【虫と果実】

 神室町に出向いたのは、風間新太郎に挨拶をするためだった。
 立華さんは間も無く、この街に会社を立ち上げる。その後ろ盾となる組の親分が風間だ。今日一日で何度頭を下げたかわからない。
「さすがに疲れましたね」
 ビジネスホテルのベッドで、俺の横に身を横たえる立華さんが苦笑した。
「……クソヤクザが、偉そうにしやがって」
「これからお世話になるビジネスパートナーですよ。そんな言い方をしてはいけません」
 白い額に一房かかる黒髪を、指でかき撫でてやる。
「ビジネスパートナー?俺にとっちゃ兄貴にたかる蝿だ」
「蝿ですか。なら私は、彼ら好みの腐った桃といった所ですね」
「……」
「冗談ですよ」
「兄貴の冗談は笑えねえんだ……」
「……ふふ。でも、貴方が一緒でよかった」
「ん?」
「一人では、まともにあの場に立てたかどうか……。足がすくんでいたかもしれません。私もまだまだ、度胸が足りませんね」
 肩を竦めて笑ってみせる、上目遣いが切なげだ。珍しく、俺に甘えているようだった。
 今すぐにでも服を剥ぎ取り、その身も心も慰めてやりたい所だが、明日も早い事を思い出し、ぐっとこらえる。
 うなじに手を回し、胸元へと顔を引き寄せた。
「……後でたっぷり礼はいただきますよ」
「……ええ。貴方の好きなだけ、どうぞ」
 されるがまま、俺の腕にすっぽり収まる体が愛しい。
 疲労と、それを上回る深い安堵に、俺はやがて目を瞑った。



【シャンプー】

 広い浴室で、バスタブに浸かる立華さんの髪を洗う。神聖な儀式のようで、緊張が伴う行為だ。
 仕事が立て込んでくると立華さんのマンションに泊まり込む事は珍しくなく、そんな時は俺が立華さんの髪を洗うと決めていた。最初はごねた立華さんも今はこうして素直に身を任せてくれているのだから、信頼されているのだと思う。
「何もこんな事までやらなくてもと思いましたが……すっかり習慣になってしまいましたね」
「自分で洗うより楽でしょう?」
「ええ。それに、髪を触られるのは気持ちがいいですね」
「そう、ですか」
「尾田さんだからでしょうか」
「……口説いてるんですか、それは」
「感謝を伝えたかっただけですよ。深読みは無用です」
 感情が全く読めない声に、知らず苦笑う。
 ……指越しに不純な想いが全部伝わってしまえばいいのにと願うしかなかった。



【鎮痛剤】

 窓の外は、街のネオンを滲ませるほどの雨模様。
 こんな雨の日は決まって、傷が疼く。
 デスクに身を凭れながら、今夜は少し強めの鎮痛剤を使おうかと考えていた時、執務室の扉が少々乱暴に開けられた。
「社長。大丈夫ですか」
「……尾田さん。ここは社長室なんですから、ノックくらいはして欲しいですね」
「すいません。酷い雨なんで、心配になっちまって」
「私の事が?」
「他に何があるって言うんです?顔色、悪いですよ」
 目の前に迫って来たのは些か険しい顔だ。私の事になると、尾田さんは自分の事以上に神経質になる。
 何もかもお見通しの手が、私の汗ばんだ顔に無遠慮に触れた。
「部屋まで送りますから」
「……優しいんですね」
「お節介なだけですよ」

 彼の大きくて無骨な掌に包まれる感覚は、不思議と安心する。
 鉛のような痛みが、少し和らいだ気がした。



【舐める】

「立華さん……ほんと肌、白いですね」
「……もう。気にしてるんですからやめて下さい」
「それにスベスベで柔らかいし、食ったら美味そうだ」
「あっ、そんなに舐められたら……」
「ここ、好きなんですか?」
「思い出してしまいますね……」
「……へえ。誰を、です?」
「昔、シャオ……妹が子犬を拾って来てね。どうしても飼うと聞かないので、厳しい両親もとうとう根負けしたんです」
「……な、なるほど?」
「でも実際は私にばかり懐いてきて……寝る時も私の顔や首をずっと舐めてくるので、妹が怒っていましたね」
「……つまり、俺とかぶってるのって」
「犬です」
「犬」
「……あ。お利口で、可愛らしい顔をしていましたよ。呼んだらすぐ走ってきますし」
「そういうフォローは要らないですよ……」



【代用品】

「煙草、辞めたんですね」
 もう何日も空の灰皿を見て、立華さんは複雑そうに眉をすがめた。
「まあ、ね。立華さんの前で吸う訳にはいかないでしょ」
「そんな。気にしすぎです」
「いいんですよ。いつかは辞めようと思ってたし。けど吸えないとやっぱり、寂しいんですよねえ……口が」
 わざと含みのある声を出すと、立華さんは少し考える顔をした。
「……あの。代わりになるかは分かりませんが、ちょっと目を閉じててください」
 心臓が、微かに跳ねた。
「……こうですか?」
 真っ暗な視界で、唇にぴたりと何かが当たる。柔らかいものを期待したが、口の中に入ってきたのは物凄く硬いプラスチックだった。
「これは……」
「禁煙パイポです。最近流行ってるでしょう?あなたのためにたくさん買ってきましたから、これから頑張って下さいね」
「……嬉しくて涙が出そうです」



【されど嫉妬】

 さっきまで書類が広がっていたデスクには、今は立華さんが上半身をうつ伏せている。それを押さえつけて背後から犯しているのが俺だ。
 ベッドでは俺を宥めるように受け入れてくれる立華さんが、デスクにしがみついて、揺さぶる度に短い悲鳴をあげる姿は新鮮だ。
「立華さん、いつもより……よさそうだ。こういうトコでされるの好きなんですね」
「んっ……そんなに、私を、屈服させたいんですか」
「わかってほしいだけですよ。俺はその辺のつまんねえ女より、よっぽど嫉妬深いってこと」
 こんなのガキの駄々と変わらない。わかっていてもどうしようもないのが、この単純な頭と下半身だ。
「……あなたを怒らせるのは、危険ですね……もう少し、飼い方を考えないと」
「……」
 乱れた前髪の奥でどんな目をしているのかわからなかったが、その唇はガキの我儘をたしなめるように柔らかくつり上がっていた。



【たまにはいいですよね?】

「社長、もう我慢できないですよ……俺がやりますから」
「駄目ですよ……尾田さんは見てて下さい。今日は私がやるって言いましたよね?」
「んな事言っても…社長にこんな事させられねえっつーか……」
「いつも貴方にしてもらってますから、たまには、いいでしょう?」
「ええ?あ、ああ……いや、やっぱり駄目ですよ、そこに入れんのはさすがにヤバイって……」
「尾田さん……焦らなくても、ちゃんと入れてあげますから」
「本当、待っ……これ以上は」
「大丈夫ですよ、私に身を委ねて下さい……ね?」
「いやっ、ちょっ、社長!ああああ!!」

(ガッシャーーーン)

立華「……そういう訳で、買ったばかりの車でバック駐車しそこねて、コンビニに突っ込んでしまいました」
尾田「悪いけど俺、鎖骨折れてるからさ。集金は一人で行ってきてくんねーかな桐生くん」
桐生「アンタ達は何をやってるんだ」



【上書き・前】

 社長室で一日の報告を終えると、普段なら労いの言葉がかけられる所だが今日は違った。
「尾田さん。貴方に言いたい事があります」
「何です?」
「その服装です。やはりビジネスには相応しくない。せめてネクタイくらいは締めてもらわないと」
 心なしか、声の温度が低い。
「ネクタイねえ……お客さんの中には喧嘩っ早い方もいますから、掴まれると困るんですよ」
「なるほど」
 立華さんが左手を伸ばし、俺のゴールドのネックレスに指を引っ掛けた。
「こんなものをぶら下げていては、掴んでくれと言っているようなものですが」
「あ、の……」
「……明日からは、節度ある身だしなみをお願いします」

 ……俺はこの人がこんなに怒りを露わにしている理由がわからなかった。
 動揺を鎮めるためにトイレに入り、鏡に映った自分の胸元に、キスマークがべったりと張り付いているのを見るまでは。



【上書き・後】

「本当に、すみませんでした」
「……」
 数分前退出したばかりの社長室。立華さんは俺に背中を向けたまま、窓に広がる夜景を見つめていた。
「でも本気じゃないんです、金払ってたったの一回だけ」
「私も男ですから、気持ちはわかります。忙しさにかまけて貴方に寂しい思いをさせた事は、申し訳ないと思っています」
「……」
「こっちに来て下さい」
 呼ばれるまま、背後に近づく。ぐるりと振り向いた体が一瞬で間合いを詰め、胸ぐらをしかと掴まれた。
「!」
 俺の胸に顔を寄せ、立華さんが思いっきり噛み付いてきた。
「いって……!」
 痺れるような痛みの後、
「……これで消えましたね」
 豹のような目つきと、唇を舐める赤い舌。逃げられない牙に捕らえられた心地がした。

 ……今度は鏡で見なくてもわかる。俺の胸元には、とんでもなく派手なキスマークがつけられたんだと。



【本当は、世界中の誰より。】

 出会い方は、決して穏やかなものではありませんでしたね。
 肩がぶつかっただけで因縁をつけてきた貴方は、きっと私のことを取るに足らない青瓢箪だと思ったんでしょう。私も、貴方を見かけ通りに血の気が多くて野蛮な人だと思いましたよ。
 その後、私に叩きのめされた貴方が「兄貴になって欲しい」なんて頭を下げて来た時は、気性の荒さに加えて被虐趣味まであるのかと呆れてしまいました。

 貴方には「敬語なんて使わなくていい」とごねられたんですが、私はそちらの方が不得手でした。
 日本語には他者を敬い、人間関係の基本となる敬語がある事を母に教えられていました。だから日本に来てからは、ひたすらに敬語だけを学んできました。
 「兄貴らしい」と笑う貴方が、それからきちんとした敬語を使うようになったのは、私の真似をして、こっそり勉強していたんでしょうか?

 この右手を引きかえに貴方の命を救ったのも、貴方が私のような何も持たない人間を慕ってくれたからです。
 貴方は子供みたいに涙を流して、私にすがりつき謝り続けていましたね。
 今でも覚えています。貴方の腕は暖かくて、涙は透明な宝石みたいに、冷たくて綺麗でした。

 あれから二年が経ちました。
 私は強く感じます。貴方がもう、私の事をただの青瓢箪でもなく、兄弟分としても見ていない事を。
 私も、貴方の事をただの野蛮な男でもなく、ましてや兄弟分でもないと思っています。
 貴方が好きです。男性であるという垣根を壊して、貴方を手に入れたくなってしまいました。
 車から降りる時に手を取ってくれる瞬間、商談の前にネクタイを締め直してくれる瞬間、貴方に感謝と恋慕の意味を込めて口づけをしたい。
 そして、夜が来れば貴方の力強い腕で私を抱いて欲しいと、そう思いました。

 貴方にそれを伝える事が出来なくなった今、私は後悔と共に、貴方との甘い関係が美しい夢のまま終わった事を、ある意味幸せだと思いました。
 欲しいものを手に入れる幸せより、こんな風に引き裂かれる苦しみを恐れて、私はとうとう言えなかった。きっと、貴方もそうだったんでしょう。
 けれど、これだけは知りたい。貴方が頑なに口を噤んでいた真実を。私に伝えてくれなかったのは私への愛情だけではない事を、私は随分前から気付いていましたから。

 ただ。どんな事を言われても、それが許しがたいものであっても、私が貴方を愛おしく思う気持ちは変わらないでしょう。
 貴方のおかげで、私はこんなに脆く、生臭い人間になれたんです。
 あの出会いの日、貴方との勝負に負けたのは、きっと私の方だったんでしょうね。