「相沢。悪いがお前を担ぐのは今日で終わりだ」
「……え?」

 都会の喧騒を見降ろすホテルの一室で、相沢は俄かには受け入れがたいその言葉に、喉が乾きあがる感覚を覚えた。
「今、なんて」
「この計画から降りろって言ったんだ。安心しろ、黒澤さんには、俺の方から話をつけておく」
 ソファに腰掛け、開いた膝の上で軽く指を組んだ森永が淡々と答えた。
 相沢は彼の傍に佇んだまま、呆然となる。
 森永の俯きがちの顔に、冗談を言っている風は感じられない。むしろ森永は普段から冗談が利かない類の人間として有名だった。シャツとスラックスを纏った少し緩みのある格好で、普段撫でつけた髪は額にかかり、何処か無防備だ。間接照明の淡い光に照らし出された横顔は、一見で極道者とは思えない程静かで虚無的な香りを漂わせていた。
「一体、どういう、事ですか」
「……」
 森永はすぐに答えず、ガラステーブルの上から煙草を取り、箱を縦に揺らして一本を咥える。本来ならばすぐに跪き、彼の煙草に火をつけねばならない。しかしそんな常識すら失念し、森永を見降ろしたまま指の一本すら動かせずにいた。
 こちらの動揺は予想の上だったらしく、森永は特に咎める事もなく己の懐からライターを取り、ゆっくりと火をつける。軽く吸ったひと口を細い紫煙に変えた後、ようやく口を開いた。
「桐生一馬。さすが四代目を背負うだけの事はある。並みのタマじゃない。あの青山さんの兵隊にたった一人で太刀打ちするんだからな。正直俺もゾッとしたよ」
「……」

 話の大筋は、自分も先程耳に入れたばかりだ。
 堂島大吾の失踪に東城会が揺れる最中、六代目の椅子をはやる青山と、元四代目として大吾を担いできた桐生は、福岡の地で真正面から対立した。
 結果は青山の敗北。圧倒的な戦力差を覆した桐生の前に、面子を丸々潰された青山は自棄を起こし、他言無用である黒澤の存在を暴露しようとした。何とも愚かな行為だった。結果、目の前の森永によって青山の口は永遠に封じられてしまった。
 青山の失態は許されるべきではない。しかしここにきて、森永一人の判断で計画が捻じ曲げられてしまうのは、相沢にはどうしても解せない事だった。
「目の前で見て改めてわかった。桐生は東城会の伝説だ。名実共にな。そして今の俺達にとって、あいつの存在は脅威でしかない」
「んな事はわかってます!だから俺は桐生を倒して、力で東城会の頂点に立つ……そう決めたんだ。兄貴だって、俺の力を認めてくれたじゃないですか」
 こちらを見る森永の目つきが鋭くなった。
「いいか相沢、これはお前のためじゃない。黒澤さんのためだ。どこの世界に、可愛い息子の亡骸を見て喜ぶ親がいると思う」
「!」
 見えない物に胸を掴まれ威圧される心地がして、顔が引き攣るのをぐっと噛みしめた。
 ……何を言っているのだ、この人は。
「それじゃ、俺が、まるで……」
「そうだ、相沢。お前には、桐生一馬を超える事はできないんだよ」
「……」
 腹の奥に、言いようのない衝撃が走った。
 森永は座ったまま続ける。
「負けると分かってる戦いで犬死にして、一体何が残るんだ?黒澤さんの事を考えろ。あの体で動き回ってるのが不思議なくらいだ。お前を成り上がらせるために、残り少ない命、削ってるんだよ。わかるか?」
「……」
「お前と桐生をまともにやり合わせるつもりはない。俺は黒澤さんにだけは、気の毒な思いはさせたくないんだ。今までの義理が全部台無しになっちまうだろうが」
 言いながら、煙草をガラスの灰皿に押し付ける。唇は美味いものを吸ったにしては苦々しく歪んでいた。
「六代目の坊っちゃんも、未だ行方知れずときた。これ以上計算外の事態が起こるとますます動きづらくなる。今俺達にできる事は、きっちり足場を固めて、東城会を手に入れるための別の方法を考える、それだけだ」
「兄貴……」
「冷静になれよ、相沢。お前が弱いんじゃない。桐生が特別なだけなんだ」

(……結局、この人も同じか。)
 思考が凍りつき、こめかみからすっと血が引くのを感じた。
 心のどこかで、森永だけは他の人間と違うのだと思っていたが、どうやらそれは自分の迷妄だったようだ。
 相沢は深く息をついた。吐き出したのは嘆き、諦観、それを上回る嘲りの息だった。
「残念ですよ、兄貴」
「何?」
「そんなに偉いんですか。血筋が、親父が、自分より格上の人間が」
「……」
 言いながら、ゆっくりと足を踏み出す。
「俺はね、生まれた時から、格がどうだとか血筋がどうだとか、そんなもんにはウンザリしてるんですよ」
 森永の姿から少しも目を逸らす事なく、森永が腰掛けるソファの後ろを歩いた。野獣が獲物を補食の圏内にとらえるようにじりじりと。
「周りの連中だって、どいつもこいつも親父のご機嫌取りに必死な奴らばっかりだ。全く、昭和臭くてたまらねぇ。反吐が出そうです」
「……相沢」
 つとめて静かな声で、森永が諌める。
「それが組織だ。膨れあがった力を一箇所に収めるにはデカい基盤が要る。手前の小さい物差しで測れるような物じゃないんだ」
「……」
「何のために不味い盃飲んで東城会に入ったんだ?お前がいなきゃこの絵図は完成しないんだ。小さい事に苛立ってる場合じゃないだろうが」
 思慕していた森永の言葉は、今は少しも胸に響かない。
 革張りのソファの背にすっと手を這わせ、触れる程の至近距離に迫り、なお座ったままの森永に向かって呟いた。
「アンタも同じだ」
「……」
「親父が白いと言えば、黒いカラスも白に塗り潰すんでしょう。どう考えてもおかしいのに、はみ出して叱られんのが怖いからだ」
 森永の後ろ姿は、静かだった。容易く揺らぐ事がない、その水のような冷静さに、相沢は心底惚れていた。しかし、今はその落ち着き払った背中が、ただひたすらに苛立たしかった。
「俺にはわかりますよ。そうやってさんざん媚びへつらって、最後に青山以上にろくでもねぇ死に様を晒すのは……きっとアンタみたいな人なんでしょうね、森永さん」
 言いながら、自分の腕はするりと懐に伸びていた。
「!!」
 次の瞬間森永に差し向けたのは、ライターの火ではなかった。
 只ならぬ気を察して森永が肩越しに振り返るが、それは余りに遅すぎる反応だった。
 自分の手の中でひるがえした刀子が、森永の肩に突き刺さる。
「ぐ、っ……!」
 体勢を崩した森永に、ソファをまたぎ、上から伸しかかる。そのままソファに押し倒す格好になり、馬乗りの体勢で更に深くへ刀身を押し込む。
「う、ぁっ……ぐ、」
 吸い込まれるように刃は肉に食い込み、そこから染み出る生々しい血のにおいがたちまち鼻をつく。森永は呻きながらこちらの手を掴み、抵抗を試みるが、真上からの重圧を押し返す事は不可能に近い。
「っ相沢……!!」
 まるで信じられない物を見る形相だったが、やはり簡単には諦めてくれない。
 横のテーブルに手を伸ばし、森永はこちらを睨みながら吸い殻が溜まったガラスの灰皿を掴む。黒い灰を巻き上げながら、灰皿が唸りをあげてこちらの頭を狙ってくるが、それも予想の範囲の動きだった。
 森永の腕ごと掴みテーブルの縁に叩きつけると、簡単に手から離れた円形の灰皿はゴロゴロと床を転がり、向かいのソファの下が作る暗闇に消えた。
 森永の腕力も並大抵ではないが、自分との間には決定的な体格差が存在する。最早どんな抵抗をしても、自分の前では無駄な行為にしかならない。
「兄貴は不用心ですね。こんな時にヤッパの一つも持たねぇなんて」
「お前……自分が何やってるのか、わかってんのか!」
「俺がこんな事するような奴じゃないって?」
 刃を抜くと、絨毯よりも赤い血が跳ね上がり、森永の顔、肌、シャツに細かく飛び散った。
 その焼けるような赤さに反し、森永の顔面は蒼白だった。髪が張り付いた額は汗でびっしょりと濡れ、傷を庇う事も儘ならず、ソファの縁に手をついて必死に相沢を睨み上げている。
 ……不思議だった。森永が傷つく事を、自分は誰よりも恐れていたというのに。今はどんな感情も湧きおこってはこない。
 シャツのボタンを引き千切り、素肌に手を触れた。
「……アンタには、俺が何者に見えますか」
 血と汗に濡れた肌が、荒い呼吸に応じて起伏する。
「堂島大吾の護衛、黒澤翼の息子、……桐生一馬を超えられない男」
 露わになった胸に刃先を滑らせた。
「そして、アンタの言う事になら何でも従う可愛い弟分ってとこですか」
「……っ違う、俺は」
「俺を見てくれよ、森永さん」
 髪を掴んで上を向かせた。その青ざめた顔には、今際に散らされる恐怖以上に、悲しみに似た色が浮かんでいた。
「……相、沢」
「……そうだ、アンタが最後に見るのは、親父じゃない。俺だ」
 森永の腹にぴたりとあてた刃を、相沢は今一度強く握り直す。
「アンタが悪いんですよ。俺をここまで持ち上げといて、今更見捨てるなんて酷いじゃないですか。責任、とってくださいよ」
「相沢、よせ……!」
 言いかけた森永の体が大きく跳ねる。
 腕を捻りながら深く腹を抉るのは、この男から教わった殺しの方法であった事を、相沢はふと胸のどこかで思い出した。



 静けさと生臭い鉄のにおいが立ち込めた部屋で、相沢は気怠い一服を味わった後、立ち上がり携帯電話を開いた。
「……」
 退屈な呼び出し音を聞きながら、窓辺に立つ。ガラスの向こうに浮かぶ夜景は、無数の光の墓場だと思った。
 美しくて、ひどく虚しい。


「……お疲れ様です。相沢です」
「運びたい物があるんで、ちょっと手ぇ回してくれませんか」
「そうですね、できれば、誰にも見つからないところがいい」
「お願いしますよ」

「……俺には重たくて、一人じゃどうしても、運べないんです」



 その夜から、相沢の心を締め付ける曇りは消えた。
 疎ましくも常に傍らを離れない、己の影を切り落としてしまった事に気づいたのは、気が遠くなるほど長い時間が過ぎた後だった。