『全件削除しました』

 深夜0時を回った頃。
 携帯の着信履歴に並んだ「非通知」を今日も丸ごと消し去って、水面から浮かぶようにゆるりと上がった視界には星もない夜一面。
 思い当たる節は無きにしもあらずとは言え、毎日ちょうどトイレの回数ほどかかってくるこの電話を取る勇気は、まだ、ない。
 僕は携帯をしまうと、考え事の顔のままで人の群れの中を歩いた。
 こんな事、相談しようにも相手は限られている。頼りになるのは、やはりあの人だ。
(ただ…なぁ)
 その顔を思い出すと、気持ちは逆をとって鈍っていく。
 過去、同じようなトラブルに遭った事がある。それを解決してくれたのがあの人だ。それも、なんとかゼミでやったような手合いみたいに、いとも簡単に。
 また持ち出せば、きっと呆れられる。

『電話番号…個人情報が漏れてる?…そう。今回は助けてあげないよ』
『梶ちゃんさあ、駄目だよ、学習しなきゃ…。
言ってるよね?俺、頭使わない人間なんかとは……』

 続きを言われるのが怖くなり、思わず首を振った。
 これ以上面倒に思われるのも心苦しいし、それに最近、あの人は一人で動いている事が多い。きっと何かあるのだろう。
 何をしているのかは相変わらず謎で僕なんかにわかるはずもないし、僕が聞いたところで教えてくれるとは思えない。
 ここは何が何でも、自分一人で解決するしかない。
 明日また電話がかかってきたら、とりあえず、番号を変えよう…。
 そうしてようやく考え事の顔から帰路へつく顔に戻り、いつもの交差点を目指すが、
(…あ、)
 僕は見た。
 自分のストロークでは七歩、いや、十歩だろうか。
 ちょっと大きな声を出せば聞こえるくらいの距離だが、声は人の壁に遮られて向こうには渡れないかもしれない。
 そんな分厚い人混みの中でもその人の姿は少しも掻き消えなかった。
 取り立てて奇抜な格好をしている訳でもないけれど、その人を強烈に浮世離れさせている銀色の髪が僕を標のように引き付けた。
(…貘さん?)
 呟きを喉の奥に押し込みつつ、けど、
(どうしてまた、こんな所に…)
 僕が気になったのは、その目線が目の前のビルに向いていた事だ。
 1Fに店舗が入ったよくある雑居ビルで、その店舗だって、またよくある…メンズヘルス、とういうか、そういうヘルス?
(まさか、ここに入る…のか?)
 そしてあの人の足が一歩、動いた。
 見届けていいものか判断に困っている内に、その足はピンク色の入り口を簡単にすり抜けて、屋上へ続いているらしい螺旋階段に向かっていった。
(……)
 僕は安堵にしては重すぎる溜息をついた。
 しかし、すぐにそれがまた喉へ戻ってくるほど驚くことになる。
 照明のない階段、上る影の少し前にもう一人の影があった事に気づかなかったのだ。
 ここからじゃ見えない、どんな人なのかまでは。
 遠くも近くもない距離をとったまま上へ上へ昇っていく二人は、おそらく連れ合いなのだろう。
 普段ならそのまま通り過ぎるシーンなのに。ただ今は、それが無性に気にかかった。
 僕は旋風を食ったような喉の渇きを、ごくりと一度だけ潤してからこっそりと後を追った。



 屋上に上った所で二人の姿を見つけ、慎重に物陰に隠れた。
相手の顔はやはり見えない。
 二人は、僕のいる方とは反対側に位置するフェンス側に体を向けていて、こちらの可視範囲はほぼ二人の後姿になる。
 屋上は思ったより風が強くて、決して遠くはないこの立ち位置から耳をそばだてても、声がぼそぼそと聞こえるだけで会話までは聞き取れない。
 どうしてこんな覗きまがいの事をやっているんだと苦い気持ちが喉にこみ上げるが、その時僕の背筋は一気に緊張した。
「あんた、何考えてんだ?ええ?」
 はっきりとここまで聞こえたのは僕の知らない男の声だ。
 会話に必要な距離を越えて二人の人間が接近する。
 胸倉をつかまれる貘さんの顔が、少しだけ見えた。
 影形もおぼつかない僕の夜目を妖しくとらえる程、その唇は確かに笑っていた。
「……だとかなんとか…関係ないって言ってんの!そんなんじゃないんだよ、俺の気持ちは…」
 男の声は荒さをはらんでいた。
「俺は、こんなに思ってんのによ…!」
「……」
 その言葉を待っていたように、貘さんの唇は笑ったまま何かを呟いた。
 ……何を、話しているんだろう。
 胸の芯から一つ、穏やかでないものが生まれる気分がした。
 勘が鋭い訳ではない。特別疑い深い訳でもない。しかしこの状況が僕を否応なしに追い立てる。
 僕はこれから、とんでもない事を知ろうとしているのではないか。
 ……そして僕は、こめかみを打たれるようにはっとした。
 貘さんに迫った男の手元が翻る。何かを握っていた。
 男が振り上げた瞬間、ちらりとわずかな光に反射するそれが何なのか、微温湯のような日常に浸っていた今までの僕なら、非現実過ぎて見当がつかなかったかもしれない。
「(……!)」
 危険は頭でなく肌で感じるものなのだと知った。
 何よりも先に体が動いていた。

「ちょっとあんた、何やってんですか!」

 背後から飛びついた僕に男が誰何を叫び、振り向こうとする。
切迫すれば、その手が握ったものがようやく目にあらわとなる。刃の黒いナイフだ。
 普通の刃色ならもっとわかりやすく反射したはずだろう。
 おかしなものを持ってる人だ、と歯噛みをしながら、
 利き腕を掴んで凶器を取り上げようとするも、空いたもう片方の腕でみぞおちに肘を喰らってしまう。
 腹に響くいやな音。一瞬息が詰まったが、痛みより確信が先に立つ。これで彼は貘さんから手が離れたはずだ。
 揉み合いながらも両腕を捕らえて後ろに引き倒そうとするが、
「…!」
 唐突に、男の体が跳ねるように揺れた。
 そのままずるずると倒れこむので、つられて僕も大きな体を抱えたまま二、三歩後ろにたたらを踏み、そしてどっかりと尻餅をついてしまった。
「え…なっ…?」
 何が起きたのかわからないまま、僕ははっと顔を上げる。
 僕の目の前には貘さんが立っていた。
 薄らとした月を背にその輪郭は淡く霞み、どこか夢幻めいた姿。
 差し伸べるように突き出した手には、掌にちょうど収まる程の何かが握られていた。
「…あの…」
 貘さんは黙ったままだ。
 僕の腕に抱えた男は、見ると痺れたように体を引きつらせている。
 おそるおそる、貘さんの手元の物と無言の男を見比べる。
 この二人の間で一瞬前に何が起こったのか、じわじわと理解が形になって脳に浸透し始める。
 だけど、これは…
 固唾が喉に絡んで何も言えない僕を、貘さんはどこか残念そうに見下ろして、たった一言だけ呟いた。
「………馬鹿」



 一切の抵抗をなくした男の体を自分からはがして地べたに寝かせると、ようやく緊張がほぐれたか、全身が泥にはまったよう、どっと重くなる。
 眩暈さえ起こしかけた僕に、貘さんは手を差し出した。
「大丈夫?」
 ぎくりとした。が、その掌にはもう何も握られていなかった。
「あ、…はい」
 少し躊躇ったが手を握って起き上がると、貘さんはいつもの薄笑。
「…俺の事つけてたんだね。駄目だよ、危ないから」
「すみません…何か、気になっちゃって」
 動かなくなった男を気にかける風もなく、僕に向かって仕方ない子供を見るように眇められる碧眼。
 僕から離れてフェンスの方へ歩くので、僕も数歩後を追いつつ、ようやく動き出した唇を叱咤するよう舐めた。
「…貘さん、でも…これ」
「ん?」
「何も刺す事なかったんじゃ…正当防衛だとしても、ちょっとまずいですよ」
「刺してないよ」
 心外、という風に眉をひそめて、貘さんは手を後ろに回すと、「ほい」と軽い調子で僕の前にそれを出した。
 刃物状でもなく、殴打する物にも見えない機械だ。
 一見マウスのようにも見える黒い塊を、自分の知りうる知識と繋げるためにはいくらか時間がかかった。
「えっと、スタンガン…ですか」
「ちょっと違うかな。使い方は似てるけど…感電させるタイプじゃないよ。ここから強い高周波が出てね、筋肉組織に走ってる脳波をジャミングすんの」
「はあ、…」
「で、随意筋のコントロール能力をなくしてやれば、結果こうして腑抜けになっちゃう訳だ…操り人形の糸を切るようなものだと思っていい。まあ、あくまで一時的なやつで、本当に切る訳じゃないから安心してよ」
(何処で買うんですか、そんな物…)
 投げかけるにはあまりに瑣末な疑問だったので腹の中で霧消したが、
 貘さんが喋りながらも目線は僕を通り越し、僕の後ろに何かがあるように目を細めているのが気にかかった。
「……」
 首を捻って振り向くと、貘さんに糸を切られた操り人形が、数歩先に身を横たえたままその目をこちらに向かって見開いていた。
 それは、カードゲームで強烈な一枚を引き当てたような動揺の表情に似ていて、
 しかし、良い意味なのか悪い意味なのかが読めない。あるいはそのどちらも含んでいるように思われた。
「…そうそう、これね、体にショックは与えるけど、心臓や呼吸機能にまでダメージは及ばない…。頭も思ったよりしっかりしてるみたいだし…。アンタ、運がよかったね。こんなに近くで拝めたんならさ…長い事潜んでた甲斐はあったかな?」
「……」
 男に歩み寄る貘さんが、確信めいた事を歌うように口にする。
 しゃがみ込んだ貘さんが見下す男の顔は、それを一字一句まで理解したらしく、動かない体で抵抗を示しているようだった。
 そのまま男の耳元に口を寄せて、貘さんは何かを囁いた。
「……………」
 凍りつくとはこういう顔を言うのか。
 彼の青い顔が人間らしい凹凸をなくしたように、溶けるように無になっていくのを、僕は戸惑いながら見るしかできなかった。



 ホテルの前にタクシーを寄せると、何だか肌寒い風が首の後ろを撫でてゆく。
 先に降りた貘さんは襟を整えながら、思い出したように口を開いた。
「そういえば、梶ちゃん」
「何ですか」
「さっきのあの人、ストーカーだったんだよ」
 ……。
「やっぱり…」
「俺、あちらさんの事ちょっと調べてたんだよね。今日はやっとお呼び出しができたから、もっと腹探ってやろうと思ってたんだけど…」
 貘さんはそこまで言うと、僕を助けてくれた時と同じ、何だか残念そうな目を向けた。
「いいとこで邪魔するんだから…ほんと、困っちゃうよね梶ちゃんは」
「でも、あれは本当に危なかったじゃないですか。僕が押さえなかったら、あのアレを使う前に、刺されてたかも知れないんですよ」
「大丈夫だって。なぜなら俺には北斗神拳があるから」
「それに、貘さんがそんな人に付きまとわれてるなんて、全然知りませんでしたよ。相談くらいしてくれても…」
 貘さんの眉が片方だけ持ち上がった。
「…梶ちゃん、何言ってんの?」
「え?」
「ストーカーの相手は俺じゃない。梶ちゃんだよ」
「……え?」
 僕はおそらくこの数時間で一番まぬけな顔をしてしまったに違いない。
 自分なりに整理整頓した頭の中の情報が、もの凄い勢いで土台を引っこ抜かれて崩れてゆくのがわかった。
「…僕?」
 貘さんの驚いた顔が、少し呆れた風に変わる。
「何で気づかないの…携帯にあやしい着信、毎日入ってるよね」
「え?ええ…それは、まあ」
「木曜は決まったコンビニ行くよね?帰り道、後つけられてたのには?」
「いや、全然…て言うか、気づいてたんなら教えてくださいよ…」
 頭の悪い学生の見当違いな答えで、すっかり興を削がれた教師の顔ぶりだった。
「梶ちゃん…前にもあったよね、こういう事。今度は携帯の番号がどっかで漏れたんだろうけど…」
「…そうですね…」
「…梶ちゃんさあ、駄目だよ、こういうのはちゃんと学習しなきゃ…」
 これ以上言わせないでよ、と言いたげな調子に僕は息詰まった。
 ああ、こんな台詞、想像の中でも言われた気がする。
 僕はこうして今、現実の世界でもこの人に罵られてしまうのだ。
 きっととても軽々とした言葉で、

「…梶ちゃんに何かあったら、俺が困るんだよね」
「……」

 じわり、こめかみが熱くなる。
 心臓が喉元まで這い上がる心地がした。
 考えてもいなかった言葉に、こみ上げる動揺を抑える術が見つからない。
 恥ずかしくなって、頭が勝手に下を向いてしまうのはどうしようもなかった。
 でも、すぐに複雑な気持ちが芽生える。
 ……正直、嬉しかった。
 けど、僕はいつもこうして結局貘さんにほだされ、それに甘えてしまっているのだ。
「梶ちゃん?」
 このままでは駄目だと思った。
「…大事にならない内に、あの人の事、色々調べてくれてたんですよね。それは…その、ありがとうございます」
そこまで言ってから、意を決して僕は顔を上げた。
「でも、僕だって今まで場数は踏んでるんです。いざとなったら自分の身くらい守れますって」
「……」
「僕なんかの為にそこまでしなくていいですよ。貘さんは、優し過ぎるんだ…」
 貘さんの瞼が少しだけ下がった。
「……そう?」
 伏せられた長い睫毛で瞳が隠れる。
 その顔は物憂げというよりは、若干の憮然を孕んでいるように思えた。
「…梶ちゃんのためって言うか…俺は梶ちゃんみたいなのをストークする物好きがどんな奴か、ちょっと知りたかっただけだよ」
「そ、そうですか…」
「まあ、お灸も据えといたし、あれで懲りたでしょ」
 思わず気圧されたが、再び瞬きの後にこちらに向けられた目には、先ほどの些かぞっとする表情は消えていた。
 お灸もお灸で、貘さんは涼しい顔でえげつない事をやってしまうのだから恐ろしい。
 そこで僕はふと、あの人の最後に見せた顔を思い出す。
 武器で屈服させられる以上に衝撃的に思える言葉を、あの人は貘さんから聞いたはずだ。
「貘さん…あの人に何か言ってましたよね」
「…ん?」
「あれ、何だったんですか?ケツモチ呼ぶぞこの野郎!とか…?」
「……」
 目が少しも形を変えないまま、唇だけが信号された機械のようにくつりと笑った。
「…知りたい?」
 僕は再び背筋を戦慄に撫でられる。
 その表情に体を捕らえられた気がした。
 貘さんが近づいてくる。事はわかる。
 けど、僕の視界を妖しく占領してくるその目から、逃げる事ができない。
 遠い場所からやってくるように、肩に何かが、何かが滑るよう触れてくる。
 掌だった。それが肩に絡みつくように回されて僕はようやく感覚を取り戻し、
「!!」
 ほぼ反射的に貘さんの肩を掴んで引き離していた。
「…どしたの」
 おかしなものを見るように貘さんは首を傾げた。
「…そ、んなに近づかなくても。何言うつもりだったんですか」
「聞かれたら都合が悪い事に決まってるじゃない」
 こんな深夜に、エントランスからも見えないような所に、誰かいるようには思えない。
 いや、いるのかも…。
 もはや何を信じたらいいか分からなくなってきた。
「ま、大した事でもないんだけどね。いつか教えてあげるよ、覚えてたら」
 そう付け足して、
「俺、寄る所あるから先に戻ってて」
 僕の肩を一度、軽く叩いて促す。
「……」
 やんわりと、しかし、除けられない装置に操られる気がした。
 僕にはそれを拒む理由もなかった。
「…おやすみ」



 あの日から非通知着信はぴたりとなくなってしまった。
 そういえば、電話は貘さんと一緒にいる時にも鳴った事がある。
 慌てて携帯を閉じて何も知らない振りをした僕に、「誰から?」と聞いてきたので、僕は適当に取り繕うため「さあ、知らない人です」と答えたのを今ぼんやりと思い出す。
 不自然な答えだったと思う。
 きっと貘さんは気づいたのだ。
 そして僕が出したぼろを点として、そこから一つの線を描くために、僕が気づかない所で一人動いていたのだ。
 ……僕はまた助けられてしまった。
 本当は、少しでも力になりたかった。
 あの人の後をこっそりつけたのも、そんな気持ちに背を押されたからだ。
 結果は、全くの逆。
 不甲斐ないけれど、僕はまだあの人の手元を追えない。見えてもいないものを、追える訳がないのは最もなのだが。
 それに、最後に僕に言おうとしたあの言葉も、多分はじめから言うつもりはなかったのだろう。
 僕がまだ聞いてはいけない言葉を僕の前で隠す、あの人は優しくてとても狡い人だ。
 それでも僕を傍に置く意味がいずれわかる日が来るのなら、今はこのままでもいいと思うのもまた僕の望みであり。

 あの手に触れられる度に体温が1℃ずつ上がっていくような、奇妙な感覚の正体を、その時僕はまだ捕えられなかった。