ネオン街から少し外れたマンションの前に車を停めて、俺は本日最後の仕事を終えた。
「着きましたよ、社長」
 声をかけたが反応がないのでチラリと助手席を見ると、社長はシートに凭れて静かに寝息を立てていた。
「……」
 連日の仕事で疲労がたまっていたのだろう。オフィスでは見せない緩みを自分の前で見せるのは嬉しくもあるが、腹の底にはザワつくものも生まれる。
 ……このところは、多忙な故にご無沙汰でもあった。頭では悶々としつつも、社長の体調は何よりも最優先に考えている。向こうからお誘いがなければ、こちらも敢えて触れないようにしていたのだが。
 そんな葛藤を知ってか知らずか、隣で眠っている顔は子供みたいで無防備そのものだ。今ならキスくらいしても気づかないだろうと、邪念を起こさせる程度には。
 幸いこの辺は閑静な住宅街ってやつで、夜中にうろつくような通行人はいない。
 それに、顔を軽くこちらに向けて眠っているのが、更に好都合だ。
 同じベッドで何度も見てきた寝顔が目の前にあると思うと、所有欲を刺激されてどうにもならなくなる。
 シートベルトを外して運転席から身を乗り出す。全く力が入っていない肩を押さえて、顔を軽く持ち上げた。起きるかと思ったが、反応はない。
「社長、いい加減起きないと……」
 その先の台詞はキザすぎたので飲み込んだ。
 ゆっくり、顔を近づける。知り尽くしてなお俺を魅了して離さない柔らかな唇に、触れるか触れないか。
 その瞬間だった。

「!!」

 窓ガラスの向こうに鋭い気配を感じた。
 バッと顔を上げると、仏頂面の白スーツが、窓ガラスをはさんで車内の俺たちを凝視していた。
 驚きより先に怒りがこみ上げた。
「桐生っ……お前何やってんだ、こんな所で」
 窓を開けて威嚇すると、「あんたこそ、立華に何やってんだ、こんな所で」と疑惑が充満した眼差しを向けられる。
 ……こいつ、いくら何でも神出鬼没すぎる。
 歯がゆさに頭の芯が熱くなる。

 俺が知っている限り、桐生は神室町の至る場所で目撃する存在だ。SMクラブの前で女王様と親しげに語り合ったり、公園でガキ共とミニ四駆について熱く語り合ったり、どこかの御曹司らしき坊ちゃんをゲーセンやバーに連れ回したり数え上げればキリがない。神室町のみならず、埠頭周辺で謎の箱を振り回しているという話も部下の連中から聞いた事がある。
 その驚くべき行動範囲の広さが、仕事の成績に繋がっているのは確かだ。そこは社長だけでなく、俺も評価している。
 しかし、今この瞬間だけはおとなしく何処かに引っ込んでいてほしかった。
「……お前、何か勘違いしてんじゃねえのか?社長が具合悪いって言うから、様子見てただけだっつーの」
 その場しのぎの嘘なら、息をするように吐けるタイプだ。むしろここで素直に「隙だらけの上司にキスしようとしてましたが何か?」なんて言える訳がない。
 桐生は怪訝そうに眉をしかめ、いまいち納得がいかない様子だったが、
 胸のあたりで、社長がかすかに唸り声をあげた。
「うん……」
 やばい。
 うるさくしていたせいで、社長が目を覚ましてしまった。
 重そうな瞼を数度瞬かせながら、社長は桐生に気づくと、当然だが不思議そうな顔をする。
「……桐生さん。こんな所で何をしているんですか?」
「いや、たまたま通りかかっただけだが……」
 桐生は包み隠さず話を続ける気満々だ。思わず顔を覆いたくなった。
 もう最悪だ。このままじゃ俺は社内公認の変態男だ。
「アンタの具合が悪いって尾田が言ってたからな。大丈夫なのか?」
「……」
 社長は少し考えるような顔をしたが、俺がほとんど覆いかぶさっている格好なのと、桐生の言葉で状況を察したらしい。すぐに、いつもの微笑つきで軽く息を整えた。
「……ええ、ちょっと眩暈がして。でも、もう大丈夫ですよ」
「!社長、」
「尾田さんはこう見えて心配性なんです。昔からね」
 俺の方をちらりと見て、話を合わせてくれる。起きたばかりなのに、状況を見て頭を働かせてくれるのだから、全く、神様仏様立華様だ。
 態度には出さなかったが、俺は心の底から安堵の息を吐き、胸をなで下ろした。
「……そうか。アンタも忙しいみたいだから、仕事はほどほどにな」
 社長の説明で、桐生もようやく納得したらしい。新人の平社員とは思えない尊大なねぎらいの言葉を寄越して立ち去って行った。


 白スーツが路地の奥に消えるのを見届けると、社長は空気を改めるようにシートに深く座り直した。
「……尾田さん、今日はありがとうございました」
「いや、俺は別に……」
 真っ直ぐな視線で見上げてくるのが非常に気まずく、顔を背けてしまう。が、
「……よかったら、このまま部屋まで送ってくれませんか」
「え?」
「え?じゃないですよ。私は、『具合が悪い』んです。もし途中で倒れたら、明日から尾田さんに私の分まで仕事をしてもらいますからね」
 『具合が悪い』を強調した顔は、窓から差し込む月明かりのせいか、ほんの少し悪戯気味に笑っていた。
 太腿にそっと手を置かれて、優しく撫でられては、最早逃げようがない。
「……なるほど。そいつは確かに、困りますねぇ」
「そうでしょう?よろしくお願いします」
「ええ、わかりましたよ」
 耐えろ、ニヤけるな俺。
 嬉しい胸騒ぎをぐっと噛み締めて、駐車場に向けてエンジンをかけ直した。

 ……桐生が来なければ、キスだけで終わっていたかもしれない。
 認めたくはないが、ここは一つ、あいつの神出鬼没っぷりに感謝しておく事にした。