【レリウス・ハザマ】

「ハザマ、私だ。入るぞ」

 扉を軽く叩いて開けると、重厚な調度が揃った執務室は無言でレリウスを出迎えた。
 目だけを動かして周囲を見渡すが、煌々とついた照明の下に部屋の主はいない。黒いジャケットだけが脱皮された様に無造作に椅子にかかっている。
 しばらく黙って視線を巡らせていると、背後からゆったりした足音と共に、若干甘さのあるソープの香りが無遠慮に鼻をついた。
「…大佐。ノックぐらいしてくださいよ」
 今し方シャワーを終えたばかりと思しきバスローブ姿のハザマが不承気な声で突然の来訪者を詰る。
 頭からかぶったタオルで表情のおおよそは隠れていたが、声の色とは裏腹に、穏やかに持ちあがった口角は特に気分を害した風もない。
「ノックはした。お前が気付かなかっただけだろう」
「だからといって勝手に入ってこられては困ります。全くこれじゃあ、プライバシーも何もあったもんじゃないですね」
「悠長に寛ぐのは私室だけにしろ」
「またまた、お堅い事を。それで、大佐がこんな時間に何の御用です」
 交わしても実の無い会話の間、仮面の奥からレリウスの目はハザマの開いた胸元を見つめていた。
 鎖骨からちらりと見える殴打の痕がまだ新しい。ついで、肋骨の辺りに三つ並んだ歪な赤い線は人間の爪痕によく似ている。バスローブに遮られている肌には、更に多くの傷跡を拵えているのだろうと推測された。
「大佐?」
「出掛けていたのか」
「ええ。私のような下っ端は足を使わないと、仕事になりませんからね」
「…そうか。」
 ハザマの体はヒト同士の純粋な結合で生まれたものではない。偶然の作為では有り得ない、作られるべくして作られた器としての体である。
 人間離れした身体能力は勿論、殊に自然治癒力の異常な高さは入念に調整を重ねた成果だ。ダメージが致命傷に至ろうが傷ついた細胞は恐ろしい速度で入れ替わり、創傷は程なく回復する。
 今のハザマの体は随分と自己修復に時間がかかっているようだ。おそらく、只者の与えた傷ではないのだろう。
「どうだ、飼い犬は懐きそうか」
「おや」と驚くハザマの声には幾分か笑いが混じっていた。
「やっぱり貴方にはバレバレですか。それともこんな事まで監視を?貴方こそ、随分と働き者なんですね」
 一歩寄り、隠すつもりもない肌蹴た胸の引っ掻き傷をなぞるよう上から手を触れた。
 まだ塞がっていない裂傷がぐずりと真新しい血を滲ませる。
「あまり無用な事に酷使するな。もしもの時に使えなくなっては困る」
「…親心、なんて無いんでしょうね、貴方には。もしかして…妬いちゃってるんですか?大佐ともあろう御方が、あんな、詰まらない犬なんかに?」
「……」
「嬉しいですねぇ。大佐にも少しは人間らしい感情がおありのようだ」
「…お前の冗談には品がないな」
 言葉の代わりに、ハザマの口が人間にしては横広い三日月の形にぱっくりと裂ける。
 フードの様に深いタオルから覗く目は、暗がりより獲物の寸隙を狙う毒蛇の邪悪な金眼そのものといえた。



【ラグナ・ハザマ】(初めてのvsハザマがドロー決着だったのでネタに)

 空が遠ざかったような、近くもなったような、妙な気分だった。
重い。気絶した人間の体は痩身と言えど砂袋の様に重くて鬱陶しい。今すぐに退いて欲しいが、生憎こちらも満身創痍で、伸しかかる男を押しのけようと背中に腕をかけたきり力が入らない。
「ざまぁ無ぇな…テルミ」
 自分の上にある緑色の頭も、ぴくりとも動かなかった。人の体の上に勝手に寝そべって、背の割に小さな頭を首元に擦り寄せる格好はこの男が嫌ってやまない生き物によく似ていたが、揶揄った所でその目は開かないだろう。静かに伏せられた睫毛が頬に長たらしく影を落とした顔は精緻で青白い。体は同じ生き物とは思えない程芯からひやりとしていた。
 憎い。この男が。何度となく、その喉を引き裂く夢を見た。知る限りの言葉で罵りながら、血管が青く透いた真っ白い首の根に冷たい刃を差しこむ夢を。沢山の命を食ったのだ、吸えばさぞかし美味い血が吹き出るに違いない。自分は本能をあげてこの男に執着していた。この男の形を残したくないあまりに、骨肉やはらわたを欠片も残さず食おうとさえ願っていた。この男を囲った餐事はきっと地上のどんな快楽より愉しいものなのだろう。
 しかし恨むべきは、頭一杯に広がる衝動に従わないこの体だ。美味な餌を食うための舌を削がれた犬の心地がして、腹立たしく、呆れる程に虚しかった。
 意識もやがて覚束ないものになり、視界は靄に染まり男を抱えた腕の感覚までもがなくなっていく。
「…勝手にくたばるんじゃねぇぞ。テメェの命乞い聞くまで、何処までも追いかけてやるからよ。だから、さっさとそのほっそい目ぇ開けやがれ」
「……」
「……バカが……」
 不自由になっていく口がまだ動こうとするが、それは最早自分の耳にも届かない囁きへと萎んでいた。



【大魔王ハーザマ×ラグナ姫】

 とても不快な夢を見ている気がして、金具を引っ掛けてこじ開ける様に無理矢理目を開けた。
「……」
 ぼんやりと霞む視界の中、自分が寝ているのはベッドの上なのだと気付いた。ワインレッドのビロードが天井に広がり、それが四角い天蓋として、体が沈む様な柔らかい寝台を一層華美に仕立て上げていた。大きさもキングサイズどころではない、自分がキングであろうがこの広さでは落ちつかない。一体ここは何処なのだろう。記憶をさらうが、どう首をかしげてもこんな所に身を横たえたつもりはなかった。
「…うぅ、」
 無理に思い出そうとすると頭の奥が揺さぶられる様にずきずきと痛む。どうにか首を捻り左右を確認して、ここは誰かとんでもない身分の人間が使う寝室なのだと推察した。
 家と言うよりは、城だ。部屋の装いは一般人には到底揃えられない、上等なゴシック調で統一されている。が、よく見ればどれも生贄を掲げて不穏な儀式でも始めそうな不気味な装飾の調度品ばかりだ。寝室とは言え周囲も必要以上に遮光が効いて薄暗く、昼なのか夜なのかも定かではない。一日中休まず燃えていそうな燭台の蝋燭は凝固した血液のように赤黒い。豪奢な額に収められた絵画には恐怖に叫ぶ人間を掴んで食い千切る悪魔が描かれており、主の趣味が色んな意味で非凡である事が伺えた。
 まさか、「あの女」か。
 そこまで考えた所で、段々と明瞭になりつつある自分の感覚が、何かを捕らえた。
 ……人の気配がする。しかも只者の気ではない。
 先程からなんとなく自分の中で明確になってきたこの巨城の持ち主を、少女の姿をとった生意気な女を、しかしここまで極端なインテリアセンスであったかどうか疑問符は拭えないまま、誰何を口にした。
「…ウサギか?」
「いいえ、ハーザマです」
「はっ!?」
 予想もしていない至近距離から予想もしていない声で返事が落ちてくる。いつからそこにいたのか、傍目には人畜無害な微笑をたたえた優男が真上からこちらを見降ろしていた。
「!!」
 全身が総毛立つ。目が合うだけで体中の血液が沸騰する。
 色白の細面にふり掛かった緑の髪は絹糸の如く細かく、その肢体は薄暮れに伸びた影の様にほっそりと長い。
 夜より真黒いスーツに品良く身体を包み、凶暴な本性を巧みに隠すハットは小脇に軽く抱えられている。
 自分はこの男を嫌になる程知っていた。
 すぐに体を起こして臨戦態勢に入りたくはあったが、腕を立てた瞬間、電流が走るように体が軋んだ。悶絶していると、枕元に立っていた憎たらしい男の手がそっと肩に触れてくる。
「大丈夫ですか?動いたら傷に障りますよ」
「触んな!!テメェ…ウサギを何処へやった!!」
「ウサギ?元からここにそんなものはいませんよ。私はウサギに限らず動物が大嫌いなんです。毛は散らばるし、喧しいし、においも臭いじゃないですか」
 手を強く弾かれても眉一つ動かさず、飄々と喋る様が相変わらず鼻につく。
「いや、ですが貴方がご無事で本当によかった。見つけた時は死んじゃってるのかと思いましたよ」
「何言ってやがる…」
「貴方、私の城の前で行き倒れてらっしゃったんですよ。そりゃもう傷だらけで」
 ……こいつの城だと。
 禍々しい部屋の内装を目だけで見渡して、改めて舌打ちが出た。
「へぇ、城ね…。随分大層な身分になったもんだな」
「ええ、だって私、大魔王ですから」
 ……。
 一瞬、酷い目眩に襲われたが、こめかみを穴が空くほどぐりぐりと揉んで持ち直した。目の前の男は何の悪びれもない風で、にこにこと目を細めている。
「ええと…何?大魔王って。頭は元々おかしいと思うけど、余計おかしくなったの?」
「おや、貴方…私を知らないんですか?名前を出せばヤクザも逃げる大魔王ハーザマとは私の事ですよ」
「何だよそのふざけた名前は」
「ふざけてなど。れっきとした本名です。それより、貴方の名前を教えていただけませんか。きっと…貴方の可憐なお姿に相応しい、素敵な名前なんでしょうね」
 にっこりと一層その笑顔を咲かせ、薄く開いた唇の間からは犬歯にしては妙に長い尖った歯がちらりと覗く。寒気がした。
「テメェ…どこまで俺を馬鹿にする気だよ、このクソ野郎が!!」
「ああ、やめて下さい。そんな下品な言葉遣い、貴方には似合わない」
 興奮で息まで上がってきた。しかし己を大魔王と名乗る男は、ここまで来ても只管に穏やかだった。こちらが掴みかかり兼ねない勢いであるのを、極めて温厚な声で宥めようと必死だ。気付けば手すら握られていた。
「……」
 この状況、何かが変だ。薄々とは気付いていたが、これはまさか夢なのではないか。目は覚めたはずだが、自分は夢の中で二重の夢を見ているのだろうか。
「…貴方は酷い傷で、目が覚めるまでずっとうなされていたんです。きっとここへ来る前、とても恐ろしい目に遭ったんでしょう。でも、もう大丈夫ですよ。私は市民の悪評名高い極悪非道の大魔王ですが、貴方を傷つけるような事はしませんから」
「……」
 こいつが得意な、声色に優しさと穏やかさをたっぷりと含んだ台詞だが、本当にこいつなら、決してこの自分を慈しむような真似はしないはずだ。むしろ人を地獄に蹴落とし、苦しむ姿を嗤う事で己の退屈を束の間埋めて生きる様な、こいつは生来そういう男であるはずだ。
 これらはきっと、全て夢であるに違いない。もう頼むからそう信じさせてほしい。
「…ラグナだ」
「え?」
「俺の名前だよ。二度と言わねーからな」
 一瞬きょとんとした顔が、やがて何かを噛みしめるように引き締まり、そしてゆるゆると恍惚にほころんだ。
「…そうですか。思っていた通り、やはり素敵だ…ラグナ姫」
「やめろ」
「私は貴方のような方に出会えるのを待ち望んでいました。貴方こそが私の運命の人だ」
「おーい、聞けよボケ」
 握られた手にぎゅっと力がこもった。
「大魔王として生を受けてから、私はずっと孤独でした。誰もが私を恐れ、私を遠ざける。ですが貴方は私の前に自ら舞い降りて来たのです…これは運命に違いありません。貴方もそう思うでしょう?ああラグナ姫、お会いしたばかりだというのに、私は既に、こんなにも貴方が愛しい!この想い、どうかわかってくださいますか…?」
 真面目な声を出すな息を吹きかけるな、顔が近いんだよ気色悪い!
 叫ぶが早いか、ベッドを軽快に蹴り飛ばし大魔王の手、すなわち魔手から逃れた。遥か後方の分厚い絨毯まで飛び退り、これでようやく戦闘態勢に入れると息を思い切り吸った瞬間。
『ブシュッ』
 腹の辺りで音がした。
「あっ、ラグナ姫、傷が…!」
 真っ青な顔でこちらを見るので、何事かと思い、その目線をたどるように自分の腹を見降ろす。思いっきり血が噴き出していた。ついでに何か見えてはいけないものまで見えている気がした。
「……」
 これはきっと夢だ。
 そうでなければ、今日は厄日か何かに違いない。
 一気に目が眩み、断末魔の代わりに地響きをあげて床へ倒れ込んだ。
 自分の名前を呼びながらこちらへ駆け寄る足音が、薄れる意識の中に消えてゆく。

 照明も覚束ない薄暗い部屋で、大魔王は手に入れたばかりの姫の身体を腕にかき抱いた。
 息はあるが、これでは見つけたばかりの時と変わらない重症だ。
「ああ、何て事だラグナ姫…こんな…こんな…くっ…」
 俯いた肩が震えている。
「く、くくっ…」
 肩はぶるぶると震えた儘、俯いていくらか影を作った口元が、蛇の様に鋭く裂けていた。
「ククッ…ヒヒヒ…ヒャッハァア!!やっべー、コイツは最高だなぁオイ!!見た目は上から下まで俺のどストライクだしよぉ、カワイイ癖に気は強ぇ、そのギャップがいいよな!いやー何から何まで俺好みだよ!!どうしてくれようかコレ!!」
 ひと息にまくしたてると、意識のない青い顔を愛しそうに見降ろしてまたにんまりと笑いが込み上げる。鋭い歯がわずかな燭台の光でチカリと煌めいた。
「けどなー、嫁入り前のお嬢さんに手を出しちゃあ大魔王様の名が廃るってもんだわ。よし、ここは手早く祝言あげちまうか!そうと決まれば、まずはウエディングドレスだな!あぁ楽しみ過ぎて笑い止まんねーよ!助けて神様~!!なーんつって!?ギャハハハハハ!!!」
 脇のハットを頭に乗せ、大魔王ハーザマは自分よりざっと15キロ以上は体重のありそうなラグナ姫を軽々と横抱きにすると、この世の闇を真っ二つに裂く様な高笑いを響かせながら、己が居城を飛び出したのであった。