春節を祝う鮮やかな赤と黄のランタンが、店の壁を覆い隠すように吊り下がっている。福の字を逆さにした縁起物に、繊細な中国結の赤い吊るし、そして煙草の煙に混ざる紹興酒の濃い香り。
蒼天掘にひしめき合う飲み屋の中でも、「鴻楽」は中国系の人間が多く集まる店だ。
一歩足を踏み入れれば厨房にも店内にも中国語が混じり、ここが日本である事を束の間忘れさせてくれる。
日本語、特にクセの強い関西弁にまみれた蒼天掘で暮らしていると、時折故郷の言葉が恋しくなる。俺たちのグループはこの店を第二の家のように思い、事あるごとに立ち寄っていた。
「おい、ジョッキまだか!遅ぇぞ!」
気が短い美坂が、厨房に向かって怒鳴る。
最初の生ビールが来ないことには始まらないのだが、今夜は週末という事もあり店内はかなり盛況していた。普通ならすぐに運ばれてくるはずのジョッキが来ないのは苛立つが、今は美坂一人がこの場にいる全員の意思を代表して、忙しく廊下を行き来する店員にクレームをつけている。美坂は最近入った若造で、元気が良すぎて扱いに困るのが瑕だ。
「美坂、自分で入れた方が早いんじゃねえのか」
俺が適当に茶化すと、その気になった美坂は「任してください!」と腕まくりして厨房に乗り込んでいった。
けしかけておいて言うのもなんだが、止めるのが面倒くさくなった。
「……あいつ、アホか」
「それはそうと。うちのシマもでかくなってきたよな、立華さん、純さん」
兄貴と俺に交互に目線を配り、嶋が愛嬌のある八重歯を見せながら喋る。
店で一番奥の個室に集まったのは、俺と立華の兄貴、アホの美坂、そして嶋だ。
俺たちのグループは、大陸からの密航者のサポートやショバ代の取立て、裏ビデオの売買なんかをやっている。
特に兄貴が入ってからは、ショバ代の稼業が順調だ。兄貴は店と手を結ぶにしても、脅し文句よりビジネス的な駆け引きを使ってどんどん領域を拡大している。喧嘩が強いだけじゃなく頭も冴えるなんて、どうやらこの人は天に二物を与えられているらしい。
「それもこれも、兄貴のおかげだよ。そうでしょ、兄貴」
「私は大した事してませんよ」
お絞りで手を拭きながら、兄貴は俺の言葉をさらりと受け流す。
「もー立華さん、またまたそんな事いって。そのうち近江の連中より縄張りが広がったりしてな」
「お?嶋、あんまりでかい声で名前出すなよ。隣の個室にいらっしゃるかも知れないぜ、そのおっかない近江連合さんが」
ぎょっとして口を塞ぐ嶋。そんな訳ないだろ、と付け加えて笑うと、美坂が4人分のジョッキを抱えて戻ってきた。
「本当に持ってきたんですね……」
兄貴が少し呆れたような声を出す。
「俺こう見えて居酒屋でバイトしてたから、入れるの上手いんですよ。見てください、この泡とビールの黄金比率……」
「わかった、はい凄い凄い。いいからさっさと寄越せ」
美坂にジョッキを配らせて盛大に乾杯をすると、場は一気に騒がしくなった。
酒と料理が進んできた頃、横からそっと声をかけられる。
「尾田さん」
「ん?どうしました、兄貴」
「お手洗いに行きたいので、空けてくれますか」
よくよく見ると、個室の奥に座っている兄貴の進路を、俺が背中で塞いでしまっていた。
「ああ。すみませんね、気が利かなくて」
「いいえ」
慌てて体を前にずらして、人が通れるくらいの隙間を空ける。
兄貴はいつものようにやんわりと微笑を浮かべると、引き戸を開けて廊下へ消えていった。
「……」
俺は特に疑問もなく、兄貴の後ろ姿を見送った。
異変が起きたのは、それから後の事だった。
「立華さん、便所長くねぇか?」
嶋が時計を見るので、つられて左腕に目を落とした。
兄貴が席を立った時間を正確に記憶しているわけではなかったが、感覚で20分くらいは経っているかもしれない。
「どっかで女でも引っ掛けてんじゃないっすか?立華さんくらいの人なら、女も食い放題なんだろうな。あー羨ましい」
美坂が下卑た言葉と笑いを浮かべながら、胸ポケットに手をやる。
「……あれ?」
とぼけた声で、自分の胸や腹をまさぐりだした。
キョロキョロしている美坂の様子が鬱陶しくしばらく無視していたが、ずっとやっているので、少し気にかけてやる事にした。
「美坂、どうした。煙草か?ハイライトなら一本恵んでやんぞ」
「違うんすよ。俺の薬がねぇ」
「お前、医者かかってんのか?」
「いや、薬って、そういう薬じゃなくって……」
気まずそうに口ごもる美坂に、ピンときた。
「おい……ヤクはやめろっつったろ?」
「俺じゃねえ、女に使おうって思って……いや、本当におかしい、俺さっきまでここに入れてたんすよ」
ワイシャツの胸ポケットを指でつまんでアピールする美坂に呆れつつも、ドラッグとあらば看過はできない。
「どっかに落としたんじゃねぇの?お前落ち着きないからさ」
「ああやべぇ、ポケットから落ちたのかもしんねぇ」
「床探せ、床」
三人で這いつくばって探すが、一向に見つからない。
「おい、俺らが帰った後に店員が見つけたらどうすんだ」
「そうっすね……ま、見た目は風邪薬にしか見えないから、大丈夫でしょ」
「呑気な奴だな……」
楽しい気分で飲んでいたのに、床に四つん這いにまでさせられて少々興ざめだ。苛立ちを紛らわすため煙草に火を付けようとしたが、ふと、奥のジョッキに目がいった。
兄貴が最初の乾杯で口をつけていた分だ。
目を凝らすと、中に紙のようなものが入っている。
不審に思いジョッキを持ち上げて、中身を天井の照明に透かして見る。ジョッキの内側にこびりついていたのは、風邪薬を包装するような小さな紙だ。
おそらく中身に粒子状の薬が入っていたのだろうが、無残に破けてしまっている。
「おい……美坂。まさかこれじゃねぇのか」
美坂の前に、指で摘出した紙をかざす。
酔いでほどよく気色ばんでいたその顔色が、化学反応でも起こすように真っ青に変わった。
「え!?ちょっと、何でそんなとこに?」
「だから、最初のジョッキ持ってきたのお前だろ?酒入れてる時だか知らねぇけど、これがお前のポケットから落ちて兄貴のジョッキに入ったんだろうよ」
「そんな……。で、中身は?」
「全部溶けちまってるよ……兄貴、気づかねぇで飲んでる」
「マジっすか……」
こんな偶然あるか。そう思ったが、現にこうして物的証拠が残っているのだから、受け入れるしかなかった。
「あのさあ美坂ちゃん。これ、何の薬なの」
普段は温厚な嶋も、さすがに咎めるような口ぶりだ。
「ああ……まぁ、あれです。睡眠薬みたいなもんです」
この期に及んで言葉を濁しているが、こいつの事だ、レイプ目的の麻薬といった所だろう。
今すぐ美坂の横面を殴り飛ばしたい衝動をグッとこらえた。今は兄貴の無事を確認するのが先だ。
「トイレでぶっ倒れてるかもしれねぇから、探してくる」
廊下の奥にある洗面所を開けたが、数人が用を足しているものの兄貴の姿はなく、個室は扉が閉まっていて、人が入っているのかどうかわからない。
確認のために全部の個室のドアを開け閉めしている俺に、後ろから不審者を見る視線が刺さったが、そんな事を気にしてる場合じゃなかった。
個室に戻ると、美坂と嶋が身を乗り出してきた。
「兄貴は?」
「いねぇ。店、出ちまったのかも」
「何か……やばくないですか?」
他人事のように呟く美坂にこめかみがピクリと引きつった。
「ヤバイに決まってんだろ。馬鹿なのか?お前は?え?」
肩を小突きながら、壁際に追い詰めると美坂がにわかに怯えた顔になる。
「ちょっと、純さん、落ち着いて」
嶋が割って入る。
「手分けして探そうぜ。多分、そんなに遠くには行ってないだろうからさ」
心ここにあらずで勘定を済ませると、三人で担当のエリアを決めて兄貴を探した。念の為に他の仲間にも連絡を入れて、手が空いている奴らには探させる事にした。
ほどよく酒が回った後に歩く蒼天掘は気分がいいものだが、今日ばかりはそう思えない。
街を闊歩するのはどいつもこいつも気の抜けた顔ばかりで、俺の視界を遮るようにだらだらと広がって道を塞いでいる。
チンタラ歩いてんじゃねぇよと毒づきながら、人群れに目線を走らせた。時折通行人と肩がぶつかるだけで無性に苛立ち、睨みつけると大抵の人間はビビって道を譲ってくる。
……兄貴と初めて会った日も、確かこんなふうにイラついていた。肩をぶつけたのは俺の方だったが、俺はその時威勢良く啖呵を切った。人を殴った事もなさそうな優男を相手に、少しも負ける気がしなかったからだ。
結局、人を見た目で判断したのが間違いだった。俺は一生逆らう気になれないほど、手酷く返り討ちにされてしまった。
そんな思い出を頭の片隅に浮かべながら、腕時計に目を落とす。
店を出てから、1時間弱が経っていた。ポケベルを見るが、仲間からの連絡は入っていない。途方に暮れながら、賑やかな通りから外れた小さな公園に入り、柵に凭れて一服した。
……兄貴は見かけによらず大酒飲みで、ウォッカでもけろりとした顔であおるタイプだ。しかし、それにドラッグが入っていたら話は変わる。
おそらくまともな状態じゃないだろう。そんな時に、他所のシマの連中に鉢合わせたら最悪だ。それがもし近江連合だったら、間違いなく俺たちのグループは潰される。
俺たちのグループではドラッグを扱っていない。厳密に言うと、兄貴が入るまでは大陸から密輸したものを半グレのガキ共に卸してシノギの一環にしていたのだが、兄貴はドラッグの売買だけは頑なに認めなかった。以降、この稼業からは完全に手を引いていたのだ。
そのドラッグに兄貴が飲まれるなんて、皮肉にも程があるだろう。
「……」
何気なく公園一帯の景色に目を泳がせていたのだが、ふとある異変に気づいた。
公園の入口から公衆便所に続くまで、地面の砂を荒らすように無秩序な足跡が残っている。誰かが足をもつれさせながら、公衆便所の中に入って行くイメージが頭に浮かぶ。いつもなら全く気づかないところだが、今は神経が過敏になっているせいか、もしやと思ってしまう。
「まさか、ここじゃねぇだろうな……」
古びた公衆便所の中は、便器が3つと、奥に1つだけ個室がある。照明は心細い電球だけで、ほとんど照明として機能していない。
おそろおそる個室に近づくと、ドアは開きっぱなしだった。
……ハズレか。
ダメ元だったが、ここまで収穫がないと気も萎えてくる。思わず肩を落としたが、目線を下げると、
暗闇とほとんど一体化した床に、見慣れた革靴を履いた足が伸びているのが見えた。
(……いた!)
個室の洋式便器にもたれかかるようにして、兄貴がぐったりと倒れていた。
まるで死んでいるようなその姿に、恐怖に似た感情が這い上がり背筋がゾクリとする。
「兄貴!」
駆け寄って体を起こすと、完全に意識が失われている訳ではないようだ。俺の顔を、焦点の定まらない目つきでゆっくり見上げてくる。
「……あ、尾田さん……ですか」
心からホッとしたが、同時にやるせなさも浮かんでくる。
「兄貴、探したんですよ……なんでこんなとこに……」
兄貴は呂律があまり回らないようで、一言一言を辛そうに絞り出した。
「飲んでいたら、少し気分が悪くなって……。皆さんに、迷惑かけないように、なるべく遠くに行こうと思ったんです」
「……」
「余計、迷惑をかけてしまったみたいですね……。勝手な事をして、すみませんでした……」
こんな時まで俺たちの迷惑にならないようになんて事を考えているのだから、胸が締め付けられる思いだ。意識は吹っ飛んでいるかと思ったが、どうやら見た目に反してかなり強靭にできているらしい。
ホッとしながらも、俺はとある事を思い出していた。昔兄貴の口から聞いた、思い出話だ。
――兄貴がまだ10代だった頃。韓国系のグループに拉致されて、手痛い目に遭わされた事があった。当時から蒼天掘である程度の縄張りを持っていた兄貴は、まさに街を歩けば敵に当たる状態だった。目をつけたのは、俺たちと同じような密入国者や在日二世で構成された、殺しや恐喝、放火、何でもありの厄介なグループだった。
アジトに監禁され、まとめているシノギから手を引くように制裁を加えられたという。奴らに逆らえないよう薬漬けにされ、暴力を受けながらも兄貴は決して屈さなかった。兄貴の当時の仲間が何とか警察にタレ込み、一週間を過ぎた頃兄貴はようやく開放された。しばらくは半ば廃人のようになっていたそうだ。
兄貴がドラッグを使ったシノギにいい顔をしなかったのは、兄貴自身がドラッグに沈んだ過去があるからだった。
……思い出すだけで寒気がする話だが、結果的に兄貴はこうして見つかったのだから、よしとしよう。
しかし、無事だったとは言え見るからに辛そうな状態の兄貴を見るのは複雑な気分だ。撫で付けた髪が汗ばんだ額に張り付き、苦しそうに肩で息をしている。目を開けているのも精一杯なのか、時折不規則に瞬きをしていた。むしろ昏倒した方が楽になれるんじゃないかというくらいだ。
ここは連れ帰って、しっかり介抱する必要があるだろう。
その前に、一つ気になる事があった。
「兄貴、俺が来るまで、誰かいました?財布とか抜かれてないですか」
こんな夜中だ。寝ている酔っ払いの財布をするような奴もいるだろう。
「わかりません……来たような、来てないような……」
普段の兄貴から想像できない、精彩を欠いた答えだ。
「……仕方ねぇ。ちょっと、失礼しますよ」
兄貴の体を抱えながら、ジャケットの内ポケットに手を入れる。財布が入っていない。
「……そっちじゃないです」
か細い声で呟くので、少し躊躇ったが、兄貴の腰を抱えて尻をまさぐった。
財布らしき角ばったものが入っている。普通の財布泥棒なら抜いた後にわざわざポケットに戻したりはしないだろう。それがわかっただけでも十分だ。
「はあ……抜かれてねえ。大丈夫みたいです」
純粋な動機とはいえ、兄貴の尻を触ってしまった事に少し緊張をおぼえた。抱きかかえたまま一息ついていると、
「……尾田さん」
今にも消え入りそうな声で兄貴が呼ぶ。
「どうしました兄貴。具合、悪いんですか」
声をしっかり聞こうと顔を近づけると、頼りない手つきで、兄貴は俺の肩に腕を回してきた。
「……もっと触ってください」
「えっ、ええ?」
信じられない言葉に、一瞬息を飲んだ。
「こんな時に、何冗談言ってんですか……」
動揺に喉が詰まるが、どうにか言葉を返すと、兄貴は困ったような顔で続けた。
「……冗談じゃ、ないです……さっきから、体が熱くて……でも、自分じゃ、どうしようもできないんです」
「……な、んな事……」
言葉が見つからない。
兄貴の様子は、確かに普通じゃない。俺が触ってしまったせいなのか、額には玉のような汗が浮かび、先ほどよりかなり呼吸が荒い。顔の赤らみは酔いのせいだと思っていたが、兄貴がただの酔いでこんな事を言ってくるとは到底思えなかった。
昏睡目的の薬かと思っていたが、どうやら違うものも混ざっていたらしい。無理やりにでも美坂に尋問すべきだった。
俺まで動悸が早まってきたが、いつも冷静な兄貴の様子がおかしい分、ここは俺がしっかりしなければと息を吐く。
「兄貴……まず部屋行きましょう、それからちゃんと休んで、」
続けようとした口を、熱くて柔らかいものに塞がれた。
その感触は、疑いようがなかった。弱々しく腕を巻き付かせて、兄貴が俺にキスをしていた。
「……っ」
体が硬直した。
兄貴が見た目通りにすべすべした頬を押し付けて、ねだるように俺の唇の隙間をこじ開けてくるのが信じられず、思考が停止しかける。
……ダメだ、この展開は。
美坂と嶋に連絡を入れなくちゃいけない。それに、この人気がない場所にも誰かが入ってくるかもしれない。こんな事をしている場合じゃないのに。
脳の周りを何人もの俺が囲み警鐘を鳴らしてくるが、兄貴の唇は必死で、酔いの回った頭には酷く甘美だった。
ダメだと思ったが、あまりの強烈な誘惑に、脳と体が乖離した感覚を覚える。兄貴の腰を抱き寄せて、俺からも徐々に舌を絡ませた。熱い粘膜の中で舌先を尖らせて、柔らかい根元を巻き取り軽く吸い上げる。
「……ん、んっ」
喉奥で兄貴が感じ入ったような声を漏らし、俺の肩にいっそう強く腕を絡ませる。
その艶かしい仕草で、俺の下半身には十分に血が集まってしまった。
舌を絡ませ合いながら、体を持ち上げる。洋式便座の上に座らせて、後ろ手で個室のドアを閉めた。とりあえず、外側から見られない形だけは作っておく。
兄貴は俺の首にしがみついて、しつこく唇を求めてくる。雛鳥が餌をねだっているように見えて、庇護欲がそそられてしまう。そういえば俺より年下なんだった。そんな事を改めて思えば、ますます気持ちが高まってくる。
壁に手をつき兄貴の舌を貪り尽くした後、わずかに唇を離す。
至近距離で見つめるその顔は、目元がうっすら紅潮し、瞳は虚ろだが若干潤んでいる。まるで抱かれる前の女の顔だ。
「兄貴……」
ごくりと、喉が鳴る。
「本当に……どうなっても知りませんよ」
「どうなっても、いいです……だから、はやく……」
すがるような声に、俺の理性がプツリと音を立てて切れた。
――確かに、俺は兄貴に対して、尊敬を超えた感情を持っている事は自覚していた。
口が裂けても言えなかったが、この人を抱く妄想で欲望を慰めた事も、一度や二度ではない。
しかし、実現しようなんて事は思っていなかった。肉体関係を迫ってもしも断られたら、その後は絶対に立ち直れる気がしない。そんな危険をおかさなくても、兄弟分として隣にいることができればそれで十分だと思っていたからだ。
多分、これは俺のせいじゃない。兄貴のせいでもない。不可抗力だ。酒と薬、そして偶然が混ざり合って起こった事故なんだ。
熱く火照った首筋に顔を埋めて、音を立てながら肌を吸った。筋がしっかりした男の首なのに、肌はきめこまかくて妙に甘い香りがする。
「……はぁっ、」
耳元に兄貴の顔があり、肌を吸うたびに悩ましいため息が直接吹き込まれてたまらない。俺がそれに反応しているのがわかったのか、ただ甘えているだけなのか、耳朶や耳の中を温かい舌でぺろぺろと猫みたいに舐めてくる。
……鼻血が出そうだ。
首筋にいくつ目かわからない跡をつけた頃、不意に股間を掴まれた。
「……固く、なってます、ね」
嬉しそうな声で、スラックスの上から揉んでくる。その手つきは弱々しかったが、自分で触るよりずっと刺激的だ。
「兄貴のせいですよ……どうしてくれるんですか」
兄貴の手の中で、ますます硬くなってくるのを止められない。
俺の耳をいじっていた唇が離れて、兄貴は紅潮した顔で改めて俺を見上げた。
「……どう、したいんですか?」
「いや、言っちゃっていいんですかね……」
「……もう。もどかしいですね……」
いささか焦れた様子の兄貴が、俺の肩を使ってふらふらと立ち上がる。
それからタンクに手をつき、あろう事か俺に腰を突き出してきた。
「あ、兄貴、ちょっと」
「いいですよ……好きにしてください」
この人の口から出てくるとは思えない淫らな言葉だった。
ここまで来て俺のここも後戻りできない状況まできているからやめようがないのだが、本当にいいのかと、脳が最後の警鐘を鳴らす。
戸惑いながら、やや震える手でベルトを外し、スラックスと下着を脱がせた。闇色に浮かび上がる、真っ白な肌。しなやかな筋肉がついた腰は、酩酊した頭の中で、俺を妖しく誘っているように見えた。
もう、やるしかない。
スラックスのポケットを探り、コンドームを取り出す。パッケージを破り、すっかり準備ができたものに着けるがさっきより手が震えている。軽く深呼吸をして、何度か擦り装着感を馴染ませた。
……ここから先へ行ってしまうともう後戻りができない気がするが、これは願ってもない据え膳だ。もし今、兄貴が急に正気に戻って俺を拒絶しても、俺は力づくでもやり通すだろう。
口の中が乾くのを、唾を飲み込んでかろうじて潤しながら、完全に勃ち上がった先端を入れた。
最初は押し返されるような抵抗感があったが、腰を押さえて少々強引に押し込めると、あとは意外にすんなり、奥まで入っていく。
「うわっ……」
隙間なくみっちりと覆われる圧迫感に思わず声が出る。
兄貴は痛がる様子はなく、深く呼吸をしながら俺を奥まで受け入れた。
ジャケットを着たままじゃ暑そうだと思い、挿入したまま腕を取り、上着を脱がせてやる。どうにかしてドアに引っ掛けると、改めてその背中を見下ろす。
ワイシャツ一枚になって便座のタンクにしがみつき、俺のモノを根元までくわえ込んでいる姿はかなり卑猥だ。
普段は下ネタを振っても軽く受け流すような兄貴が、よりにもよってこんな汚い場所で、男に後ろから犯されてるなんて、安いAVみたいな状況。
「何、してるんですか……動いて、ください……」
しかも、吐息が混じった声でそんな事をせがんでくるのだから、たまらない。
腰を引き、中で軽く慣らすように動く。女のあそこと違って勝手がわからないが、何度か抜き差しを与えるうちに、戸惑いはすぐに快感に変わった。女と比べ物にならない締めつけに、目眩すら覚える。
「あ、っ……兄貴、」
「……っ、いいですよ、もっと動いて」
吐息と変わらない声で、優しく俺を誘う。
熱をふくんだ腰を押さえつけ、犬のようにガツガツと奥を突いた。
……やばい、よすぎる。
これだけ乱暴にしたら兄貴が体勢を崩してしまうかと思ったが、兄貴は必死につかまって、俺が一番いいように保ってくれている。
窮屈な締めつけに耐えながら、俺は脳の裏側で思い出していた。
初めて会った時、いちゃもんをつけた俺に涼しげな笑顔と鋼鉄みたいな膝蹴りを繰り出してきた事、
そしてボコボコになった俺に、綺麗な手を差し伸べてくれた事。
常に俺の上を行く人を、こんな場所で乱暴に抱いてしまっている状況に、俺はすっかり酔いしれていた。
「は、ぁ……っ、あ」
揺さぶるたびに、兄貴の口から小さく声が漏れる。タンクの上で腕を組み、そこに頭を埋める格好になっていて表情はわからない。けど俺が腰を打ちつけるたび身を震わせて喘いでいるんだから、顔はさぞかし色っぽく歪んでいるに違いない。
だいぶ俺の形に解れたそこは、抜き挿しする度に粘った音を上げる。これほど摩擦したら傷つけてしまいそうだが、柔らかくも強靭なそこは俺をしっかりと包み込んで離そうとしない。
俺は何となく、悟り始めていた。自らこんな体勢で必死に俺のものを受け入れて、快楽に導こうとしている姿に。
これほど発情した状況で、兄貴みたいな立場ある男が自ら犯されるのを望むなんて、まずおかしな話だ。
……兄貴は多分、初めてじゃないんだろう。そして、肉体関係において女役に回ることがこの人の性癖なんだという事を、肌を通じてはっきりと感じた。
特定の相手がいたのか、そういう趣味のパトロンと協力していたのかはわからない。
今、俺の前で無意識のうちに晒している痴態は、誰に開発されたものなのか。今すぐそいつを探し出して、跡形もないくらい切り刻みたいと思った。
しばらくは一定の間隔で揺さぶっていたが、抜けない程度にゆっくり腰を引き、それから深く奥を突いて留まる。
「いっ……」
そのまましばらくぎゅうぎゅうと中を圧迫して、また緩慢に、焦らすように引き抜く。
兄貴が肩を引きつらせながら、ずっとうつ伏せていた顔を少し動かした。肩越しにようやく見えた横顔は恍惚に切なく染まりきっていた。
倒れていた時から髪は乱れていたが、今はもうぐちゃぐちゃになっている。汗の水分を含んだ髪がうなじや頬に絡みついて、くすぐったそうだ。
「あ、ああ、っ」
何度目かの突き上げで、兄貴が耐え切れなくなり悲鳴のような声を漏らす。
「っ……兄貴、静かに」
一応公共の場だ。悪いと思ったが後ろから兄貴の口を塞ぎ、そのまま続けた。
「んっ、……ふ、っ、う」
耐えてはいるがやはり声が漏れてしまうようで、俺の手の中でこもった喘鳴が生まれては消えた。
汗でじっとり濡れた背中が、シャツから透けて見える。腰を押さえつけていた手をずらして、シャツを背中までまくりあげた。
普段はまじまじと見る事はなかったし、何より肌が白くて見えなかったのだが、今興奮で赤らんだ皮膚を見るとよくわかる。
そこかしこに古傷が残る背中は、兄貴が今までくぐってきた修羅場の数と壮絶さを思わせた。
縫い方がよくなかったのか引き攣れて固まった刺し傷、錐でえぐったような跡もあれば、煙草を押し付けた火傷の跡もある。
俺が知らない傷ばかりだ。見れば見るほど、悔しくなった。決して長いとは言えない年月で、兄貴の事を全て知ったような気になっていたのが馬鹿らしくなる。
兄貴の声を封じていた手をそっと離した。
ぐったりし始めたその体を引き寄せて、真っ白い太腿を片方持ち上げた。膝の裏を抱えた格好で、先端をあてがいすっかり蕩けたアナルに挿し込む。中の具合が変わって、また刺激的な締めつけを与えてくる。
「んんっ……」
兄貴が唇を噛み、喉の奥で呻く。
また口を塞がれるのが嫌なのか、懸命に声を抑えようとしているのがわかった。そんなところもいじらしくて燃えてしまう。
さっきは緩く深い動きで攻めたが、俺もそろそろ限界だ。太腿をしっかり抱き込み、早いペースでピストンをつけていく。
濡れて解れても中はきつく締まっていて、もう弾けてしまいそうな俺の欲を隙間なく扱いてくる。
「あ……すげー、いい、っ」
「っ、尾、田さん……だめです、そんな、っ」
弱いところなのか、首を横に振って、か細い声で俺を咎める。
しかし制されて素直に従うほど、もう冷静ではいられない。
「兄……貴、っもう、やべぇ……ッ」
後は言葉にならず、自分の欲望に任せて激しく動いた。
頭が煮え切って他のことを考えられなくなる。乱暴さに耐えあぐねたのか兄貴が髪を振り乱して大声を上げた気がしたが、もうどうでもよくなった。
「……っく、ああ……!」
痣がつくほど生足に指を喰い込ませ、一番深いところで念願の絶頂を迎えた。
何度も強い脈をうちながら、ゴム越しに大量に射精する。繋がった部分は丸見えだから、兄貴のそこが、俺の射精に合わせてヒクヒク震えているのがよくわかった。
「は……っ、はぁっ」
全身からどっと汗が噴き出す。
一滴残らず注いだ後、まだ熱いそこからゆっくりとペニスを抜こうとしたが、
「あ、……待っ、くださ……」
兄貴がぜえぜえと息を吐きながら、後ろ手で俺の腰を掴む。俺が抜くのを止めようとしているようだった。
「ど、したんです?」
「もう、……出そう、……なん、です」
絶え絶えの訴えにハッとする。俺のものを中で感じたままイキたいって事だろうか。どこまで可愛い人なんだろう。
「……あー、いいですよ、手伝いましょうか」
……もしかしたら、このまま二回目もアリか?
期待ににやつきながら兄貴のあそこに手を伸ばそうとした瞬間。
「……う゛ぅっ」
兄貴の顔色が真っ青に変わり、自らの口を押さえた。
「え、うわっ……ちょっと、兄貴……!!」
適当にタクシーを捕まえて兄貴を放り込み、一緒に蒼天掘を出た。
兄貴を見ると、ようやく薬の効果が和らいだのか、抱えていた疲労がピークに達したのか、俺の横で気持ち良さそうにすやすやと眠っていた。
あの後、口から盛大に「出した」兄貴の口や顔を、トイレの水道で何とか洗い流した。酔いつぶれた人間の介抱をするのは慣れたものだったが、俺も出すものを出して結構疲れていたし、後処理でかなり時間と体力を食ってしまった。
美坂と嶋には改めてポケベルで連絡を入れた。見つかったら巌橋で落ち合う事にしていたが、もはやそこへ行くだけの力が残っていない。このまま解散する旨の数字を打ち込み、タクシーのシートに凭れて、ようやく息をついた。
それから兄貴の部屋で汚れた服の洗濯に明け暮れ、兄貴が目を覚ましたのは翌日の夕方だった。
美坂はあの後電話をかけたら泣きながら「立華さんが無事でよかった」と喚いていたので、連絡が遅くなった罪悪感から俺はあまり咎めない事にした。
本当は顔面崩壊するまでぶん殴っておきたかったが、美坂が肝を冷やしている間に俺は兄貴を犯しまくっていたのだから、これで相殺だろう。「ヤクの事は兄貴には黙っておくから、これっきりにしろよ」と念を押すだけにとどめた。
ようやく起きた兄貴に、冷蔵庫から水割り用に買っていたミネラルウォーターをグラスに注いでやる。おとなしく受け取って飲んだあと、兄貴は一つ息をついて、俺の方を見てこう言った。
「……私、昨日何か変な事してませんでした?」
「はっ……?」
一瞬、己の耳の機能を疑う。
「最初の一杯から、記憶がないんですよ……。けど体が少し凝ってるみたいで。酔って暴れたりなんて、してませんよね」
「……」
あろう事か、兄貴は昨晩の事を綺麗さっぱり忘れていた。
もし兄貴が目を覚ましたら、非常に気まずくなるんじゃないかという不安は、一気に和らいだ。少し残念でもあったが。
「いや、とんでもない。このところ結構飛ばしてシノギ回してたから、ちょっと疲れてたんじゃないですか」
とぼけてはぐらかすと、兄貴は少し考える顔をした。
「そうですか……。どちらにしても、迷惑をかけてすみませんでした」
「いえ、んな事ないですって」
迷惑どころか、素晴らしくいい思いをさせてもらったのは確かだ。
「これに懲りずに、また行きましょうよ。次は調子が万全の時にでも」
「……そうですね」
……その時俺が精一杯作ったぎこちない笑い顔を、兄貴の両目が舐めるようにじっと見つめているのが気になった。唇は穏やかな笑みをたたえているが、その目は執拗に、俺の表情筋の動きを観察しているように感じられた。
きっと考え過ぎだ。しかし耐え切れず目線をそらすと、兄貴の膝に置かれた左腕の刺青と目がかち合う。
蝙蝠はお前の全てを見ていると言わんばかりに、白い腕に捕まりけたけたと笑っていた。