セットいわく、血液浄化療法でケアできるのは体だけだ。薬物中毒者が真の意味で立ち直るために必要なのは心のケアだという。理屈の上では知っていたが、まさか自分にそんな問題が降りかかるなんて思ってもみなかった。

 レジスタンスが革命を起こしたのをきっかけに、ワイアットは医師とカウンセラーによる本格的な治療を受け入れた。厳格な両親に育てられたワイアットは生真面目な質で、一つの事をじっくりとやり遂げるのが得意だ。彼らが驚くほど、経過は順調だった。

 それと引き換えに、ワイアットの頭に生まれた巨大な宇宙と崇高な声は次第に小さくなり、今となっては吐息さえ聞こえなくなってしまった。健康な体を取り戻したのだと言えば、そうなのだろう。しかしそれは果たして今までの自分と呼べるものなのか。今息をしているのがかつてのプロブスト・ワイアット三世と同一人物であるのか、自分でも証拠付ける事はできなかった。

 

 ナチスの支配から抜け出したアメリカには、ようやく自由が芽吹きつつある。星条旗が再び掲げられた街には人々が集まり、再建のために協力して動き出している。

 国営放送をジャックして辿々しいスピーチを披露したワイアットの元には、しばしばマスコミの人間がやって来た。戦争と支配、辛い過去を乗り越えた英雄として、新しいリーダーになる事を期待されているのが分かった。政治家なんて大層なものになれる自信は到底なかったが、皆は背中を押してくれる。監獄のようなUボートで暮らしていた頃は、息苦しさと喪失感のあまり生きている意味など見出せなかった。しかし久しぶりに吸った地上の空気は思ったより気持ちが良く、ここに暮らす人々の自由が二度と奪われないように、彼らを率いるリーダーが必要だと感じた。それが本当に自分でいいのか、疑問は晴れないままだったが。

 

 慌ただしい日々の中、先週ついにブラスコビッチ大尉とアーニャの子供が産まれた。元気いっぱいの双子の女の子だ。レジスタンスの仲間達を集めて開いたパーティーは盛大なフィナーレを迎え、今は誰も彼もが泥のように眠りこけていた。

 主治医から徹底的に禁酒を命じられているワイアットは眠るのにもいよいよ飽きて、オープンリールとヘッドホンを抱えてこっそりと部屋を抜け出した。誰にも邪魔されないバルコニーへ向かい、小さなデッキチェアに深くもたれた。オープンリールのテープが全て巻き戻ったのを確認して、ヘッドホンをかぶり再生ボタンを押し込む。テープが傷付いているせいで、この曲は始まる前からつまずきのような雑音を吐き出すようになった。宝物なんだからもっと大事に扱えばよかったと、ボタンを押すたびに後悔させられた。しかし一度音楽に耳を傾ければ、そんな些細な後悔がどこかへ消え失せてしまうのも、ワイアットは良く知っていた。

 イントロは恋人の機嫌をうかがうように弦を撫でて始まる。そこからはあっという間だ。もやのように左右の耳から現れた音に脳みそを挟まれて、頭のもっと上、現実には有り得ない全く新しい世界へ引きずり込まれていく。ぶつぶつと途切れながらも夢みたいに甘いギターの旋律を聴きながら、ワイアットはゆっくり目を閉じた。そして、かつてまぶたの向こうにあった幻の宇宙へと問いかけた。

 

J。もし彼が生きていたら、あの子達のためにどんな曲を弾いてくれただろう?)

 

 Jという男は、音楽を語らない時は必ず皮肉を語っていた。今夜のパーティーに呼ばれたなら、きっと端っこの席に座り、子供は嫌いだとかクサイ雰囲気で体が痒くなるだとか、文句を垂れながら酒をあおるだろう。そして勝手なタイミングでふらりとステージに登場して、何日もかけて考えたアレンジたっぷりのバースデーソングを弾いてくれるに違いない。感動屋のアーニャはもちろん、大尉もいかつい顔をぐしゃぐしゃにして子供みたいに大泣きする。それを見て皆が笑うのだ。

 楽しい想像が、虚しく頭をよぎった。じわじわと痛感が込み上げる。彼がいなくなった世界はなんて平和で、なんて物足りないんだろう。彼は時代に火をつけられて激しく燃え上がった、反逆の魂そのものだった。

 ヘッドホンから聴こえるのは彼が何度も書き直し、その度に聴かされたこだわりの曲だった。幼い頃から行儀の良いクラシックのレコードに馴染んでいたせいか、ロックというものは衝動的で乱暴で、かき鳴らされた楽器が上げる悲鳴のように思えた。ただでさえ狭い部屋でスピーカーから大音量が響くと鼓膜がどうにかなりそうだった。そんなワイアットを見て、彼はいつも「うるさいだろ? それが音楽だ。俺の言葉だ。だから耳を塞ぐなよ」と笑っていた。

 今ならよく分かる。あれほど頭を混乱させたノイズの集合が、今はゆりかごが軋むように心を優しく揺らしてくれる、そんな気がした。

 

 人生において最も奇妙で、最も愛すべき友人。彼は天国でギターを抱いて眠っているのだろうか。それともこの傷だらけのテープの中にいるのだろうか。もう一度会えるのは、おそらくまだ先の話だ。それまでは彼の生きた証を聴きながら、歳を取っていくのも悪くない。

 かすれたギターの音に合わせて、ワイアットは頭に焼きついた歌を穏やかに口ずさんだ。