宵が更けるにつれて、廊下をばたばたと往き来していた足音が一つ二つと消えてゆく。宗三左文字が己の舌を噛み切り、夕刻は騒ぎになっていたのだ。青々とした畳には血の跡が、廊下に向かって兎の足跡のように点々と続いている。明日にでも職人を呼んで張り替えた方が良さそうだ。

すっかり夜となった頃合。審神者は書き物の手を止めて自室を出、宗三の元を訪れた。戦いで傷ついた刀剣男士が、体を癒す際に籠る手入れ部屋だ。文字通り身を研ぎ澄ませるため、一人でゆっくりと休める作りになっている。閉じられた障子に向かって「俺だ、入るぞ」と声をかけるが反応は少しもない。元から返事など期待してはいなかったが、社会を知り物の分別がある人間なら自然に生じる所作だった。

障子に手をかけ、静かに開け放つ。行灯のついていない部屋で、宗三が背を向けた格好で眠っていた。背の後ろから差し込む淡い月光を受けて、彼を包んだ真白い布団が際立っている。それが暗い海にぽつりと浮かぶ寂しい小舟のようで、竪框に肘を寄せて立ったまま見つめていた。しばらく経って、枕のあたりが微かに動く。とうに気配を感じて目を覚ましていたのだろうが、いつまでも帰らないので観念したようだった。

「……いらしてたんですか」

肩をずらしてこちらを向いた宗三の顔色は、月明かりを含んでいっそう青ざめていた。

「おう。喋る舌は残ってるみたいだな。まったく、馬鹿な事しやがって、お前らがちょっと舌を噛んだ所で、くたばる訳がないだろうが」

まばたきを一つしただけで、表情には変化がない。まるで鬱陶しい羽虫を認めるように、空虚で冷めた目つきだった。

「別に。命を絶とうとした訳ではありません。貴方に捧げる舌はないと伝えたかっただけですよ」

当然痛みがあるのだろう。口ぶりこそ流暢ではないが、その声に先刻までの激しい色は残っていない。度し難い怒りが身の外に溢れきったせいで、今はただ澱のような疲れを持て余している。嵐の後、と例えるのが相応しかった。

 

宗三左文字はこの夕刻に審神者の接吻を受け、その先を激しく拒んだ。こちらの胸を突き飛ばし、顔を背けた時には顎に濃い鮮血を垂れ流していた。手を伸ばそうとしたが、呪い殺すような目で睨みつける顔は激情にまみれ、それ以上の接触は叶わなかった。

彼の怒りを目の当たりにした時、腹の奥底で喜びが首をもたげた。彼が閉じ込めていた生々しい感情をついに引きずり出す事ができた。出会った頃から覇気がなく、何処も見ていなかった視線に真っ直ぐ捕らえられて、身震いさえ起こした。この感覚が味わえる時を、ずっと待っていたのだ。

「……そうか。悪かったな。あそこまで露骨に嫌がられるとは思わなくてさ」

頭の後ろを掻いて、大仰に苦笑して見せた。宗三の硝子めいた顔つきに、わずかな生気が差したのを見逃さなかった。

「調子がよくなるまで、しばらく自由に過ごせばいい。皆にも言っとくから気にするな」

「どういう意味です」

「休暇をやるって言ってるんだ。お前らが万全で戦えるように管理するのが、俺の仕事だからな」

「……」

宗三は憮然として、瞼を少し落とした。こちらの言葉を素直に咀嚼していいものか判断しかねているようだ。思案させたまま、「ゆっくり休めよ」と言い残して戸を閉めた。

 

静まり返った廊下を歩きながら、眠れぬ夜を過ごすであろう宗三の苦悩を想像した。

主を拒絶するというあるまじき行為に、憤りなどは覚えなかった。代わりに生まれたのは、更なる期待と企図だ。どうすれば彼にもう一度接吻できるか。どうすれば彼の心の臓を掴み、体を愛でる事ができるのか。

ああいう気質の持ち主は無理に納得や解決を迫るよりも、一人で考えさせておいた方がいい。誇りを失っても気位は高い故、誰かに頼るような真似はしないだろう。答えのない思考が堂々巡りになる事で、彼はますます自らを追い詰め孤独になっていく。手を差し伸べてやるのはそれからでも遅くない。いや、そのくらいがちょうど良い。

手に入りづらい物ほど、落掌しおおせた時の喜びは計り知れない。手の届かない高嶺に花が咲いているならば、硬い土や醜い根を切り崩してでも奪い取りたくなるのが本懐というものだ。

一瞬味わった彼の舌は痺れるほど甘美で、必ずこの手に入れなければならないと心に決めた。

 

さて今夜は、恐ろしいほど淫らな夢を見る事ができそうだ。