口の中には錆びた臭いが充満していた。
「もう終わり?がっかりさせんなよ、俺の兄貴だろ」
 声は頭のすぐ上で不躾に笑う。
 自分の一部である筈の刀が、今は手枷の様に重い。
 ただ心は立ち上がる事を望んだ。ここで倒れても、もう自分に戻る場所はない。

 膝立ちの体勢から、抜き身を一閃する。「おっと」と軽快な声と共に大きく上体を逸らされ、刃は届かずコートの端を裂くだけにとどまったが、派手なモーションには隙が多い。懐に踏み込んで憎らしい程自分によく似た顔に肉薄し、普段は使わない素手で横面を砕く程に殴った。
「!」
 二、三歩後ずさった腹に拳を入れて、そのまま壁に叩きつけた。その体を中心に、蜘蛛の巣の様に岩壁にヒビが走る。
 欠片や粉塵がパラパラと落ちて汚れた髪を掴み、露わになった首に刀柄を押しあてる。
 体温が感じられない蝋色の顔は興奮気味に数度大きく呼吸をしながら、やがて可笑しそうに笑い出す。
「くくっ、こりゃケッサクだな」
「……」
「『イカレたバージル剣を抜き、可愛い子猫ちゃんを滅多刺し』」
つりあがった真白な唇が陽気に歌う。
「『それからついでに気が向いて、可愛い弟も滅多刺し』」
 今以上の力で、ぐっと柄を喉にめり込ませた。
「ゲホッ、…どうよ、縄跳びする気になった?」
「ふざけるのもいい加減にしろ」
「そりゃ心外だな、こんなに胸が痛いのに。アンタだけは俺を裏切らないって信じてたんだぜ」
「裏切ったのはお前だ」
 軽く舌打ちしてオーバーに溜め息をつく仕草は、再会した日の横柄な態度そのままだ。
「ああ…アンタのイメージ上の俺は、アンタの言う事に尻尾を振ってヨダレを垂らしてるだけの馬鹿犬だからな。現実の俺が夢を壊して悪かったよ」
 わかっている。これが本物の弟ではない事は。しかしそれでも心は抑えが利かない。
 歯の奥に溜まった血の塊を舌で押し出し、地面に吐き棄てる。
「…俺はお前に失望した。お前なら俺の理想をわかってくれると思っていた。お前は本当に愚かな奴だ」
「この年になって兄ちゃんの説教なんか聞きたくないね」
「あいつら人間は強い統率がなければ簡単に暴走する。悪魔と同じだ。そんなものを野放しにしておくつもりか」
「知るかよ、俺が決める事じゃない」
「ダンテ、」
「いいからその硬くて立派なモノを降ろしてくれよ、いくら俺でもそんなもん突っ込まれるのは御免だ」
「ダンテ…お前は」
 言葉を遮るようにケラケラと笑う声。
「俺はヴァージンじゃないんだ。言ったろ、ガキの頃はスラムより酷いゴミの中に住んでたって」
「……」
「アンタと違って、俺は綺麗なベッドで夢なんか見れなかった。熱狂的なファンが毎日押し掛けて、放してくれなかったんでね」
 粘土を捏ねて作った様な、何も映していない暗い瞳が卑しく細まる。
「あのクソヤロー共をブチ殺して家出に成功した時は、嬉しかったよ。やっと普通に戻るんだ、暮らしも、この腐ったアタマも、そんでケツの穴のサイズも、ってな」
 ダンテが喉を鳴らして笑った。剥いた歯の間から、人間が作ったフィルムの悪魔の様に渇いた声を出して笑った。自分の知り得るダンテは、こんな下卑た笑い方をする男ではない。なんて巧妙で、稚拙にできた亡霊だろう。
 吐き気を通り越して笑いが出る。
「…お喋りなのは口淋しいからか。可哀想に、すぐに塞いでやろう」
「それはキスのお誘い?律儀なんだな」
 耳元に金属音を認め、顔を背けると同時に大鎌の切っ先が頬を掠る。その間にひらりと後方へ飛び退る白い影を、滲む顔の血を拭う事もせずに夢中で追った。
「俺は上手いぞ。キスだけじゃない、せいぜい失神しないように気をつけろ」
「そいつは、楽しみだ」
 亡霊の舌はベロリと下品に唇を舐めて唾を引く。
 俺はその愛しい化けの皮を剥がすべく、静かに鍔を持ち上げた。