鉛色の暗い雲が、夕刻の天に平々と蓋を敷いている。そろそろ本丸にも雪が降りそうだ。
縁側にひっそり腰を下ろした宗三は、口の中に留まる痛みを舌で弄っていた。審神者から体を求められた宗三が自分の舌を噛んで騒ぎを起こし、養生をもらったのはもう何日も前の事だった。体が抉れるほどの裂傷を受けようと、少し休めば元の形を取り戻せる。しかし宗三の口には未だ治らない疼きが取り付いていた。その理由が見つからない事が、また歯がゆい思案を生んでいた。
「宗三。何してるんだ、こんな所で」
振り向きもしなかったが、へし切長谷部の声だと気づいた。斜め後ろまで歩み寄り、長谷部はこちらの様子を伺っているようだ。
「無視する事はないだろう」
「ちゃんと聞こえています。僕がここに座っている事に特に意味はないので、答えなかっただけですよ」
「相変わらず捻くれてるな」
「貴方には言われたくありませんね」
長谷部はため息をつきながら、宗三の隣に腰を降ろした。今の宗三にとっては、他人にまじまじと横顔を見られるのは少々不快だった。耳元を虫が飛び舞うような、足元に硬い植物が擦れるような心地だ。
「俺が聞いた所で話してはくれないんだろうが、一応聞く。主と何があった?」
「……」
「宗三……」
「……」
堅い沈黙を浴びた長谷部が「ふう」と唸り、己の眉間を親指で擦った。
「わかった、これ以上無理には聞かない。ただ、何のためにここにいるのか自覚しろ。働きもしないで、只のなまくらになるつもりか」
宗三は顔を俯けた。休暇、という名目はあった。審神者が言い出した事ゆえ、本丸にいる者は長谷部を含め、宗三が養生のため休んでいる事を知っている。しかしその実、何もしない事は苦痛だった。寝所で休んでいても、要らない考えばかりが頭をめぐる。心は日ごと鬱屈し、ますます表に出づらくなる。そしてこれが単なる養生ではないと気づき、真の意図を知ろうとする目の前の善意にさえ反感を抱いてしまう。
下を向けば、桜色の髪が天幕のように顔を覆った。表情を見られない事は都合が良い。これまで長谷部に見せた事のない形相を浮かべている事を、はっきりと自覚したからだ。
「……主と何があった?とんでもない、何もありませんよ。あの人と『何か』があるのは、むしろ貴方の方でしょう」
これにはさすがに長谷部も声色を変えた。
「……何を言ってる」
「ああ、そうですね。貴方だけじゃありませんよね。ここにいる刀は、皆あの人の言いなりだ。心も体もね」
厚い雲が唸り、二人の間に凍えるような風が吹いた。
「僕を手籠めにするなんて簡単だと思ったんでしょう。けど、僕はあの人の物になるつもりはありません。あの人を見ていると思い出すんです、僕がただ人を斬る道具だった頃、あらゆる人間から受けてきた屈辱を」
「宗三、やめろ」
「僕がこの手足と言葉を与えられたのは、貴方達のように主にしがみついて甘えるためじゃない。自分の意思で考え、抗うためです」
長谷部はどんな顔で聞いているだろう。こんな面白くもない、彼にとっては不愉快でしかない呪詛の言葉を。
「貴方も本当は、もう誰かのために仕えるのはうんざりなんでしょう?けれど、結局あんな人にまで喜んで尻尾を振って……そうやって、貴方は同じ事をいつまでも繰り返すつもりなんですね」
「……」
こちらに掴みかかってくるかと思ったが、長谷部は隣にじっと座ったまま、つとめて静かだった。
「……宗三。俺を侮辱したいなら幾らでもするといい。だが主を貶めるような言葉は、例えお前でも見過ごせんぞ。次はないと思え」
「……」
「頭を冷やしたら、部屋に戻れ。皆が心配する」
宗三の薄い背を軽く叩き、長谷部は腰を上げると廊下の奥へ消えた。
彼の後ろ姿を見送る事もせず、宗三は更に深く俯いた。
彼の問いに答える気は毛頭なかったものの、もはや全てを知られたも同然の会話となってしまった。
今になって胸が痛くなる。長谷部を憎いと思った事はないが、こんな八つ当たりでもしないと、気がおさまらなかった。
長谷部は自他に厳しく融通の利かない性格だが、荒んだ心のどこかで情けを捨てきれず、宗三の弱りきった様子をひどく案じている。だからこそあのような罵りを敢えて受け流したのだろう。最後に一瞬触れられた手つきから、彼の心は十分伝わった。
しかし、だからと言って一体どうすれば良いのだ。この鳥籠に囲われている限り、扉を開ける事はできない。人の姿を得てなお、黙って代償を捧げなければならないというのか。
人間の汚らわしい見栄や欲のために使われるのは、もうたくさんだというのに。
切れた舌の痛みが再びよみがえる。唇をきゅっと強く噛むが、呪いのような鈍痛を誤魔化す事はできなかった。