【誓い立て】

 多分に漏れず、「初めて」はいいものではなかった。
 誰にも触られなかった場所をこじ開けられるのは、殴られるより鈍い痛みと違和感、そして強い羞恥を伴う行為だった。
 ぎこちない私とは裏腹に、彼はただ腰を動かすことに夢中だ。
 私の体をベッドに押さえつけ、上から伸し掛かり荒い息を吐きながら犯してくる彼を、初めて怖いと思った。
 熱は体の中に入ると一層大きく感じ、それが内臓を押し上げるようにせり上がっては、全てを持っていくようにぎりぎりの場所まで引き抜かれる。
 その繰り返しで、突き上げられる度に喉が突っ張り、何度も意識が霞んだ。

 本当は逃げることもできたはずなのに、私はそれをしなかった。
 ……この体で彼を満足させるのが、痛くても、決して不愉快ではないと少しずつ感づいたからだ。
 私の手はふらふらと、彼の汗ばんだ広い背に這う。
 いつかこのけだものを翻弄してやろうと、密かな意思を爪の先に尖らせた。



【飯テロ】

 利き手ではない左手が、重い銀の箸を器用に構えた。網の上で脂を沸き立たせるカルビをつまみ、美女の手を取るように優しく拾い上げる。
 まだ赤みを残した肉は涙のように肉汁を滴らせながら、開かれた唇の合間にそっと滑り込んだ。
 数度の咀嚼の間、唇を微かに濡らす脂から目を反らせない。視界に靄のようにかかる煙が邪魔で仕方がない。
 しかし唇より更に赤い舌が、ぺろりと唇の上を這って脂を舐めとる瞬間を見逃さなかった。
 肉の焼ける音、客の談笑、歌謡曲がごったがえす店内だが、その淫らな舌があげた音は俺の耳にだけはっきりと聞こえてきた。
 ああ、この光景はすごく……。

「……どうしました?何見てるんです、さっきから」
「いや、美味そうだなって」
「おかしな人ですね。遠慮しないで、食べればいいじゃないですか」

 食いてえよ、できるなら。今すぐに。



【亜細亜街の夜】

 キングサイズのベッドに横たわる白いワイシャツが、電燈に照らされ卑猥なピンク色に染まっていた。
 その傍に腰掛けて、俺は腕時計に目を落とす。午前0時を回った所だった。

 ――亜細亜街で夜を明かすのは珍しい事じゃない。立華さんの調子が悪い時はいつでも医者を頼れるように、馴染みの福建人が経営するラブホテルの一室を常に空けていた。
 生憎、替えのシャツは俺の物しかなく、俺より細身の立華さんにはオーバーサイズだ。右腕は義肢を外していて、シャツの肘から先がぺしゃりとへこみ、シーツの上で平たく波打っていた。
「寝られそうです?先生の所、行かなくても平気ですか」
「……ええ。大丈夫です。病室は薬臭くて、かえって気分が落ち着きません」
 ……この部屋にもイランイランのセクシーな香りが充満していて、ある意味落ち着かないのだが。これでも病室の何とも言えない辛気臭さよりは、いくらかマシなのかも知れない。
「それより、尾田さん。いいんですか?私なんかに構っていても。こういう部屋で、他にあなたを待ってる人がいるのでは?」
 こんな時まで冗談を言って、俺から苦笑を引き出してくる。俺がこの人の事で、気を落としているのがわかったのだろう。
 俺に自由を奪われながら、それでも傍に繋ぎ止めてくれる立華さんが、憐れで、愛しくて仕方がなかった。
 背を屈めて、その横顔に手を伸ばす。ほくろが並ぶ白い頬を、いやらしい色の照明から守るように掌で包んだ。
「何処にも行きませんよ。俺はあんたの為に生きて、あんたのために死ぬだけだ」
「……病人の前で、簡単に生き死にを口にするものではありませんよ」
 それは咎めるような声ではなく、自分のために死ぬなどと言う俺をたしなめているようだった。

 なけなしの忠誠を込めて、滑らかな額に口づけを落とした。
「……」
 俺の髪をゆっくり撫で返す掌は、忠誠に隠した情慾を全て見透かすように、ただひたすらに優しかった。



【負け戦】

「今日一日で、随分男前が上がりましたね」
 その言葉で、切れた目尻や頬の内側が思い出したようにじくじくと疼き出す。
 裸の肩にシャツを引っ掛けた立華さんは、泥だらけで帰ってきた子供を見る母親の顔だ。このベッドでさっきまで、散々痴態を晒していた癖に。
「……あの野郎、無茶苦茶やりやがって」
「貴方も相当、無茶苦茶してましたよ」
「俺は桐生に安目を売りたくなかっただけですよ。あんな若造に舐められちゃ、おしまいですから」
 言いながら、目の前の黒髪に手を伸ばす。
「それに……わかってますよね、立華さん。余所者が気安く入れるようなもんじゃないでしょう?俺らの世界は」
 恨みがましいと思ったが、言葉にはいくつかの意味を込めた。乱れた髪を梳き、そのまま指をずらして首筋の赤い痕を撫でると、
「……さあ、どうでしょう。貴方が見た目の割に女々しい人だという事は、今日よくわかりましたけど」
 柔らかな微笑に、呆気なく跳ね返された。
「……チッ」
 ……体は美味でも、その心を食うことは難しい。それがまた面白いのだが。



【蠱惑】

 一人掛けのソファに座り、彼は膝の上で組んだ自分の指をいつまでもつまらなそうに見ていた。
「まだ拗ねてるんですか?」
 彼が押し殺す感情をわざと子供じみた表現で揶揄するが、その背中に反応はない。私の問いかけを無視するなんて、余程怒り心頭のようだ。
 後ろからそっと歩み寄り、背を屈めて広い肩口に顔を寄せた。
「聞こえませんか?……なら、この耳は要りませんね」
 耳の軟骨を舐めると、体が僅かに跳ねる。そのまま耳朶を穿ったピアスにカチリと歯を立て、舌で弄んだ。ダイヤはこんな味がするのかとほくそ笑む。
「ちょっ、と……」
 私の頬と彼の首筋がぴたりと重なり、彼の苛立つような、衝動を抑えるような焦れた声が肌を通じて伝わった。

 こんなに悪戯心が刺激される人間を、彼以外に私は知らない。
「私がどれほど貴方に執着しているか、教えてあげます」
 きっとこの先も現れる事はないだろう。



【噛み痕】

 最中に「首を噛んで欲しい」と言われた。
 他の誰を地獄に突き落としてもこの人だけは傷つけまいと思っていたが、そんな誓いも、頬擦りつきの懇願の前では呆気なく崩壊する。
 俺は言葉を知らない怪物のように、その滑らかな喉に噛み付いた。
 肌は甘く、体は熱く、白い首を仰け反らせて媚態を見せつけながらも俺にすがりつこうとはしない。
 横を向きシーツを口元に手繰り寄せ、ひたすら布を噛んで耐えるその姿に、封じ込んでいた醜い嗜虐心が堰を切ったように燃え上がる。
 今までにないくらい乱暴にしながら、欲しいままに肌を汚し、渇きを潤した。

 情痕と呼ぶには痛ましい噛み痕を拵えた肌は、嵐の余韻に赤らんでいた。
「……最近、薬が増えたせいか。痛みに鈍感になってきてるんです」
(だから俺にこんなことをして欲しかった?)
「そっちの方が、生きやすいのかも知れませんがね」
 責めるでもなく、諦めたような気怠い目つきが脳に甘く突き刺さる。
「……ねえ、もう一回しませんか?」

 認めてもいいだろうか。
 この人の命は俺の手の中にある。そんな馬鹿馬鹿しい錯覚を、一瞬でも起こしてしまったことを。



【指と舌と、】

 デスクに腰掛ける立華さんの姿は何とも優雅だった。更にその手が俺の指を丹念に舐める光景は、刺激的過ぎて眩暈すら誘う。
 ぬるぬると指の股をくすぐる舌に目を奪われて、まばたきの暇さえ勿体ない。
 じっくり舐めた後にその口はひゅっと息を吸い、唾液に濡れた皮膚が一瞬冷える。再び吐かれた息は、同じ唇から出たものとは思えないほど熱くとろけていた。
 指からわずかに口を離して、俺を見る上目遣いが甘く突き刺さった。
「……まだ、痛いですか?」
「や……痛いっつーか…」
 ……書類の端で、指を軽く切っただけだ。それだけでここまで構われると、単純に興奮してしまう。
 既に口の中は干上がり、腰がざわついていた。その舌でもっと熱いものを舐めてほしい。挑発的な体を押し倒して、隅々まで貪りたい。
 正直な欲望が腹の下でだんだんと形を表してくる。
 立華さんの視線がそこに移動して、興味深い生き物を見るように目を細めた。
「ああ……こんな所で。本当に困った人ですね」
「……その言葉、そのままお返ししますよ」
 つとめて柔らかく、その手を押し退けた。
 脇と膝にグイと腕を回して、座っていた机から体を拾い上げる。あっという間に横抱きにされた立華さんは、少しだけ驚いたように目を開いた。
「……どこに連れて行くつもりですか?」
「決まってるでしょ?ものすごくイイ所ですよ」
 奥のベッドルームまで、約10メートルだ。それが、俺が正気を保てる限界の距離。
 しなやかな腕が首に回る。俺の頰に押し当てられた唇は、にやりと笑う形をしていた。
「……それは楽しみです。おかしくなるまで、帰さないで下さいね」
 正気のリミットが更に縮まろうとするのを、微笑の奥に無理やり押し込めた。



【揺籃曲】

 シーツの海の上で向かい合い、俺は立華さんの腕に体を包まれていた。
 熱っぽい声で俺の名前を呼んでいた喉は、今は水のように穏やかな音で子守唄を歌っている。
 この人が滅多に口にしない、故郷の言葉だった。
『眠れ、私のかわいい貴方』
『貴方のために、白樺の木でゆりかごを作ってあげる』
『虎が来ても狼が来ても、怖くないように』
 そんな歌だ。子守唄なんて物心ついてからはすっかり忘れてしまい、聞いた事のある歌なのかはわからない。しかし、今までに聞いた事がないくらい優しい歌だというのはよくわかった。
 時々声を掠れさせながら、俺の背中に一定のリズムで、羽根が触れる程の優しさで掌を当てるのが心地いい。
 目蓋が段々と、重くなっていく。

 ……獣のように熱を求めた夜は、血の夢をよく見る。
 だが、今夜はきっと違う。覚めるのが怖くなる程、甘い夢に溺れて眠れるはずだ。



【けだもののなみだ】

 酷い雨の夜だった。俺はこの人を初めて抱いた。
 押し殺してきた衝動は余りに凶暴で、この人をここから食ってしまいそうだ。
 きっと、たまらなく痛いに違いない。しかしそれを訴えずに、俺がやりたいようにその身を任せてくれる。どこまでも優しい人だと、全身で痛感した。
 肌の奥をこじあけて、そのまま深く、繋がる。立華さんは熱く湿った呼吸を何度も吐き、汗に濡れた顔を切なく歪ませた。背中に回った手に、ぎゅっと力がこもる。皮膚にくい込む硬い爪が、感覚を更に研ぎ澄ませてくれる。
「立華さん、……」
 俺はようやく、この人の最も奥にある熱に触れる事が出来た。それがたまらなく嬉しくて、
「……っ」
 喉の奥がきゅっと引き攣り、眼窩が燃えるように熱くなる。一つ、二つ、零れた涙が、下敷いた立華さんの頰にぽたぽたと落ちていく。
「尾田、さん……?」
「ははっ……俺、何で泣いてんだろ…」
 笑って誤魔化しても、止まらない。立華さんは両手で俺の頬を包み、指先で涙を拭ってくれた。
「……泣いてください、私の前で、だけ。あなたの体も、涙も、全部私の、ものですから」

 酷い雨の夜だった。俺はこの人の体を抱き、この人は俺の心を抱いた。