく静かに感じる。激しい動悸が耳を打ち、荒い呼吸と興奮で体が燃えるように熱くなっているせいだ。
ぐったりと広げられた脚の間に腰を押しつけ、意図を持ってゆっくり擦り付けながら、充血した胸の粘膜を舌と指先で刺激した。胸の噛み跡に歯を立てて、乳首をちぎる寸前まで噛み、甘やかすように舐め、じゅるじゅると唾液を泡立たせて吸い上げた。
「ん、……ぅあっ、あっ……」
やがてミラージュは、顔を軽くのけぞらせ、少しずつ喘ぎ始めた。激痛や恐怖を訴える声とは違う、湿った吐息に少しだけ音を乗せたような、いつもより高くて甘い声だ。胸を揉んでいた手を腰の下へ押し込み、服の上から尻を掴んだ。筋肉質だがずっしりして、衣服の上からでも手のひらに吸い付くようだ。
「ッ……はぁ、あ、っく」
寂しそうな顔で吐息をつき、ミラージュは腰をむずむずと動かしている。密着した股間は、刺激を与える度に勃起を増して服を押し上げるほどだ。死の危機が迫ると男の体は本能的に射精を求めるが、きっとそれだけではない。両腕をもぎ取られておきながら、胸や尻を愛撫されて喜んでいる。とんでもない変態だな、と口の端で笑った。
小刻みに揺れる腹筋を吸い、尻を揉みながら手荒に服を脱がせた。失禁なのか脂汗なのか、臍から太腿にかけて甘酸っぱい匂いがする。不思議と興奮を誘う匂いだった。
尻の肉を指で押し開くと、真っ赤に充血したアナルがひくひくと鳴いている。正常な円ではなく、円を左右から押しつぶしたように縦方向に変形している。アナルセックスをしたことがない人間でも、ここを使って日常的に性行為をしているとわかる有り様だ。グロテスクな程にうごめく肉を見せつけられ、体の芯が疼く音で頭痛を起こしそうだ。
下着をずらして、今までで一番昂った状態の陰茎をあてがい、すっかり膨れたそこへ指を添えながら先端を埋めていく。
「……ん、」
きつく包まれる感覚に、ため息をついた。挿入した瞬間は押し返す動きを感じたが、腹筋は誘うように波打っている。骨盤を押さえつけて、ゆっくりと知らしめるように腰を奥へ沈めた。
「うぁ、クリプト、ぉ……、あ、ひ……ぃいっ」
ミラージュは喉を大きくのけぞらせ、泣き声のように悶えた。拒んでいるように見えるが、ここは性器として調教されていた。容赦なく収縮しながらも、確実に奥へ飲み込んでくる。
少し前まで、同じ形の男に犯されていた場所だ。多少乱暴に扱っても大したことはないだろう。躊躇わずに根元まで突き入れると、ミラージュが急に顔を激しく横に振った。訴えには構わず、肌を密着させてじっくりと形を馴染ませた。
ミラージュは悶えながら必死に耐えていた。しかし数秒も立たない内に、追い詰められたように背筋を逸らし、腹筋を不自然に痙攣させた。
「あッ嫌、ぁ、あぁ!はぁ……ッ、あ……あぅ……!」
短く嗚咽を漏らして何度も胸を突っ張った後、体の力が徐々に抜けていく。それまで激しかった呼吸が、深く熱っぽいため息に変わっていく。まさかとは思ったが、今の刺激だけで軽い絶頂に襲われたようだ。
「……早いな……」
聞こえているのかいないのか、脱力したミラージュは何も答えない。口から意味をなさない声を漏らしながら、遥か宙の一点を呆けたように見つめているだけだ。
温かい肉に全てを包まれると、興奮で肌が火照り、激しい熱を持ってくる。顔の表面で乾き始めた返り血が、額から流れる汗で溶けてきた。口元へ落ちてくる甘い鉄の味を舌で味わいながら、太腿を腕に抱いて抜き差しを始めた。
思った通りだが、入り口に擦られると痛いほどに締められる。獲物を丸呑みにする蛇のようでもあり、喉元に食らいついて離さない狼のようでもある。
奥を突くたびにミラージュは腰を浮かせ、不自由そうに肩をひねりながらも陶酔の表情で喘いだ。
くすぐったい髭に頬を寄せて、耳や首に歯を立てながら敏感な反応を楽しんだ。休みなく悲鳴をあげているせいで、喉がひゅうひゅうと乾いた倍音を出している。息を塞ぐようにキスをして、震える舌をしゃぶった。
「んん、ッ!ふ、う、ぅ、んっん、ン」
唾液を共有しながら、体を休みなく揺さぶった。太腿が激しくぶつかり、殴るような音をあげた。
顔を離してミラージュの腰を持ち上げ、結合部が上を向くくらい体を丸めてやる。そのまま首に手を回して、親指で頸動脈を圧迫した。
「うぐ、ぁ、が……」
最も深い部分に突き刺したまま、腰を揺すって中をかき回す。指の腹に力を入れると顔がたちまち真っ赤に染まった。
「がは、ぁぐっ、あぁ、し、しっ……死ぬ……ぅ」
虚ろな黒目が時折、跳ねるように剥き上がる。意識が飛びかけているようだ。異常にうねる肉体が陰茎を噛みちぎるほど強く締め付け、腰がビリビリと痺れる。
「……ッ、ひ、……ぁは、ぁ、あ゛……!」
口をぱくぱくと開き、消え入るような声で叫びながら、ミラージュは腫れるほど勃起した先端から涙のように精液を漏らした。触れずして射精する姿を見て、ミラージュが手を使えない事をふと思い出す。せめてもの慰めに触ってやってもよかったが、まさかここまで開発されているとは想像できなかった。満悦と幾ばくかの侮蔑に包まれながら、達してもなお順応しようとする体を味わった。
汗と粘液で結合部が滑り、柔らかい肉を引き裂くような音が規則的に響いた。徐々に激しくなる律動に、ミラージュは身を捩らせて呻き続けている。
「ひぃ、あ゛ぁ、も、ゆるして、ぐ、ぁあっ、う゛」
舌を尖らせて再び胃液の滴を吐いていたが、体ごと蒸発するように大量の汗がぶわりと吹き出した。
「あぁ、い゛、く……ぅ、ッ……ひ……!」
射精したばかりだったが再び腰をがくがくと浮かせながら、次は色の薄い液体を勢いよく飛び散らせた。胸と顔がぐっしょりと濡れる量だった。噴き出す勢いをなくしても、まだ壊れた管のようにとろとろと垂らし続けている。すさまじい痴態だった。
涎と涙を垂れ流して虚ろに喘ぐミラージュを見下ろしながら、気づけば衝動のままに腰を振っていた。無抵抗の人間を獣のように犯す感覚はたまらない。こんな男ではなかったはずだが、一人の人間を介して、自らの恐ろしい本性を思い知らされた気分だった。
欲しかった限界が目の前に迫り、腹の奥で強烈な圧迫感が弾けた。尻から背筋にかけて粟立ちが止まらず、肩がぞくぞくと浮いた。
「っく……!!ぁ、はぁ、はぁッ……!!」
首に指を食い込ませ、根本まで突き入れた状態で絶頂に悶えた。食いしばった歯から上擦った声を漏らしながら、脈動に合わせて射精する。今までにないくらいに続け様に精液が溢れ、熱く腫れた肉にどんどん搾り取られていく。ぎゅうぎゅうと腰を押し付けて扱き、最後の一滴まで注いだ。
虚脱感が押し寄せて、ミラージュの上に覆い被さった。引き抜くのを躊躇うほど、そこはまだミラージュの中で脈を打ち続けている。
ミラージュはついに意識をなくしたようだ。小動物のようにか細い息を繋ぎ、わずかに覗いた瞼の隙間からは濁った白眼しか見えない。口の端からは、息が漏れるたびに泡が溢れていた。
前髪を掴んで後頭部へ撫で付け、あらわになった顔に口付けた。頬や目元、首筋に躊躇なく鬱血の跡をつけていく。
「……誰にも、渡すかよ」
もう自分以外の誰も、このミラージュには触れようとしないだろう。全てを奪い尽くして、ようやく飢えが満たされた気分だった。自律が効かず、口元がつい緩んでしまう。しばらくはミラージュの髪を撫でながら、二人きりの時間に浸っていた。
コートのポケットを探り、バナーを取り出した。お気に入りらしき服と髪型で、ナルシスト丸出しのポーズを決めた男。浮かび上がったIDに、指でそっと触れる。
(……ミラージュ)
……悪友のような存在だった。出会ってからそう月日は経っていないのに、生まれて初めて「欲しい」と思った存在でもあった。隠してきた思いと欲求が、今日まで叶うことはなかった。見えている世界が違った。見てきた人間、見つめている人間も違う。必要以上に優しいくせに、一番欲しいものを与えてくれない。今まで何て意味のない感情を消費してきたのかと深く後悔した。
ぼんやりと眺めた後、足元に放り投げて、靴の裏で踏み潰した。それだけでは足りず、踵をねじりながら何度も踏んだ。基盤までが粉々に砕け、誰のバナーなのかわからないほど盤面が変形した。空虚だが、胸が晴れた気分だった。
部屋の隅で、人形のように無造作に倒れているミラージュの元に歩み寄った。膝をついて体を抱き起こすと、うっすら意識を取り戻したようだ。ぐらりと上半身をもたげて背中を丸め、何も言わずに俯いている。
自分のコートを脱ぎ、ミラージュの肩にかけた。肩の周辺にじわじわと血が滲んでいく。こうして傷口を隠してやれば、誰かの目に留まっても驚きはしないだろう。
「……あ、」
ミラージュはかけられたコートに反応したのか、鼻をくんくんと動かし、目を細く開いてこちらを見上げる。
「クリプト……そこに、いるのか」
弱々しいが、安堵した声で呼びかけてくるミラージュに、一瞬かける言葉を躊躇った。こちらの動揺には全く気づいていないようだ。
「やっと、来やがったな」
「……ああ、遅くなって、悪かった」
「遅すぎるんだよ……死んじまったのかと思ったぜ。あれは、何だ……ゆ、夢、だったのか」
声が酷く掠れて別人のようだ。それでも素直に頼ってくるミラージュには、なけなしの愛着心を刺激される。
「夢じゃなかったら何なんだ? お前を置いていく訳ないだろ。一人にはしない」
「はっ……カッコつけんな……」
「そろそろ行くぞ」
「ちょっと待ってくれ……くそっ、体……動かねえ」
顔を緩く振って自らの体を見渡しているが、眼球自体はほとんど動いていない。視覚がまともに働いていないようだ。
「世話のかかる奴だな……ほら」
気づかないふりをして背中と膝の裏に腕を回し、持ち上げて横抱きにした。抱いた体は思っていたより軽い。ミラージュから色んなものを奪い、心も体も空っぽにしてしまったからだろう。
そのまま歩き出すと、ミラージュは少し照れ臭そうにしていたが、やがて諦めたように体を預けてきた。
機械の内臓をくぐり抜ければ、タービンの出口はすぐそこだ。暗い通路の向こうから、夜明けのような光が差して手招いている。
それまで大人しく抱えられていたミラージュが、不意に胸元へ顔を擦りつけてきた。
「どうした?」
「……ここ、寒いな……」
ミラージュの顔色が、急激に悪くなっている。抱いた体は小刻みに凍えていた。
「お前も寒いよな……、俺と同じだよな……? なあ、クリプト……」
「そうだな。帰ったらシャワーを浴びよう。疲れてるだろ?……体、洗ってやるよ」
「はは……。言ってろ……この……スケベ野郎」
乾いた笑いと共に悪態をついたミラージュは、虚ろな目つきで深呼吸を繰り返している。最後に魂ごと吐き出すような深い息をゆっくりと吐き、それっきり静かになった。本当に疲れているのだろう。全身の力が抜け、苦痛にこわばっていた顔も穏やかに緩んでいた。ようやく、待ち望んでいた眠りについたようだ。
「……おやすみ、ミラージュ」
口付けた額は、初めから作られた機械のようにひんやりと硬かった。
……これは間違いなくゲームだ。目が覚めれば、永遠に終わらない殺し合いが始まる。刻まれた傷が明日には全て癒えるように、自分を駆り立てた感情、欲望、そして今この身に迫り来る深い喪失感。全てがきっと嘘みたいに消えてしまう。そうでなければいけないが、二人きりの空間はあまりに愛おしく、失うことがひどく名残惜しい。
しばらく天を仰ぎ、襲いかかる強烈な眩暈に耐えた。ごうごうと鳴るプロペラの音は、クリプトだけを置き去りにするように段々と遠くなっていった。