数日降り続いた雪がようやく止み、本丸では行軍の準備が進んでいた。たとえ戦力や兵糧の蓄えがあっても、凍てつく吹雪に晒されては敵わない。今はなりを潜めているが、何日もすればまた分厚い雲と共に現れ、天地を荒らしに来るだろう。しかしただ籠城していては、数も知れぬ時間遡行軍を蔓延らせるだけだ。此度の行軍は天候を見ながら、かつ備蓄を抑えるために少数編成で成果をあげなくてはならない。宗三が戦線への復帰を申し出たのはその折の事だった。

戦支度を終えて門へ向かうと、武者だまりには三百余の兵が集まっていた。水田に並ぶ稲のような整列を横目に留めながら、門前へ歩く。先頭で兵と共に馬の装具を整えていた長谷部が、こちらに気付いて振り向いた。

「もういいのか、調子は」

「ええ。そろそろ、皆さんの視線が痛くなってきた頃ですしね」

軽く含めた自虐には特に反応せず、長谷部は厳しい目つきで隊列を見渡した。奥では燭台切光忠と大倶利伽羅が後方を固めている。ろくに他人と接触をはからなかった宗三にとっては、彼らの姿を見るのも久方ぶりでよそよそしい心地だ。加えて、隣同士で何かを喋っている光忠が、遠巻きにこちらを見つめていた。笑うでも咎めるでもないじっくりとした眼差しがどうにも気に入らず、ふいと顔を逸らした。やり取りを見ていたのだろう、長谷部のついた溜め息が一段とわざとらしかった。

「言っておくが、今回の部隊長は俺だ。負けては勿論ならんが、お前は病み上がりのようなものだ、無茶はするな。状況によっては俺の判断で優先して退かせる。いいな」

「……要するに、皆さんの足を引っ張らなければいいんですよね」

「本当に大丈夫なのか?」

「僕が籠もっている間、けしかけてきたのは貴方でしょう。文句を言われない程度の武働きはしてみせますよ」

堅苦しい顔つきのまま、長谷部は口元だけを歪めた。

「そこまで言い返せる元気があるなら、心配は要らないか」

 

まだ日は高いはずだが、夜よりも暗く不吉な曇天がどこまでも続いている。行軍の間に放っていた偵察隊が戻り、遡行軍との遭遇を報せにきた。数はおよそ二百。こちらの方が百は勝っているが、進軍速度が異様に速く、間も無く合戦場へ到達するとの見方だ。長谷部と目線を交わし、馬を急がせた。

雑木林を切り抜け、低い崖を隔てた向こうにはなだらかな勾配の合戦場が広がっている。連絡にもあった通り、驚くべきは遡行軍の迅速さだった。あの異形達にどこまでの知能があるかは知れないが、すでに到着した兵らが、大将を奥に控え陣形を構成していた。

長谷部が合図を出して進軍を止め、崖を挟んで両軍が相対する。山の稜線の如く横に伸びた黒い軍団が、地獄から遣わされる生き物のように蠢いていた。まさに百鬼夜行の絵図だ。崖下から吹き上げる風も、真冬の寒さとは違う不気味な温度に冷え込み宗三達を威圧していた。

相手は言葉の通じる人間ではない。名乗り合いは無用だった。中央に構えたどす黒い体の鎧武者がけたたましく発した怒号を合図に、双方は中央に向かって馬を突進させた。

栗毛馬で崖をひとまたぎに跳躍し、着地と共に抜刀した宗三は左翼を風のように駆けた。低い体勢で剣戟を潜り抜けながら、次々と敵を薙ぎ払う。狙うのはことごとく、敵の首から上への一撃だ。いたぶり弄ぶような手段は好きではない。跳ねた首の数をそらんじれば、六人目は随分と殊勝な荒武者だった。首がなくなってもなお、狂ったように刀を振り回し馬で宗三の横を早駆けで追いついてくる。生きた人間では執念があってもここまでの働きはできないだろう。出鱈目な太刀筋をかわしながら、鎧の隙間から脇を深く刺し貫き、そのまま上へ捻り上げて腕をもぎ飛ばす。奇怪な風車のように宙を回転し、その腕は遥か後ろへ飛んで消えた。我が腕と得物を失ってようやく、彼は無いはずの目で無いはずの手元を見、戦えぬ無念を叫びながらぐしゃりと落馬した。

しばらく戦に出ていなかったが、ひとたび愛刀を握れば殺しの感覚はすぐに蘇った。醜い断末魔、鼻をつく血と泥の香りが妙に懐かしい。宗三の隊は鬼気に近い士気をまとい、他よりも攻めの歩みが進んでいた。このまま前線を押し上げれば、総大将の喉元もそう遠くはないだろう。

 

敵の陣形は徐々に崩れて始めていた。が、降り続いていた雪のせいで平地は緩くなり、何度も足跡が重なる事で地面には突起やぬかるみが生まれてくる。味方の馬達が、次第に足を取られるようになって来た。宗三はこの時点で既に四十余りの首を落としていた。しかし己が脚のように操っている馬が突如いななきを挙げ、前足を跳ね挙げて暴れ出す。首を捻って見ると、栗毛の腹に斜め下から鉄槍が突き刺さっている。そして硬い蹄に踏み潰されたのであろう、顔面のひしゃげた武者が絶命したまま槍に絡みついていた。内心、舌を鳴らした。馬は一度興奮すると簡単には抑えが効かない。無闇に暴れて投げ出される前に、宗三は手綱をしかと掴んだ。続いて馬のよく張った腹を足蹴にして強く反動をつけ、手綱を離すと同時にひらりと上空へ飛び上がった。地面へ足をつき、黒い泥が跳ねた着物をひるがえして振り返ると、三体の槍兵が憎悪の呻きをあげながらこちらへにじり寄っていた。

背筋を正して真正面に構え直し、熱く乾いた唇を舐めた。顔に跳ねていたらしい返り血を舌が拾い、塩辛く錆びた感触が鼻腔の奥まで立ち昇った。この時宗三の心臓を打った強い一つの動悸は、命のやり取りに全身の血潮が喜び昂ぶる確かなしるしだった。

戦いというものに恐怖を感じた事はない。敵を斬る事、それは鳥が飛翔しながら愚鈍な芋虫を探し、また蜘蛛が誰に教わる事もなく曼陀羅のような巣を描く事と同じだ。この世に存在する以上、己の本分を果たすのが本能であり摂理である。

宗三が疎んじていたのは、人の形を与えられてなお、人によって物のように蹂躙される事だった。

この体は、与えられた使命を全うするために顕現したものだ。あの男と心を通わせるための器などと考えたくはなかった。皆、騙されているのだ。神気を高めるなどと耳ざわりのいい言葉を囁いて、子を成す訳でもない男の体を隅々まで犯され汚されるのを、何故許す事ができるのか。あのような辱めを受けなくても、一度戦場に出ればこうして存分に戦えるというのに。

宗三は息巻いていた。与えられたしばしの休息を甘んじて受けた事を後悔さえした。今は武功を積み上げて、あの男に目をつけられぬように働かなくてはならない。そしてこの先も顕現するであろう新しい刀に同じ行為を強いぬよう、審神者と刀のあり方を変革する。汚らわしい慾望の連鎖を絶つのは自分の役目なのだ。

槍兵の長柄を砕き、喉奥を突いて次々に息を奪った。刃を引き抜くと喉の向こう側がぽっかりと見え、肉の渦巻く暗闇がおぞましく醜い。顎から胸にぼたぼたと血を垂れ流す槍兵は、最後の力で生者を招くように腕を伸ばしてよろめき、やがて前のめりに倒れ付した。

腕を真一文字に外側へ振り、愛刀をぬめらす血脂を飛ばす。ふと周囲を見渡し、宗三は片目を猜疑の形に細めた。

(……おかしい、何かが)

まだ敵は残っているはずだったが、宗三を囲む屍の辺りはしんと静まり返っていた。不思議と、先刻まで響いていた合戦のざわめきが聞こえない。いつの間にか、周りには生きた者が誰もいなかった。そこでようやく悟る。愚かしい事に、ずいぶん遠くまで深追いしてしまったようだ。崖や傾斜で出来た荒い地形に囲まれ、周りの状況が読めない。嫌な湿気を含んだ風が、あやかしの指先のように首筋をかすめていく。

背後に、重苦しい具足が地を砕く音を認めた。ぐしゃりぐしゃりと、歩む毎に地面を歪ませ命あった物をことごとく踏み潰しながら、ゆっくりと確実に迫りくる剛の気配。肩越しに視線をやろうとしたが、

「!」

稲妻が視界をまばゆく叩いた。青白い光が二度、三度炸裂し、割れるような閃光と轟音に耐えきれず腕で顔をかばった。

……しばらくは、雄鷹の叫ぶような甲高い耳鳴りがしていた。人の体は不便なものだと歯を噛みながら目を凝らすと、宗三の前には一回り、否それ以上の巨大な体が立ちはだかっていた。

上目遣いになる宗三の顔に、大きな影が迫る。熱気とも冷気ともつかない気配に肝を掴まれるようだった。真黒い顔に眼球だけを白く光らせ、茹で窯の如き息を繰り返し吐く姿は、まさに御伽草子に現れる悪鬼そのもの。それが宗三の身の丈程の太刀を振り上げて地を叩くと、たちまち足元は割れ、砕けた地面が吹き上がる。

しまったと、思う頃には遅い。もはや刀を構えるどころか、立つ事すらできない。抜き身を地に突き刺し、しがみついて耐えたが、無駄だった。数拍も置かぬうちに宗三の体はあっけなく倒れ、崩れ落ちる大地の奥へと流れていった。

 

渇いた冬空をたちまちに黒い雨雲が覆い尽くしたかと思うと、急激に空気が蒸しあがり、辺りはひどい土砂降りとなった。長谷部の隊伍は中央へ進軍していたが、この雨で歩みは鈍っていた。これ以上はまともな戦になりそうもないが、元より兵力はこちらが上回っている。向こうも勝機なしと見たか、追われた鼠のようにぞろぞろと撤退を始めていた。無理に戦線を進めなくとも、十分な勲功となるだろう。納刀した長谷部は頭を軽く振って鬱陶しい水滴を振り払い、天を見上げた。

急な天候の崩れだった。沈黙していた空を切り裂く雄叫びのような雷鳴。冷たく渇いた雪雲とは違う、異形達の吐息を固めたような生々しいぬるさの雲が充満している。まるで誰ぞが遥か上から、自然の猛威を意のままに操っているような気さえした。

「長谷部殿」

やがて、濡れそぼった芝見が戻ってきた。一人きりで戻った事から想像はついたが、やはり落胆する。

「宗三は見つからなかったか」

この雨では例え忍びの目でも足跡を追うどころか、何処に留まっていたかを知るのも不可能だろう。足労をねぎらい後ろに下がらせたが、長谷部の内心は変わらず淀んでいた。

……宗三が戦の途中で姿を消した。彼の下にいた若い兵がそれを告げに来たのは、この嵐が起きた頃だった。数騎の敵を一人馬で追い合戦場を外れ、それから行方がわからなくなったという。報告を聞いて頭が痛くなったが、それ以上に不吉な憶測も生まれていた。宗三の心は、危うく揺れている最中だ。戦いに復帰したばかりというだけではない。彼は審神者の意向に逆らい、彼との間に深い確執を抱えている。出陣の時も、長谷部に対して妙に意地を張っていた。自らの生きる意義を見失い自暴自棄に陥り、無闇に敵を追って踪跡をくらませたのではないかという懸念が拭えなかった。

「長谷部くん、こっちもダメだ。見つからない」

光忠と大倶利伽羅が馬をつけてきた。先の芝見と同じように、後方部隊を任せていた光忠達の方にも伝令を行かせ、戦いが収束する頃合で辺り一帯を捜索させていた。やはり収穫はなかったらしい。

「そうか。全く何をやってるんだ、宗三の奴は」

「彼らしくないね。突っ込んで行くようなタイプじゃないと思ってたけど」

「……だからあいつを連れて行くなと言ったんだ」

「何?」

光忠の後ろで、ぼそりと呟いたのは大倶利伽羅だった。

「勝手に深追いして、勝手に消えた。これで首級を持ってこれなきゃ、ただの足手まといだ。わざわざ探しに行ってやる義理なんてないだろう」

ため息をついた光忠が、少し身を寄せて大倶利伽羅へ何事かを囁いた。宥められてもなお、顔を背けて忌々しげな舌打ちを飛ばしている。再びこちらを向いた光忠の困ったような視線を察し、追及はしないでやった。正直癇に障ったが、ここで咎めても仕方のない事だ。

「けど、どうする?兵達は皆疲れてるし、怪我人もいる。そろそろ引き返さないと、帰りまで馬と蓄えがもたないかもね」

「……それは、そうだが」

「僕も彼の事は心配だよ。けどこの雨じゃ、また芝見を出しても結果は同じだろうね。ここは一旦戻って主に報告しよう。そうじゃないと……」

光忠が言い終えるが先か、遠くで一際の大音声が沸き起こった。皆が一斉に顔をあげる。左翼の遥か先、撤退している敵兵の当たりに青白い光が立て続けに落ちた。落雷に続き激しい竜巻のようなものが、周囲の死骸、馬、草木や岩を巻き上げうなりをあげているのに息を飲む。否、竜巻ではなかった。人の倍はあろうかという大鎧が、太刀を振り上げ地面を破壊しているがために起きる、上空へ放出される強い衝撃波だった。

「なんだ、あれは」

無意識に漏らした言葉に、同じ方向を睨む光忠は目をすがめた。

「ああ、最悪だね。こんなに早く見つかるなんて」

「まさか……」

検非違使。四つの忌まわしい字が眼前に浮かび上がった。政府に遣わされた我が軍勢でも、ましてや時間遡行軍でもない。歴史に介入する全てのものを排除する第三の勢力がここで姿を現したらしい。合戦場の賑わいを聞きつけ、向こうの山を下って現れたのだろうか。戦場が急な雨雲と雷に支配されたのも、おそらく奴らが現れる兆しだったのだろう。

やがて青い炎を立ち昇らせながら、新たな軍勢達の先駆けが現れた。最奥にそびえ地を唸らせる総大将の露払いをせんと、長谷部達へ向かってじわじわと迫り来る。

「おい、何を呆けてる」

「長谷部くん、」

「わかってる。だが……」

どうする。目まぐるしく動く頭の中心に、宗三の事があった。宗三の兵の報告によれば、宗三は敵を追った先で孤立している可能性が高い。もしあの巨人に遭遇したならば、たった一人で挑んでも勝機はないだろう。考えたくはないが、彼奴によって粉々に壊されてもおかしくはないのだ。

隊列を組み直し、更にこの三人を先陣として攻め込めば、他の兵達を犠牲としてこの戦線を潜り抜けられる可能性はある。しかしそれは宗三の居処を探るための最低条件であり、必ず見つかるという保証はない。最悪、見つける事も、我々が五体満足で帰城する事も叶わなくなる。

そして、宗三を助けねばという思いと相反するのは、審神者の存在だった。最後に審神者と褥を共にした時の楔が、長谷部の胸には深く突き刺さっていた。旧知の存在だからといって、情けをかけて傷を舐め合うような真似は許されない。彼に肩入れする事は、主命に逆らう事と同義だ。ましてや今、宗三ただ一人と引き換えに、調練した兵達を無駄死にさせる行為など万が一にもあってはならない。長谷部だけではなく、指揮下においた光忠や大倶利伽羅も厳しい処罰を受ける事になるだろう。

地獄の入り口を目の前に、長谷部は手の中で軋むほど鞘を握り込んでいた。

「長谷部くん、隊長は君だよ。判断は任せる」

光忠の声色が促す判断は限りなく一つであった。長谷部は唇を固く噛んだ後、己が魂を吐き出すように深く息を漏らした。言ってしまえば終わりだ。だが言うしかなかった。

「……今は退く。たった一人のために、多勢の兵を犠牲にはできん」

苦渋の思いで言葉を絞り出した。それを聞いた光忠が痛ましいものを見るように眉を寄せたが、次には一つ頷き、潔く後方の部隊を振り返った。

「撤退!!」

その一声で、兵達は力を絞り上げて退路を形成した。しんがりに弓兵を集め、まだこちらへ向かってくる黒い塊に向かって火矢を放ち、退路への侵入を阻み続けた。先刻まで優勢にあった兵達はすっかり慄いていた。あの巨人に見つかっては、命はない。本能を揺さぶる雄叫びにことごとく肝を削がれ、辺りはもはや敗戦の様相だ。ある者は腰が立たず友に引き摺られ、ある者は恐怖にまろび嘔吐を漏らしながら、それでも徐々に戦線は縮小していった。

まだ走れる若い馬の手綱を引き寄せて飛び乗ると、長谷部はもう一度戦場を振り返る。

血と泥、人馬の死骸をえぐるように叩きつける雨が、行方を消した彼の内に住まう、荒れ狂った心の化身のように思えた。