【消えない痛み】

 微睡みの沼から、意識が呼び覚まされる。
 目を開くと、薄暗い病室に不釣り合いの鮮やかな影。ベッドのすぐ側に腰掛け、彼は私の顔をじっと覗き込んでいた。
「尾田さん。ずっと、いてくれたんですか」
 そう声をかけると、「ええ」と言葉少なに笑ってみせる。本当に心配性な人だ。
 ふと目を落とすと、彼の両手が私の右手を包み込んでいた。神経が通っていない手に感覚はなかったが、彼に強く握り締められている温度が微かに伝わってくる心地がした。
 そのまま、彼は背を屈めて私の手に、祈るように額を押しつけた。
「……尾田さん?」
「俺にできるのは、これくらいしかないんでね」
 俯いた表情を推し量る事はできなかった。

 ……私のために何かをしようとするなら、そんな悲しい声を出すのはやめて欲しい。
 貴方が心を痛めるほどに、私の傷は深く、痛みを増してしまうから。



【V.S.O.P】

 シェラックは四、五人も座れば隣の奴の膝がつかえてしまうようなバーだが、社長のお気に入りの店だ。プライベートで飲む時は、これくらい狭い方が落ち着くらしい。
「こうしてると、昔を思い出すんです」
「蒼天堀にいた頃ですか?」
「ええ。皆で私の部屋に集まって、朝方まで飲み明かしてましたね」
 ジャケットを脱ぎ、ウエストコート姿でグラスを揺らす横顔は懐古の形に寛いでいる。
「あー、そうでしたね。んでザコ寝してると、寝相悪い奴らが領地争い始めやがって。うるさくて寝れやしねえ」
「あなたも火種の一人でしたよ」
「そうでしたっけ?」
 社長はくすりと笑い、グラスをあおる。
「……」

 この人と飲むV.S.O.Pは格別だが、触れそうなくらい近づいた身体の距離ほど、俺を酔わせるものはない。
 言えない言葉を、甘い熱と共に飲み干した。



【カウントダウン】

「……尾田さん。貴方さえよければ、私と一緒に神室町に来てくれませんか」
 ベッドの上で身なりを整えた後、幼い造形をした横顔がぽつりと呟く。
「我が儘な頼みだとはわかっています。だから今、貴方の本当の気持ちを聞いておきたいんです」
 ……神室町。戦後の焼け跡から立ち上がった人間が血と金を注ぎ発展させてきた、東洋一の歓楽街。そこで、この人は死に物狂いであの子を探すつもりだろう。
「……俺は兄貴が行く所なら、どこまでも付いて行きますよ」
「え?」
「まさか俺を置いていくつもりだったんですか?ひでぇな」
 黒目勝ちの瞳で俺をしかと見上げ、溢れ出しそうな感情を堪えて切なく微笑む顔が、腹の底をかき乱した。
「……ありがとう」

 ……残念だが、あんたがあの子に会える日は、一生来ないだろう。
 あんたが引き金を引いたんだ。カウントダウンはもう、止まらない。



【時計】

 出会って二度目の誕生日。プレゼントにはカルティエの時計を贈った。イタリア物のようなゴテゴテしさがなく、知的で上品な輝きが似合っていると思ったからだ。
 利き手が不自由なゆえ、この人が時計を身につけない事は重々知っていた。だからこそ、最初で唯一になる物を選びたかった。
 全部俺のせいだと自分を責める度、髪を撫でて宥めてくれる優しい人のために。

 今夜はディナーを予約している。支度を済ませたその左手首に、銀色の時計をつけてやった。
「これは俺用にして下さい。つけるのは俺です、外すのもね」
 ……やっぱり、似合う。眩しいくらいに。
「わかりやすい下心ですね」と困ったように笑う顔がたまらなく魅力的だったが、微笑み返すだけにとどめておいた。
 この人をいただくのは、ディナーの後にゆっくりと、だな。



【イレギュラー】

 ……想定外だ。
 たまたま入った店がそっち系(ヤーさん系ではない)だった事。 しかも、
「想定外ですね」
 こんな時に限って社長がお忍びでついて来たのも。
「社長、あんまりくっつかないで下さいよ……誤解されちまう」
「私は構いませんよ」
 カウンターで、甘えるように腕を組んでくる社長の上目遣いは、明らかにこっちの反応を楽しんでいる。
 今日はいつものオールバックではなく、額に前髪を流している。童顔のせいで学生にしか見えないし、俺はそんな学生を誑かす悪い大人にしか見えないんだろう。
「尾田さんったら、こっちの人だったの?可愛い子じゃなあい」
俺を知っているらしいママ(?)は、俺の恋人に興味津々だ。
「そうだね、他の奴らには内緒にしててよ?俺嫉妬深いからさ」
「うふふ、もちろんよ」
 ……頭が痛い。この街で顔が広いってのも、この時ばかりは考えもんだ。



【いつか、あなたに話したいこと】

「ねえ。貴方は一体、私に何を隠しているんですか」

 眠る顔に向かって、何度目かわからない言葉を今夜も呟いてみる。
 返事はなく、規則的な寝息だけが暗い沈黙に溶けた。
 貴方の開いた目を真っ直ぐに見て問いかけたら、答えてくれるだろうか。
 けれど、私はこの先もきっと貴方に聞くことはできないだろう。
 私は貴方が思っているよりもずっと深く、恋に溺れてしまっている。
 ……もし。
 真実がもし許されないものだったとしても、貴方の言葉で聞かされたら、許してしまいそうな気がして。

 幸いな事に、嘘は得意だ。
 何も知らないふりをして貴方を側に置き、無数の偶然の隙間にできる「いつか」を待つのも悪くないと思う。



【柔らかな鎖】

 後ろから抱く時、嫌でも見える左腕の刺青。上から手を重ねると二羽になる蝙蝠を、あなたはよく、つがいのようだと笑っていた。
 左腕には俺と揃いの刺青、そして右腕は温度のない偽物。そしてその熱い体の奥も、俺の汚れた欲望の形に歪んでいる。
 ……この人の体は、俺のせいで傷だらけだ。
 感傷を振り切りたくて、強く突き上げながら柔らかい首筋を吸い上げる。青白い肌に、赤い跡がいくつも浮かび上がった。
 こうしてまた、俺はこの人を汚す事しかできなくなる。

 耳元に向かって、何回口にしたかわからない謝罪の言葉を吐きかけた。
 あなたは何も言わず俺の手を引き寄せ、そこに温かい唇を落としてくれた。

 ……その優しい口で、一度でいいから死ぬほど罵って欲しい。
 あなたが俺を許すたび、俺は見えない鎖に首を締められる気がしてたまらなくなるんだ。



【ほくろ】

桐「立華は顔にホクロが多いよな」
尾「ああ?何なんだよいきなり」
桐「いや、占い師のバアさんから聞いたんだが……顔の向かって右半分にホクロが多い男は金運がよくて頭が切れるらしいぞ」
尾「なるほど、当たってんな。じゃあ、太ももの右んとこにあるのはどうなんだ?」
桐「ああ、確か……出世できる相だったと思う」
尾「へー、すげえんだな、社長のホクロって」
桐「……ん?ちょっと待て。何で立華の太ももにホクロがあるなんて事知ってんだ?」
尾「……あ、悪い。今の忘れて。ハハッ」
桐「ハハッじゃねえよ」



【ひげ】

立「桐生さん、スーツを新調したんですね。お似合いですよ」
桐「ああ……尾田にうるさく言われてな。今度は『派手過ぎる』って文句つけられたぞ」
立「そんな事はありませんが……」
桐「あいつこそチャラチャラしたナリじゃねぇか。大体、現場の人間が無精髭ってのはどうなんだ?最近のカタギはヒゲ面で営業して回んのか」
立「そうですね……。髭については確かに同感です。ビジネスマンとして相応しくないのはもちろんですが……チクチクして痛いですし、私も困ってますから。尾田さんには私からも言っておきましょう」
桐「ああ頼む。……ん?ちょっと待て。何でアンタが尾田のヒゲを痛がる必要があるんだ?」
立「……おや、失言でしたね。うまく忘れておいて下さい。フフッ」
桐「いやフフッじゃねぇよ」



【ENDROLL】

 目を覚ますと、見覚えのある部屋に寝転がっていた。
 蒼天掘にいた頃、立華さんと住んでいたアパートだった。
 どうしてこんな所にいるのか判断できない。俺はあの時渋澤にとどめを刺されて、惨めにくたばったはずだったのに。
 体をまさぐるが、服は汚れ一つ無い綺麗なもので、胸を抉ったはずの銃創は不思議と見当たらなかった。

「おはようございます、尾田さん」

 すぐ近くで聴き慣れた声がして、弾かれたように起き上がる。
 紺色のストライプ・スーツを着た立華さんが、小さな卓袱台に肘をついて俺を見つめていた。
「立華さん!何で、ここに……」
「私もさっき来たんです。あなたがなかなか起きないから、心配しましたよ」
 いつもと少しも変わらない微笑を向けられて、俺はざわりと胸が騒ぐのを感じた。

 ……もう会えないと思っていた。そして同時に、思い出す。どうしてもこの人に言わなきゃいけない事を、俺は最後まで伝えられなかった。
 今言わなくては、きっと一生後悔してしまう。
 立華さんの前に膝をつき、震える声を叱咤した。
「……立華さん。俺、あんたに謝らなきゃいけない事があるんです。俺はずっと、立華さんに、嘘を」
 不意に唇に柔らかいものが触れた。立華さんの右手の人差し指が、俺の言葉をそっと塞いでいた。
 義手を包んだ無機質な革手袋ではない。久しぶりに感じる右手の温度に、はっとした。
「……言わないで。わかっています。私はあなたの事なら、何でも知っていますから」
 何もかもを見通した、静かな黒い瞳に、心が震える。
「じゃあ、俺を許してくれるって、事ですか」
「……いいえ。とてもじゃありませんが、あなたを許す気にはなれませんね。いっそ、ここで殺してしまいたいくらいです」
「……な、」
「ですが、もうそんな時間もないようです。そろそろ行かなくては」
「行くって、どこに」
「さあ?私は今まで多くの人を不幸にしてきました。きっとロクな所じゃないでしょうね」
 ……薄々、勘づいてきた。この見慣れたはずの場所は、俺が知っている場所じゃない。
 目の前にいる立華さんも、きっともう生きてはいないんだろう。俺と同じように。
「さあ、尾田さん。支度は済みましたか?」
「え?」
 立華さんが立ち上がり、ジャケットの襟を整える。
「とぼけないでください。あなたを迎えに来たんです。あなたも私と同じ、たくさんの人を不幸にした人間です。行く所は、私と同じですよ」
「立華、さん」
「ほら、早く」
 座り込んだままの俺に、立華さんはそっと右手を伸ばしてくれた。俺がダメにしてしまったはずの右手が、俺に向かって広げられている。
「……俺なんかを連れて行ったら、またあんたに迷惑かけちまいますよ?」
「結構。慣れてますから」
 にっこり笑う顔が、俺の冷たい心臓を暖かく包む。そんな気がした。

 おずおずと、立華さんの手を握った。
 優しくも力強い掌が、ぎゅっと握り返してくれる。
 初めて出会った日、叩きのめされた俺に差し伸べられた暖かさと同じだった。
 目の奥が、燃えるように熱くなる。笑いに似た嗚咽が止まらず、冷たい雫が頬を伝った。

「ははっ。……やっぱり、俺はあんたには敵わねぇな」