監獄って場所には二つの種類がある事を知った。
 一つは法で作られ統治された、字引き通りの意味を持つ監獄。
 そしてもう一つは法の手さえ及ばない、ゴミ置き場みたいなアンダーグラウンドだ。

 自分がいたのは後者の世界だった。それに気づいたのは、無法地帯の真ん中で、血でぬるぬるしたナイフを握って突っ立っているこの今だ。気分は最悪だった。
 足元には、さっきまで飛び跳ねるほど元気だった男が、糸が切れたマネキンの様にうつ伏せて沈黙している。腹の辺りから、オイルに似た黒い血がじわじわと染み出ていた。
 夕陽で焼けたコンクリートに、自分の影が降りていた。そこに重なるよう、ポタリと染みができる。顔から伝い落ちた自分の汗だ。
 伸ばした前髪が目元に張り付き、酷く邪魔だった。

「やってくれたな、兄ちゃん」

 後ろから声が近づいてくる。心臓を掴まれた気がして、振り向く事さえできなかった。
 黒いトレンチコートの男が、自分をすり抜けて足元の塊の前にしゃがみこんだ。
「おい、大丈夫か?」
 意識の有無を問いかけるには、随分と鷹揚な声だった。しかし自分にとっては、この現場を第三者に見られた事が、何より問題だ。
 こちらに背を向けたまま、コートの男は今度は自分に向かって声を投げた。
「あんた、何そこで突っ立ってる。救急車呼んでやれよ。あんたが刺したんだろうが」
「ッ……、」
 ナイフを持つ手がわなわなと震える。それをもう片方の手で抑えて、柄をしっかりと握り直した。
 見られた以上、この男にも消えてもらうしかない。振りかざしたナイフを、男の無防備な背に突き立てるイメージがありありと目の前に広がった。しかし、
「!!」
 足を踏み出すのと、男が素早く振り向き立ちあがるのはほぼ同時だった。先程までの緩慢な動作とは別人のような俊敏さに驚いた時には、男はこちらの腕をしかと掴み上げていた。
「なっ、」
「何してるんだ?危ねぇだろうがよ」
 予想以上の反応だった。
 振り向いた男は、50代後半くらいの齢だろうか。短く刈り込んだ頭や口元の髭に若干白いものが混じっている。猛禽の爪痕に似た鋭い皺が刻まれた目元は、人の顔から喉元を見透かして、腹の底をまさぐるような危険な光を孕んでいた。
 腕を掴まれたまま、至近距離で鷹の眼に捕らえられたような窮屈な心地がした。
「……なぁ兄ちゃん。あんた、自由が欲しいか?」
 据わった目つきのまま、男は言った。
「え?」
 言葉の意図が汲めず、しばし思考が固まる。男は薄笑いさえ浮かべた口で続けた。
「見逃してやるから、しばらく隠れてろ。0時に裏通りの『スピカ』に来い」
「……」
 考えている間に、手を振り払われる。そのまま背を向けた男は、携帯電話を片手に再びしゃがみこんだ。
「……もしもし、ああ俺だ。人が刺されてる。場所は……」
 その口上に、はっと目が覚める。急速に冷静さを取り戻した脳から、体中に指令が駆け巡った。気づけばナイフを捨て、走り出していた。

 ……自由なんて、この世の何処にもありはしない。
 それでも、この腐った場所から這い上がれるなら、それにすがりたいと思ったのだ。



 「馬場」は母親の旧姓だった。
 父親が残した部屋で、母親と二人きりで静かに暮らしてきた。物心つかない時に消えたという父親を、母親はひどく恨んでいた。しかし同時に、どこからとも知れない口座から毎月一定の生活費が振り込まれている事に、渋々ながらあやかってもいた。
 社会に取り残されている孤独からか、母親はそのうち家に男を連れ込むようになった。男が来る時は、事が終わるまで家の外に放り出された。たとえ真冬の吹雪の中でも、だ。
 きっと、そのせいだろう。冬が、そして雪が嫌いになったのは。

 あの家を出た日も、骨が軋む程に冷えた雪が降っていた。
 母親を置いて行くのは胸が痛んだが、この頃はたった一つの拠り所だった母親にすら除け者扱いされていたのだから、自分の居場所は何処にもないのだと悟った。
 家を飛び出した後は、僅かばかり貯めた金で関西へ渡った。そこで細々と運び屋をやって毎日をしのいだ。身寄りもない未成年ができる仕事は、限られていた。
 成人を過ぎてしばらくした頃、この街に移った。
 そしてこの辺り一帯を仕切っていたのが、今日、自分がナイフで腹を抉った男。らしい。名前すら知らない。ふっかけてきたのは向こうで、未成年のようだがかなり酒に酔っていた。揉み合いの末の出来事だった。

 あの後不意に現れたコートの男は、何を思ったか、明らかに犯人である自分を逃がしてくれた。このまま何処までも走って行きたいと頭の隅で思ったが、やめた。それは狩られる側としての動物的な勘だったのだろうか。何処まで行っても、あの男の眼からは逃げられない気がしたのだ。



 0時ちょうどを差した腕時計を見下ろし、『スピカ』の裏口の壁に背をつけ、影のように身を潜めて男の到着を待った。パーカーのフードで精一杯顔を隠し、客の出入りがあれば顔を背けてやり過ごした。
 それからしばらくして、腕時計の針が0時を20分ほど回った頃。
「……よぉ、待たせたな」
 まるで自分が来る事を確信していたような口ぶりで、夕刻会った時と変わらないトレンチコートが現れた。
「やれやれ、俺が『第一発見者』だってのに、誰も聞きやしねぇ。黙らせるのに時間がかかっちまったよ」
 半ば独り言のように呟きながら、こちらに例の人を喰ったような目を向けた。
「お前も知ってるかもしれんが、あいつはこの辺で威張ってるガキ共のヘッドだ。少年院には何度も出入りしてる。別荘みたいな感覚なんだろうな」
「あの……」
「こんな事より、俺が何でお前を助けたか、それを聞きたいんだろ」
「……」
「来い」
 男は『スピカ』の看板をくぐり、店に入った。後をついて来いという事なのだろう。気は進まなかったが、肩越しに振り向いた男が「警戒するな、俺の馴染みの店だ」と気休めにもならない事を付け足した。
 カウンターには二組の客がいた。男の肩にしどけなく頭を乗せる女の連れ合い。そしてもう一組は、人目を忍ぶように隅に座った老齢の男と、不釣り合いな若い女。カウンターに立つマスターらしき中年が、男を認めるなり「お疲れ様です」と軽く会釈をする。
 男は軽く手をあげて返すと、そのまま部屋を横切り、更に奥まったドアを開けて、そこに入ってしまう。一瞬迷い、思わずカウンターを振り返った。中年男はこちらに目を向ける事もなく、機械のように淡々と氷を作っていた。

 ドアを開けた先は5メートルもない短い廊下になっており、その奥に一つだけドアがある。
 深く息を吐いて、足を踏みいれた。薄暗い照明が灯る部屋は狭い。格安のビジネスホテル程だろうか。
おそらくここが店のスタッフルームなのだろう。グラスしか置けないような小さなテーブルの向かいに、大きさは十分だが年季の入ったソファが置かれていた。
 そこに座った例の男がコートを脱ぎ、ソファの背に無造作に放っている所だった。どうしたものかとそのまま立っていると、
「兄ちゃん、名前は?」
 不躾に質問を受け、しばらく口元がまごついた。
ああいった血生臭い現場に慣れた口調からして、この男がただの一般人でない事はわかっていた。この状況を作る事も、整えた手はずの一環なのだろうか。
 もはや脱出不可能なテリトリーに囲まれたのだと自覚し、心は諦めの方に傾き始めていた。
「……馬場です。馬場茂樹」
「そうか」
 短く返して、男は名乗る事なく胸から煙草を取り出す。咥えた一本にライターでだるそうに火をつけながら、床に目を落として喋り出した。
「単刀直入に言うとな。俺がお前を見逃したのは、俺の仕事を手伝って欲しいからなんだよ」
「……仕事?」
 目を細めて至高の一服を吸い、吐息混じりの煙を吐く。
「そうだ。俺の職業、何となくはわかんだろ」
「……ええ、まぁ」
「潰したい組織があってな。個人じゃなかなか表立って仕事ができん。そこで、頼りにしたいのがお前って訳だ」
「どうして、」
「代わりだよ。お前が刺した奴、俺の下で働いてたんだ」
「!!」
 顔が青ざめていくのがわかった。対して男の表情は少しも変わらない。
「全く、よくもやってくれたよ。手伝いっつっても、ガキのお使いじゃねぇ。一人前になるまでそれなりに詰め込んでやったのに、今までの時間と手間が台無しだ」
「さ、先に手を出してきたのはあの人だ!」
 反論するのは怖かったが、乾き切った唇が痛むのも構わず早口でまくし立てた。
「あの人は、俺をどこかの組の末端だと思ってたみたいですけど、俺はただの運び屋です。酒にも酔ってたし、勘違いだ、急に襲ってきたあの人が悪いんだ」
「落ち着けよ。正当な理由があったにしても、お前のやった事は到底許されるもんじゃねぇ。けど俺はお前を問答無用で逮捕しようって訳じゃねえ。チャンスをやろうって言ってんだ」
「……チャンス……」
「そうだ。俺もこうしてコソコソ動いてる身だ。お前みたいに、縛りなしに動ける人間が必要なんだよ。もちろん仕事が成功すれば、俺の力でお前を自由にしてやる。罪に咎められる事はねぇ」
「……っ」
「馬場くんよ。好きに選ぶといい。俺の保護下でおとなしく働くか、それとも汚ねぇブタ箱にブチ込まれるか」
 ……わかりきっていた選択だった。しかし、開いた口は酷く重かった。
「……俺が、」
 舌が固く縮こまってしまい、一言一言を発すのも苦しかった。
「俺が、あの人の代わりになれるんなら。……それで構いません」
 男はあらかじめ解を得ていた数式を見たように、にんまりと笑った。
「よし。じゃあ……ここに座れ」
 指差したのは、男の足元だ。ひざまずけという事だろうか。屈辱を覚えたが、従うしかなかった。
 戸惑いながらも膝をつくと、男は吸っていた煙草を灰皿の窪みに休ませた。そして自分のベルトを外し、スラックスを下ろす。ギョッとした。
「な、何して……」
 言い終わらないうちに頭を掴まれる。下着越しに押し付けられた男の部分が、堅く膨らんでいた。
「これもあいつの仕事だったんでな。まずはこれから教えてやる」
 背筋からぞっと血の気が引いた。
「……で、できません、こんな」
「できないだと?仕方ねぇな、それじゃあとっととムショ入ってもらうか。あそこには俺よりうんと若くて、性欲持て余してる連中がゴロゴロしてるぞ。お前みたいな奴が入ったら三日でケツの穴が使い物にならなくなるだろうな」
「……!」
「俺一人の相手で済むんだ、簡単な事だろ」
 地上に引きずり出された魚のように、喉が乾きあがる。しかし、何も言い返せない。男の言うが儘に、そこへ顔を近づけた。
 下着をずらすと、年齢の割に逞しい性器が勢いよく跳ね上がる。喉の奥から抵抗感がせり上がってきたが、やるしかなかった。
 女がする様を真似て、先端に舌を当てる。そのまま軽く口に含んで、裏を舌で擦った。生々しい雄のにおいが鼻と口に充満する。
「手も使え」
 口にはまだ入らない陰茎を手のひらに包み、擦る。
「んっ、」
 男は灰皿から拾い上げた煙草を再び吸いながら、手を伸ばして髪を触ってきた。
「今時の男は、こんな綺麗な髪してんのか」
 整えるのが面倒という理由で、襟足が隠れる程に伸ばした無造作な髪を、気に入ったらしい。指ですくったかと思えば、髪を強く鷲掴まれ、股間に顔をなすりつけられた。
「んんっ、ふ、ッ……」
 男のものがいきり立ってくる。歯にあたらないように、舌を立てて舐める。
「もっと奥だ」
 男の手に力が入る。喉につくほどペニスを深く押し込まれた。嘔吐感がこみあげるが、必死にこらえた。
「いい子だな」
 舌が痺れ、涙が滲んできた。随分長く咥えていた煙草を灰皿に押し付けると、男は腕を引っ張った。抵抗するすべもなく、そのままソファに引きあげられ、強引に押し倒された。
「……っ」
 急に、部屋の外が心配になった。部屋と店はそう離れていない。誰かが入ってくる可能性もあるのだ。間違っても、こんな状況を見られたくはなかった。しかし、そうして少しでも男から顔を背けてしまったのが間違いだった。
「よそ見してんじゃねぇよ」
 バチンと勢いよく頬を叩かれた。平手とは思えない衝撃に、意識が飛びそうになる。殴られた拍子に口の中を噛み切ってしまった。さっきまで咥えていた男の性器の苦味に、塩辛い鉄の味がぬるぬると混じった。
「……す、みません……」
 それだけ言うのが精一杯だった。乱暴にジーンズを脱がされるが、拒むための言葉が出ない。開きっぱなしで疲れた顎はろくに動いてはくれなかった。
 覆いかぶさった男は、広げた足の間に手を伸ばす。
「くく、何だ、お前もおったててるじゃねぇか」
 おぼつかない視界で見下ろすと、自分の性器も男に劣らず勃ちあがっていた。身の危険を体が感じ取っているからだ。そうでなければ、男に組み敷かれて興奮するわけがない。自分に同性愛の趣味はなかった。
「男にいたぶられるのが好きなんだな」
 肯定しがたい言葉にも、口がまともに動かない。
 男は軽く触れた自分の性器から簡単に手を離した。そして、触れられたくもない秘部に固く濡れた先端を押し当てる。体が大きく跳ねた。
「……い、やです」
「デカイ声出したらすぐバレるぞ。まぁバレた所で、誰もなんにも思わねぇけどな。ここはそういう場所だ」
 体勢を変え、近づいた顔は笑っていた。先端がゆっくり入る。
「あ、ッうう……!!」
 喉が引きつった。熱い。引き裂くような強引さで、男のものが中の肉をかき分けてくる。
「い、痛…いっ、」
 絞り出した声は女のように甲高く、か細いものだった。
「男は初めてなのか?かわいい顔してるから、てっきりどこかのホモ野郎に仕込まれてんのかと思ったよ」
 言いながら容赦なく奥に進み、全てが入りきった頃には、自分でも気づかないうちに嗚咽を漏らしていた。ぼやける視界に、男のうんざりしたような顔があった。
「泣くなよ、これくらいで。お前にはもっとキツイ仕事してもらわなきゃなんねぇんだからさ」
 腰を引き、ずるりと再び奥を突かれる。
「ひ、うぁっ、あ、」
 そのままピストンが始まる。押し付けられた体をどうしても押しのけたくて、男の肩に手をかける。しかし体に力は入らず、与えられる律動に慄き、男にしがみつくように腕を回してしまう。
「……何だ?かわいい事しやがって」
 腰を激しく起伏させ、ソファがギシギシと音をあげる。
「うぁ、あ、くぅ……んんっ」
 声を出さないように歯を食いしばったが、抑えられない苦悶と、恥辱に濡れた息が入り混じり、望まずとも鼻にかかった声が漏れてしまう。まるで体の奥にナイフを突き立てられるような気分だ。
 夕刻、自分が刺したあの男が頭にちらつく。彼もこうして体を捧げ、男の下で嬌声を上げたのだろうか。
 中がぐちゅぐちゅと粘ってきた。排泄を強制されるような不快感でいっぱいになる。
「……お前、顔もだけど、体もいいもんだな。これなら男共を骨抜きにできるぞ」
「……も、やめて、ください、ッ」
「そういう仕事もない事はないが、当分は俺のモンだ。たっぷり可愛がってやる」
 息を弾ませながら、男は目を細めた。
 抑揚の少ない声に、若干上擦りが見えていた。目尻は充血し、昂揚した肌は欲情する雄のそれだ。
 どうして。自分なんかに。
 腰をしっかりと掴み、男は荒々しい突きを始めた。角度が変わり、頭が痺れるような衝動に体が痙攣する。男を飲み込んだ部分から溶かされ、おかしくなりそうだった。
「くっ、んん、んあっ、あ、ひぃっ…!」
 涙をぼろぼろとこぼし、男にしがみついた。
 男が熱い息を耳に吐く。獣じみた呻きをあげ、腹が潰れそうなほど根元まで密着した。
 体の奥に、最高潮に達した男のペニスが突き立てられたまま、勢いよく中に精液が注がれるのを感じた。
「うっ、はぁ……ああ」
 どくどくと脈打ちながら、下腹がどろどろの粘液で満たされていく。絶望的な気持ちに浸りながら、涙で歪みに歪んだ天井をただ見上げるしかなかった。

 霞んでいく意識の中で、はだけた胸の上に紙切れを落とされた。
「起きたらここに連絡しろ」という声が聞こえた気がしたが、酩酊状態にも似た頭では、何も考える気にはなれなかった。



 それから男にはさまざまな技を仕込まれた。ナイフの使い方や、銃のさばき方。素手を使って巨躯の人間を楽に殺す方法も。
 男が関西最大の勢力を誇る極道組織・近江連合の首領である事を知ったのは、出会ってから大分、後の話だった。
 そんな人間に捕らわれ、いくらもがいても外れない、硬い首輪を繋がれたのだ。ここは無法の監獄に違いないと思った。

 そして、男は本当の監獄へ自分を送った。
 網走刑務所。日本最北端の土地・北海道で、男の計画の鍵を握る囚人を監視し、月見野へ連れ出すように命じられた。その頃には、骨の髄まですっかり男の人形に成り果てていた。拒む理由は少しもなかった。
 収監されたのは冬だった。同じ日本とは思えないような豪雪に、心まで凍りつきそうだ。いや、こんな傀儡に身を染めた時から、心は既に凍っていたのかもしれない。

 ……自由なんて、この世の何処にもありはしない。
 白いため息を吐いて、重い一歩を踏み出した。