テオが知る限り、キーナーはディビジョンのエージェントとして知り合った頃からずっと結婚指輪をしていた。しかしキーナーの口から結婚生活や、彼女自身の話を聞いた記憶はない。連絡を取っている様子もない事から、きっと行方不明者リストに載っているか、あるいは既に死亡しているのだと思った。テオはそれについて尋ねる事はしなかった。たとえもう会えないとしても一途に彼女を思っているという強い意思が、キーナーの薬指には宿っていたからだ。
 ブラックフライデーから6か月。ドルインフルがもたらした災厄、そしてアメリカのほぼ全てが無法地帯と化した事で、今生き残っているほとんどの人間が家族や大切なものをなくし、悲しみに暮れている。
 同情していると言えば、キーナーは複雑な顔をするだろう。しかしテオにとって、同情は無くてはならない感情だった。彼に対して、許されない情愛を持て余しているのは自覚している。彼の指輪を見る度に感じる胸の痛みこそが、彼への密かな思いを押し留めていた。

 5月が終わろうとしていた。テオはキーナーと共にバッテリー・パークを訪れていた。
 長く厳しい冬を乗り越えたニューヨークに、ハリケーンが追い討ちをかけた。ハドソン川が洪水を起こしたせいで、一時期はエリアごと手つかずの状態だった。キーナーの思想に同調して無許可離隊、つまりローグ化したエージェントは続々と増えているが、人員や物資は十分とは言い切れない。バッテリー・パークに来た目的は被害状況を偵察し、エリアで連絡が取れなくなった仲間を探す事だった。
 音信不通になった仲間のほとんどは死体で見つかるのだが、装備品をエージェントに奪われていると厄介だ。例えば改造を加えたネットワーク機器が向こうの手に渡れば、知らない内に通信を傍受されてしまう。実際、傍受した内容をエージェント達が共有し、潜伏先を知られるケースは珍しくない。死体の身元を調べると同時に、通信機器やスマートウォッチなどの装備品を回収するのも重要なタスクだった。
 キーナーと行動を共にするなら、エージェントに検知されるのは絶対に避けるべきだ。テオはこの数日で、EMPやパルスをより広範囲に干渉できるよう改造した。あまり睡眠をとらないまま深夜に基地を出て、日中は街を巡回して過ごした。

 バッテリー・パークの街並みはかつての面影をなくし、瓦礫と泥、死体、不法投棄物の墓場になっていた。さらにこの時期は雨量が増え、汚染物質を含んだ雨に晒され続けた街には錆びた臭いが充満している。
 ハドソン川に面したワーグナー・ホテルも例外ではなかったが、頑丈に作られた建物のおかげで室内の状態は悪くなかった。食糧をはじめ目ぼしいものはとっくの昔に奪い尽くされ、周辺を含めて人の気配はない。わざわざ見回りにくるエージェントもいないだろう。邪魔をされず作業をするにはうってつけの場所だった。夕方から夜にかけて客室の一つを整理したテオ達は、回収した装備品や、拠点に使えそうな場所の写真をチェックしていた。
「これで全部か?」
「今日の分は、ひとまず終わりだね」
「そうか。あとはこの泥を何とかしたいな」
 思っていたよりも、街は不衛生だった。こういう状況に慣れているキーナーも、さすがにうんざりしているようだ。
「ちょっと待って、僕にアイデアがある」
 建物の電気は断たれているが、持ち歩いている小型のエンジンを温水タンクに繋げて、あとは屋上にあった貯水ケースの水を使えば何とかなりそうだ。
 二人がかりで屋上から浴室へと貯水ケースを運び、タンクの水を入れ替えた。続いて配線を繋ぎ変え、即席の湯沸システムを作動させる。沸騰には一時間ほど掛かったが、浴室に戻って蛇口を捻ると、思った通りに温水が出てきた。タンクの水はざっと見て20ガロンはある。二人分を賄うには十分だろう。キーナーは純粋に感心していた。
「さすがだな。これで、泥まみれで眠らずに済みそうだ」
「僕に言わせれば、パイを作るよりこっちの方が簡単だよ。褒められるのは嬉しいけどね」
 得意になって喋るのを、キーナーが兄のような視線で見つめてくるので少し恥ずかしくなった。
「えっと。キーナーさん、先に使ってくれよ。僕はもう少しやる事があるから」
「一ついいか。私の事は『キーナー』でいい。君が礼儀正しい性格なのは知っているが、どうにも照れ臭い」
「わかったよ……キーナー」
「その調子だ」

 キーナーが浴室にいる間、埃がうっすら積もったベッドカバーを剥がして、リネン室に残っていたものと交換した。決して清潔ではないが、むき出しの状態で雨や埃を浴び続けたものよりはマシだ。
 やがて、キーナーがシャワーを終えて部屋に戻ってきた。
「気が利くな。ベッドメイクか」
「まあ、これくらいはね」
 新しいシーツを敷いたベッドに、キーナーがゆっくり腰掛けた。肩と、それから腰の辺りにタオルをかけただけの格好は、目のやり場に困ってしまう。もう少し自分のベッドを整えようと思っていたが、この状況に対して勝手に気まずくなり、テオはうつむいたままシャワーへ向かった。
 初めて裸を見てしまった。エージェントとして召集がかかる前、彼はウォール街で働くトレーダーだったが、元々はシタデル大学を出ている軍人だ。名残と呼ぶには逞しい体つきと、血行がよくなった肌に浮かんだ傷跡までが目に焼きついた。ソワソワと浮ついた頭を切り替えるために、かなり高めの温度でシャワーを浴びた。

 ジップアップパーカーを羽織って部屋に戻ると、キーナーはまだ服を着ていないまま、真剣な顔つきでラップトップを開いていた。目が合うなり、画面をテオの方へずらして促してくる。
「こっちへ来い」
「けど……」
「確認したいデータがある」
 ためらったが、隣に座った。画面には死体から回収した映像データが映し出されていた。戦闘中の映像を録画したものだ。画面の一部をキーナーが指差す。
「ここだ。君が作ったオリジナルのドローンによく似たものを、ディビジョンの連中が使っている」
 すぐ傍にある小さなテーブルに手を伸ばして眼鏡を取り、改めて画面を見た。
「……本当だ。どうして奴らが」
「ドローンの残骸から、CPU基板を盗まれた可能性は?」
「あり得る。けど『魔法の言葉』を知らないと、簡単に同じ物は作れないし、できたとしても使えないよ。ああ、クソッ。やっぱりローズかな。あいつは僕をライバル視してるからね。けど残念だ、今は新しいバージョンを考えてる最中だよ。こんなのはすぐ時代遅れになる」
 それからひとしきり、新しいドローンの計画について話し合った。厳密には、テオが一方的に喋っている時間がほとんどだったのだが。頃合を示すようにラップトップをテーブルに置いたキーナーは、部屋の内装に視線を巡らせた。
「……良い部屋だな。こうなる前はもっと良かったんだろうが」
 話に没頭していたら、今いる場所をすっかり忘れていた。リゾートの季節でなくとも観光客が絶えない、ロウアー・マンハッタンが誇る五つ星ホテルだ。ただそれも、今となっては過去の話になってしまった。
「そうだね……とても良い部屋だった」
「来た事があるのか」
「ああ。昔、父さんが連れてきてくれたんだ。僕の誕生日に」
「父さんとは何を話したんだ?」
 興味深そうにキーナーが顔をこっちへ傾けた。普段は神経が張り詰めていて、こんな風にゆっくり話せる機会もない。いつになくリラックスした気分だった。
「子供だったからあんまり覚えてないけど……。ほら、バルコニーから女神像が見えるだろ。父さんはホワイトハウスに引っ越したら、あれに対抗して僕の像を建てるなんて言ってた。それはよく覚えてるよ。つまらないよね。政治のセンスはあるけど、ジョークはイマイチだった。きっと野菜ばっかり食べてたせいだ」
「……そうか」
 そこまで喋ってから、しまったと思う。本当はもっと場を和ませるような思い出話になるはずだった。しかし段々と寂しさの方が勝ってきて、言葉が詰まってくる。
「まあ、ジョークがつまらない大統領が一人くらいいても、悪くなかったと思うけどね……」
 自分への気休めを付け足して、黙った。こんな話をしなければよかったと、話してから後悔した。無能なカウンセラーよりもずっと親身に言い分を聞いてくれる彼には、得意分野だけじゃなく、個人的な事まで打ち明けてしまう。気分が緩んでいる時なら尚更だ。
 広い寝室にはしばらく沈黙が漂っていた。
「……テオ」
 それまで静かだったキーナーが、不意に肩を強く引き寄せてきた。
「え?」
 今までにないくらい近い距離に彼がいる。一体何を言ってくるのかと待っている内にもっと顔が迫り、何も言わずにキスをされた。
「!」
 少しも予想していなかったせいで、体が硬直してしまった。すぐに離してくれると思ったが、厚い舌が入り込んで口の中を強引にくすぐってくる。
「うぅっ……、」
 背中がゾクゾクと震えた。キーナーに好意を抱いているからではない。まるで急に銃を突きつけられたような、命を掴まれるような怖さを感じたからだ。首の後ろを腕できつく押さえつけ、テオの呼吸を全く考えないやり方は、息が苦しくて仕方がなかった。
 パーカーの中に手が入ってきた時、顔が燃えるように熱くなり、もう耐えられなくなった。
「……やめろよ!」
 思い切り胸を突き飛ばした。ベッドに片手をついたキーナーは、テオの反応に極めて不思議そうな様子だった。
「何を嫌がっている。わざとらしい芝居だな。ずっとこうしたかったんだろう?」
 さっきとは空気がまるで変わっていた。唇や舌に残った感触は、まだ触れられているのかと思うほど生々しい。ここが寝室であるという事実が、圧迫感を伴って手足にどんよりと絡みついていた。
「ぼ……僕がアンタを誘ってるって思ったのか。悪いけど、僕はそういうんじゃない」
 緊張で声が震えるのに構わず反論したが、かすかに笑われただけだった。体勢を直したキーナーが、再び目の前に迫った。
「いいか。私は模範的なプロテスタントで、そして異性愛者だ。君の『熱い』視線には以前から気付いていたが、どうしても応えられなかった。正直参っていたよ。君が新人のエージェントとして、私の所に来て2か月目から今日までずっとだ」
 今度こそ顔が引きつった。この感情を今まで隠し通せていると思っていたのが浅はかだった。彼がそれくらいの事に気付かないはずがない。隠そうと努力しているのもお見通しだったのだろう。キーナーは許すように少し眉を持ち上げて、穏やかに続けた。
「……だが今は、考え方が変わってきた。君は私のために、極めて高いレベルの技術を提供してくれている。そしてこれからはもっと強い連携と、互いを裏切らない結束力が必要だ。それには今の環境じゃフェアにならない。だから君がこれまで以上の働きをする代わりに、私は君が望む事をしてやろう。君にとっては悪い話じゃない。私にとってもだ」
「……」
 テオにとって、キーナーの言葉は常に論理的で説得力のあるものだ。しかしこれほど無茶だと感じる説明はなかった。
 ……キーナーがこの想いに気付き、応えてくれる日が訪れる。それは叶わなくていい、いや、叶ってはいけない願望だった。はっきりとした理由があるから今まで隠していたのだし、今以上の関係になる事なんて全く望んでいなかった。それにキーナーの計画にはテオの力が必要であり、それが彼に対する禁じられた欲求を代替的に満たしていた。つまり、彼の側で仕事ができるだけで十分だった。
「確かに僕は……アンタにおかしな気を持ってる。エージェントになって2か月目から今日まで……? ああ、多分そうだ、全部言う通りだよ」
「それで?」
「……。無理だって言ってるんだ。だってアンタ、結婚してるんだろ。奥さんがどうしてるのかずっと気になってたけど、聞いちゃいけないって思ってた。僕にはデリカシーがある」
「……」
「こんな事言いたくないけど、見つからないならもう亡くなってる可能性が高い。アンタだってそう思ってるよな。それでも彼女を愛してるんだろ。だから今も僕の前で指輪をしてるんじゃないのか? わかってて、こんな事できる訳ないだろ」
 今まで溜め込んでいた言葉を、一気に吐き出した。キーナーは自分の左手と、テオの顔を交互に見る。それから納得するように、数度うなずいた。
「そうだな、済まなかった。じゃあ、こうしたらどうだ」
そう言って、あっさりと指輪を外してみせた。
「!」
 呆気にとられるテオの前で、キーナーはつまんだ指輪を無造作に床へ放り捨てた。糸が粗くなったカーペットにぶつかって不規則に跳ね上がり、鈍く回転しながらテオの足元に転がり落ちたシルバーのリング。彼の手から離れると途端に、ひどく虚しいものに感じられた。
「信じられない……正気なのか」
「これで、君が気にしていた問題は解決した。私は正真正銘の独身だ。もう誰のものでもない」
 すぐに言葉が出ないテオの両手を、キーナーが握る。暖かいのか冷たいのか判別できない不気味な温度だった。せめてもの抵抗で腕を引こうとしたが、それ以上の力で引っ張られて、さっきより距離が縮まった。顔が触れ合いそうに近くて、目を背けたくなったが耐えた。
「わからない……わからない。どうして嘘をつくんだよ。僕をからかってるならいい加減にしてくれ。アンタがやってるのは、ただの言葉遊びだ。こんなのは間違ってる」
 伝わってくれと願いながら批判したが、彼はさも愉快そうに鼻で笑うだけだった。
「何故嘘だと決めつける? 私が間違っているかどうか、何故君に断言できるんだ」
「何故だって……? やめてくれよ。アンタはこんな事を、簡単にやるような人間じゃない」
「おかしな話だな。君にはデリカシーがある。確かにこれまで私のプライベートを詮索してきた事は一度もなかった。つまり君は私の事を何も知らない。私が本当はどんな男なのか、君に判断する資格は全くもって無いんだ。違うか?」
 喉を締めつけられる心地がした。静かな語り口だったが、彼の瞳は一切の反論を許さない鉄のレンズだった。これまで真っ直ぐな尊敬と、そして淡い恋慕を寄せていた彼の顔が、水の染み込んだスケッチみたいにぼやけていく。強い目眩がしてきた。
「どうしたんだ? テオ。私は君に重要な秘密を打ち明けた。次は君の番だ。私にどうして欲しいか正直に言うんだ。それだけでいい」
 肩を掴まれ、胸の中に抱かれた。しかし再び彼を押し退けるには、あまりにも消耗しきっていた。
「キーナーさん……何でだよ……」
 無粋なものを聞くように、すぐ近くに迫った唇が苦笑の形に歪んでいた。
「困ったな。何度も言うが、『さん』は要らない。もっと親しみを込めて呼んでくれ。まるで私が君に、悪い事をしているみたいだろう?」

 ブラックフライデーの悲劇は、人間の命の価値を選別し淘汰するべく遣わされた現代の方舟だった。選ばれた者は生き、そして選ばれなかった者は死んだ。しかし世界はなお、あらゆる病に冒されている。テオにとって、道標のない霧の中に現れて手を差し伸べてきたのがアーロン・キーナーという男だった。
 この日テオは、自分を律し続けてきた罪の意識を引き換えにして、彼の冷たい情熱に溺れた。夢の中にいるように意識が酩酊し、体が自分のものではないようだった。揺らめく視界にキーナーのうっすら紅潮した顔があり、その口が普遍の決まりごとを教え説くように淡々と囁いた。
「テオ。嘘は隠し通さなければ意味がない。逆にどんな嘘でも、貫き通せば真実になる。全ての歴史がそうして作られてきたようにな」
 吹き込まれた声は、未曾有のプログラムを形作るため、テオの中で美しくコーディングされていくように思えた。
 不思議だった。彼に全てを預ければ、世界も自分も生まれ変わる事ができるという確信を感じ始めていた。目に見えるものが全てだと考えてきたテオにとっては信じがたい変化だ。しかし生きるために他人を踏みにじり奪い続けてきたテオの中には、いつしか形のない、おぞましい悪魔が棲み付いていたのかもしれない。
 キーナーの左手を握りしめて「そうだね」と呟き、外した指輪が作った溝を埋めるように口付ける。これまでの罪悪感を塗り替えるほど強い昂ぶりを覚え、テオは密かに心を震わせた。