「目蒲」

 暗闇に突如、鈍色を思わす低い声が銃声の様に突き刺さる。
 それに驚いて目を開けると、初めて会った日と同じピンストライプ・スーツを着た貴方が私を静かに見下ろしていた。
 私は動物が四足で這うように地に伏せていて、目覚めた瞬間から全てが不可思議だった。
 ここは何処なのか、そもそも今まで何処で何をしていたのか、頭に靄がかかった様で全く思い出せなかった。
「おい、呼ばれて返事もできないのか」
 貴方の声が微かな怒気を孕んだ様に思えた。
「…申し訳、ございません」
 戸惑いを押し留め、ようやく立ち上がろうとすると、不意に右腕を強く引かれた。
 そのまま持ち上げられる様に起きて、貴方と目線を同じくして気づく。
 貴方の目は眼鏡越しにはっきりと私を見ていた。
「……」
 腕は強く掴まれたまま、何もない場所でただ互いを見詰めあう。
 五感が告げる。私は今確かにこの方に見られているのだと。
「…佐田国様」
 私の言葉は胸に詰まり、うまく言葉にならなかったかも知れない。
「何て顔してる」
 隙のない硬質な表情のまま、貴方は私の頬に触れた。
 厳しい声とは裏腹に酷く優しい掌。
 ぞくりと甘い高揚が走り、言葉を知らぬもののように私は俯き唇を噛んだ。

 ……そうだ。
 貴方の為の王道を作るべく、私は幾つもの禁忌に手を染めた。
 稚拙で感情ばかりの愚か者だと己を責めた事もあった。
 しかし止められなかった。
 貴方の傍らでその影となれる至福が、私の懊悩をことごとく踏み敷いたからだ。
 至福は時折苦しみの形であったかも知れない。貴方に絶望した事もあったかも知れない。
 私にとって、そのあらゆる意味を込めて、貴方はこの世の全てだったのだ。

 やがて、何もない場所を私は貴方と歩き出した。
 床と思しき透明な空間に二人分の足跡が生まれては、陽炎のように掻き消える。
 私は貴方と歩き続けた。
 ここが何処であるのか、この道とも言えない道が何処へ続いているのか。
 いずれにしても、貴方の隣にいれば、少なくとも貴方からはぐれる事はないだろう。
 そんな事をぼんやりと思い耽りながら。