あれを思い出していた。
 気紛れな唇、寒気の様に背中を這い来る両の腕、透いているのか淀んでいるのか読み知れない両の目。
 他の誰でもなく、自分の下で体を開くお屋形様。その全てを愛でながら、昨日のあれを思い出していた。
 ……そうだ、はっきりと覚えている。
 わざとらしく隙間をあけた扉の前に自分が来るのを、自分でもお屋形様でもない「彼」はよく知っており、誘い、かつ驚かし、引き離そうと企んだのだ。

 彼の趣味にはほとほと、呆れると言うか、返す弁すらない。
 純文学の表紙をわざと下卑た低俗小説にかぶせる様に厚かましく、それが判った時には思わず瞑目する程の腹立たしさを覚える。
 彼が、敬するべきお屋形様の体を壁に押し付けて、物のように扱う様は不敬の範疇を越え、見ているだけで胸が悪くなる思いだった。
 まるで獣だ。蜥蜴が人間に化け果せたのか。
 そそのかす、というには余りに一方的で獰猛な行為。
 その欲の儘に突き上げられて、儚い事に、艶かしい人間の体は男の背に縋らねばまともに立ってはいられないようだ。
 こちらが盗み見ている事には気づいていないのか、そんな事はどうでもよいのか、自分の知り及ばない色の声で、言葉と言うには足りぬ事を漏らし、時折押し殺した息でそれを霞ませる。
 垣間見える表情はぞっとする程美しく、そして御しがたい嫉妬を煽るものだった。
 獣は獣らしく乱暴な愛撫をしながら、その黒髪を掴んで捻るように斜めを向かせ、生白い首筋に思い切り噛み付いた。
 行為は激しく、そして最後に達しようとしていた。
 牙で喉を絞められて声も出せないのだろう、お屋形様は濡れた唇をにわかに歪ませた。
 拒絶とも恍惚ともつかぬ目が細まっては開かれ、乱れに乱れて、ついに彼の顔にしがみつくようにしてそこへ爪を立てた。
 悩ましい苦悶の顔、喘ぐ喉、ぶるぶると震える手。
 ……ああ。
 何度となく捧げて来た快楽の絶頂が、今この時は彼によりもたらされているのだと思うと、今すぐにでもあの厚顔を形がなくなるまでに潰せばどれだけ爽快であるか、血が煮え繰り返る心地がした。

 全てはお屋形様の御心一つなのだ、彼とこの自分を渡り歩くのが許せぬなどと、言えるはずもない。
 従僕は主人が望む儘に望む物を差し伸べる、ただそれだけ。
 知ってはいるが、時折どうしようもなく胸が渇く。
 そう、なに食わぬ顔で誘い合い、肌を重ねている今もそうだ。
 薄暗い照明に晒した首筋にはっきりと浮かび上がる捕食の跡に唇を這わせると、いっそ彼と同じ様に、一思いに喉を食らってしまいたいと思った。
 抑えきれぬ衝動が歯の奥からざわりざわりと誘惑するが、否、自分はこの関係において、獣に成り下がる様な真似などできない。
 違う、彼とは違うのだから。
 希少な泉を掬う様に体を抱きながら、黒曜の如き目がもっと激しい物を欲しそうにこちらを見上げるのを、どこか焦りに似た思いで見下ろした。



 それからどこぞやですれ違った彼の頬には、不格好な斜線があった。赤く細い、爪の跡だ。
 何か思わせる風でそれを触りながら立ち止まり、彼はこちらに向かっていつもの調子で世間話を始めるので、どうしたものかと考える。
 聞かぬ振りをしたい所だが話は途切れず、そして聞き間違いでなければ、
「ところで、さっきから何を見ている。……これか?ああ、大した事はないが、こういうものは早く治ってくれるに限る……お前のような疵面にはなりたくないからな」
 聞き間違いでなければ彼はそう言った。
 神経をほんの少し、糸程のものを指で摘んで引っ張る様な挑発だ。
 乗る気もしないが、常に不遜な微笑を携えるその面を視界から外す前に、
「そうですね、貴方には似合わない」
 それだけを言うと、彼はさも可笑しそうに、やけに耳に焼き付く独特な声で、快哉を叫ぶように哄笑した。