「梶ちゃん。悪いんだけど、ちょっと迎えに来てくれないかな」
電話口の声が少しだけ影を含んでいる、それに気づいた僕は、気づいているのを敢えて気づかれないようにしなければと思った。何故かはわからない、が。
「いいですけど…貘さん今何処にいるんですか」
「うん、えっとね…」
貘さんの声に重なる、雨音を纏って轟く雷鳴。
屋内にいても、腹にまで響く稲妻の音がさして長くもない気をいたずらに急かす、嵐の夜だった。
呼ばれたのは僕も良く知っているコンビニだった。
近くまで行くと、他人と見間違う筈もない容姿の持ち主が、屋根の下で携帯をちらちら見ながら手持ち無沙汰に突っ立っている。
貘さんがコンビニにいるという風景はあまり似合わないなと思いながらも、近づく僕に気付くなり嬉しそうに片手を上げるので、思わずほっとする。
しかし、僕には貘さんと顔を合わせたならばまず始めに突っ込んでおくべき事があった。
「ごめんねー、夜中に呼び出しちゃって」
「あの、貘さん…迎えも何も、めちゃくちゃ近いじゃないですか」
「え?」
僕の突っ込みを受けて、貘さんは不思議そうに僕の顔と、100メートルと離れていないビルの間に見える僕らのホテルを交互に見た。
その間にも、遠くでおどろおどろしい音が鳴っている。
「だって……危ないから」
普通に正論だったが、十分に反論の余地はあった。
「それなら、タクシー呼べばいいんじゃ…」
「いや、それは勿体ないでしょ」
「……」
微笑すら浮かべた気さくな表情からにべもない言葉が返って来て、黙らざるを得なくなる。
自分が無賃で出動させられた事への憂いと、この人に「勿体ない」というまともな経済観念があった事への驚きが同時に出たが、僕はやはり、気づいた。
今日の貘さんは、何だかいつもと違う。
雨脚が弱まるまで、と傘をたたんで僕と貘さんと自販機2台、並んで雨宿りをする格好になる。
僕の隣で貘さんは腕時計を見ながら「そろそろ日付変わるなぁ」と呟いて、一向に隙間を見せない厚い雲へ上目を送った。
肩を軽く揺すったり、靴先をトントン鳴らしたり、せわしない。
僕は何となく、貘さんの調子が違う理由を推察できた気がした。
「あの、貘さん」
「…何?」
いっそ論破されないように黙っていようと思ったが、我慢しようと思うほど、言わずにはいられなくなる。
うずうずと、悪戯心に近いものが僕の腹から喉へせり上がって止めようがなかった。
「貘さんって、もしかして…雷、怖いんですか」
「…は?」
若干の間を置いて、僕を見る目が大きく開かれた。
余程意外だったのか、それとも意外を装ったのか、眉の浮き方がわざとらしい。
……やはり、そうだ。
僕はしばらくここで様子を見ていて、貘さんの顔が時折、若干だが引き攣っているのは知っていた。
そしてようやく、そのタイミングがわかった。
何か待ちたくないものを待つような苛立たしい態度。
そして遠くでも近くでも、空に雷の音が鳴り響くたびに、貘さんのその焦りのある動きが、蛇にでも睨まれた様にぴたりと止まるのだ。
……僕の知るこの人は、勝負の世界では一部の隙も晒す事なく、寧ろ生まれ出る隙さえ戦略に組み込み、場を、相手を翻弄してゆく人だった。
他人に動揺を見せる事がないからこそ、ほんの少しでもそれがちらつくと、僕はそこへどうしても意地悪に、手を伸ばしたくなってしまうのだ。
「…俺が、雷なんかにビビってるって言いたいの?」
「そうですよ。もう…最初から言ってくれたらいいいのに…わざわざ電話してくるから、何かあったんじゃないかって心配したんですよ」
心外、とでも言いたげに首を振って、貘さんは唇の片方を余計に吊りあげた。
「や、あのさぁ…俺だって子供じゃないんだから。雷にビビるなんて、そんな、なっさけない事あ」
その瞬間、視界が眩く二度、真っ白に点滅した。
続いて、この世を真っ二つに引き裂くような轟音が鳴り響く。
これは、落ちたな。
唇を「あ」の形に開いて固まっていた貘さんだったが、音が鳴り止み素を取り戻したのか、取り繕うように僕から目線を反らした。
「…る訳、ないじゃん」
「……」
「……」
お互いしばらく無言で雨景色を眺めていたが、この雨は一時的なものではなさそうだ。気休めに携帯で調べた天気予報も、明け方までは大雨が続くという文言が淡々と打たれている。
僕は沈黙を自然に破るため、なるべくさりげない風で、提案した。
「…このまま待ってても止みそうにないから、ぱぱっと帰っちゃいません?マルコも一人でずっと留守番は可哀想だし」
「……うん」
再び傘をさして、土砂降りの中へ一歩踏み出した。
地面の代わりに雨に打たれる感覚を、傘越しに痛く、冷たいと思った。
「梶ちゃん、俺も!」
貘さんが言うと同時に僕の隣にくっついた。
自分の傘は脇に抱えたままで、僕の腕にぎゅっとしがみついてくるので、思わず腹から変な声が出て体も微妙に反ってしまう。
「ぐわっ!…な、何ですか、もう」
「いいじゃん、俺は雷様が怖くてたまらない臆病者なんだよ。同情するならこれで俺の不安を解消してよね」
完全に開き直っている。
「…じゃあ、着いたら一緒に風呂入ってくださいよ」
「もちろん」
「え?」
「ついでに梶ちゃんの好きな事もしてあげようかな」
「え!?」
「俺、梶ちゃんにだけは借りを作りたくないんだよね」
「…それは、素直に喜んでいいんでしょうか…」
横殴りの雨に叩かれて、たった一つの傘では大して意味を成さない、嵐の夜だった。
僕はもっと色んな事を囁いてみたかったが、どうせ雨音にかき消されて聞こえはしないだろうと、唇を噛む。
100メートルもない帰り道が、今は夢のように甘く歯痒いものに思えた。