●何たる見事な落とし穴!
その方はこう言う、
「僕はどうやったら夜行丈一をかえるかな」
真っ黒な目をキューの先へ尖らせたまま。
はて。かえるとは。
「て、言うか。いくらあったら足りるかな」
そこで頭の予測変換が不承不承に「買」を叩き出した。
「恐れながらお屋形様、彼は既に貴方の手にあるのでは?」
「……」
小気味よい音が弾けて、宿命された最後の数字が勢いよくポケットの向こうの闇へ消えていく。
日常をなぞるならば、儀式の様にゆっくりと遊戯台へ腰掛けてから次の遊びを考え始める所なのだが、今はショットの体勢のままなかなか動こうとしない。
「…お屋形様?」
その背中は何かを思案している様に感ぜられた。
「判事」
「はい」
「棟耶さん」
「何でしょうか」
自分を二度読んだ声は相変わらず淡々と低い。
「僕は欲しい物に使う金をケチったりはしないんだけどね」
「……」
「どうやって買えるかわからない物は、どうやって欲しがったらいいのかなって話だよ」
……例えば、彼が僕の事だけを考える時間とか、そういう物。
そう言って、永遠の命題を前にする様、孤高の考える葦は憂鬱な溜息をつき、やがてようやく体を起こすと、頭上の何もない空間に向かってキューをくるくると回した。
「……」
無言の私はその無秩序な軌跡をただ目で追うだけであった。
●隠
「それで、彼らは君に何て言ったの」
「人間ではないと」
「じゃあ何?」
皺と血管の張ったこの手の中で、その方の無表情は酷く艶艶と見えた。
「鬼とでも言いたかったのかも知れません」
「…ふーん」
相槌は平淡で、水を咀嚼するような一瞬の浸透。
最中とは思えないほど事もなげな貌だが、額の横へ滲んで黒髪を湿らす汗があきらかだった。
「鬼…って、元々人間だったとも言うじゃない」
微かに浮いた歯の奥で赤い舌が嗤っている。
ここまで来いと言いた気に、時折ぺろりと這い出しては唇の上を滑り、こちらの目をしかと惹きつける。
「死霊ですか」
「うん。でも君はまだならないでね」
面には出さないが 私は密かに笑った。
あの時の、彼奴等の最後の顔はあまりに醜く、
今となっては、彼奴等にあるのは死人の口だ。吸う事も吐く事も、語る事もない。
私にはこの方の語るもの、語りを作る唇こそが現実であり、ある種の至上とも言えた。
本性か化性か、その考えを量らんとする事は深淵を覗く行為に似て、愚か。
覗く為に傾けた我が首の根は、既にこの方の手に深く掴まれている。
私が鬼であるならば、鬼を呼ぶ手とはその実これを言うのかも知れない。
●痕負い
ぶらりとさがった左手、力は入らず、ディップした様に指先からとろとろ滴る赤が、
如何程その方を驚かせたかは知らない。
が、珍しい玩具を拾う様にこの左手を取って、滴るものを温い舌で拭う仕草にはこちらの方が驚いた。
表情の無い唇に乗ってゆくルージュ、それは目が覚める様に眩しく、しかしこの方に添う色ではないようだ。手違いで落とした筆の跡とも言える。モノクロに差し込まれた鮮やかな赤はただただ奇抜だった。
その奇抜もを自らの舌で舐めとり、やがて何も変わらない口元に戻る。
最早この傷に痛みはなかった。
黒い目だけが少し笑っている気がした。