これからここに記すのは、おれが血を分けたあの兄に対する怨み晴らしの一部始終である。
怨みを晴らすと言うからにはその内容についていささか見苦しい部分もあるかと思うが、どうか堪忍して頂きたい。
おれはきっとまもなく死ぬ。
その前に、おれの兄への執着がさながら物の怪のように異様であった事を、今偽りなく綴っておこうと思う。
兄というのは、大国・魏の礎を築いた曹操孟徳が子である曹丕子桓という男で、
生まれた頃から知っている、という風に文武をよくこなし、秀才なる人智で帝という座を落掌してからは益々の振る舞いをしていた。
その兄より五年遅れて生まれたおれは、兄と比べられて育った。
明日の命も知れぬ民草の慎ましき生活を思えば、遅く生まれた事への劣等感は贅沢に思えて心の内に憚っていたのだが、兄はその限りではなく、常日頃からおれの事を意識していた。
兄はあらゆる事に秀でており、その分慢心も強かった。
幼い頃は共に字を書いたり楽器を触ったりといつも遊び相手になってくれたが、背を伸ばしてゆくにつれて、兄はおれの才に感心しなくなった。またおれが才を褒められる事を非常に妬むようになった。
兄は虎の眼をした男だ。血管には競争と嫉みがどくどくと休む間もなく這い回っている。
おれにはもう三人の兄がおり、一人は父に添うて戦い討たれ、もう二人も病い等を患い没してしまったのだが、暗い考え方をすればそれは兄の未来の為の必然だったのかもしれない。
心苦しいが、考えれば考える程に真っ向の否定ができなくなる、それ程兄は心の冷たい野心家だったのだ。
そして仇敵の如く疎まれているのと同様に、俺があの兄という存在を心から畏怖しているのを兄自身もよく知っていた。
その絶対的な位置づけは当然の事であると兄は鼻を鳴らしていたし、それでいてその事をよく蔑み、お前は曹家の恥ずべき臆病者だと、貶めた。
弱いおれの事を、いつも兄は同じ目線では見てくれなかった。
いや、望めるはずもない。おれは兄のとる視界から邪魔にならないよう、遥か下の方で謹んでいなければならなかった。
如何しても覆せぬ関係で、おれがただ単純に手に余る憎しみを投げつけるが如く、後に語る行動を犯してしまったという訳ではない。
おれの兄に対する感情は決して好ましいものではなかったが、争い事が苦手な性分のおれは兄に対して牙を向ける心算はなかったし、降りかかるおぞましい嫉妬も、血と才を分け合ったが故の天命なのだと甘受していたくらいだ。
そうして全てやり過ごす事ができたならばよかったのだが、己が人間という恐ろしさをおれはまだ知らずにいた。
何も感じぬ水のように、と常に平静を保っていたおれの心には、言葉では説明しがたい無味無臭の毒の如き闇が静かに堆積していたのである。
…この兄への怨み晴らしにあたり始めに語っておきたいのは、
おれの声が低く変わり始めた、桃の季節に植えつけられた記憶である。
そこから順に、この秘密の復讐へと語りを進めていこうと思う。
それは陽光燦燦と晴れ上がった穏やかな日だった。
まだ太陽の昇りきらぬ内から、庭に人影が見えた。馬を用意し出かける支度をしている後姿は、父と兄だった。
「やあ、何処へ行かれるのです」
面白そうに談笑しているその睦まじさが羨ましく見えて、寝着のままだったがおれは庭に降りた。
父はおれを認めると少し眉を上げた。
「お前か。馬を走らせようと思うてな。」
「そうですか。…では、この植も連れて行ってはくれませんか」
「ほう、」
日頃あまり活発ではないおれが珍しくこんなことを言うものだから父は喜んだようで、次には「そうか」と、常にその眉間を谷の如く裂いた深い皺が穏やかに緩んだ。
どうやら父は遠乗りがてら鷹狩りを楽しむつもりのようで、おれの体に見合った弓と、矢の沢山詰まった皮袋を用意してくれた。
支度の後、母の心配もよそに与えられたそれを担ぎ、おれは馬に飛び乗った。
門を開けて眼前に広がった景色は、普段以上に遥々と雄大な絵巻のように思えた。
視界が少し高くなっただけではあるが、胸が透くような開放感に、わっと声が出たくらいだ。
馬上とはゆらゆら覚束ないものだと敬遠していたが、存外に気分のよいものですねと父に笑いかけたが、
ただおれが頭の中で一つ気になったのは父の隣にいる兄の事である。
兄は普段から父の前では多く物を言わず、狩場までの道中にしてもおれに対し何の言葉もやらなかったが、その何も言わぬ事がいつになく不穏に感じられた。
政務に追われる忙しい父と同じ時間を過ごせるだけで嬉しかったので、おれは心を面には出さずいつも通りに振舞ったが、
兄は無口を通したまま、機嫌よくおれにばかり話しかける父へ、時折何とも言えぬ目を向けていた。
さて狩りが始まり、おれはつくづく、自分の技量の至らなさというものにがっかりした。
わざと動きの悪い若鳥を狙うが、木々の間に矢先を巡らせば日光に目を刺され、それがちらちらと眩しく、おまけにずっと上を向いているものだから頭も痛くなり、段々と眩暈すら起こすようになった。
汗だくになったのを見兼ねてか、少し休んでいなさいと父が声をかけてくれたので、おれは木陰に寄りかかって汗を拭き、しばらく目を細めた。
体を動かして汗をかいたのは久し振りだ。嫌いではないが、まだまだ華奢なこの腕は、弓を操るのも一苦労である。
父がおれの齢の頃には、幾程の活躍をしていた事か。
すぐに自分を憂うのはおれのよくない癖の一つだったが、誰かが近づいてくる音がしたので、その方に意識を向けた。
…兄だった。
おれはどきりと胸がなるのを覚えた。きっと首尾の上がらないおれを、またいつものように馬鹿にしに来たのだろう。
「何ですか…」
「お前によいものをやろう」
目の前に突っ立った兄が無造作に取り出したものは、矢に頭を貫かれた大きな鷹だった。
「えっ」
それまでしっとりと冷えていたおれの肌にぞっと緊張が走った。
赤黒い血にまみれてぬるぬると体を光らせているそれに、もはや命の気配は感じられない。
捕らえられた首はあり得ぬ方向に曲がり、芯からぽきりとうなだれた蓮の茎を思わせた。
鳥という生き物は翼を使い自由に空を往来できる動物であるが、
哀れむべし、今となっては見る影もなく、抉られた眼窩から黄色い脳髄を垂れ流して沈黙している。
おれは息を飲んだ。
兄がしているのは、彼らからひとかけらの時間を頂戴して戯れに眠らす事ではない。
息の根を止めてそれを永遠としてしまう事。
そうかこれが、狩る、という行為なのか。
「…どうした、植よ」
何も言わぬおれに向かって兄は眉を左右で段違わせ、
「この兄が、お前にこの手柄を分け譲ってやろうというのに」
命あったものを、ぐいと押し付けてくる。
「な、何を、っ」
両手で押し返すと、兄は心外とでも言うように死骸をかざして見せる。
「これはな…皮を剥いで炙ると中々に美味だぞ」
そう言いながら兄は、持っていた短刀でその首を鮮やかに裂いた。
胴と切り離された首があらん限りの血を噴出し、まるで遊戯のように行われる行為に喉が渇きあがる心地がした。
兄との距離が詰まり、次はしっかりと手を重ねられる。
「兄上、」
それを握らされた手がべっとりと濡れた。
「受け取れ」
据えた臭いと共に、血と髄液が爪の間からこの体に侵入するようで。
「…う…。い、いりません…」
吐き気がこみ上げてくる。
「いりません…か。そうか」
兄は笑っていた。
おれが恐怖し気味悪がる様を心から可笑しく思ったのだろう。
座り込んだおれに目線を合わせるべく腰を落として、わざとらしくおれの手を握った。
「…愛しい曹植よ、お前は可憐なゆえに、命のとり方を知らぬ」
兄の声色は奇妙に優しく、手習いを教えるように穏当である。
記憶をさらえば、おそらくそれ以上の恐ろしい声をおれは知らない。
「朝廷で育った我らは毎日を心のままに過ごせる、戦わずして暮らすのも良き人生だな。しかし曹植、筆を置き、外を見よ。
今や袁王は逝った。その死体の脇から、敵が我らの寝首を掻こうと牙を研いでいるのが見えるだろう?」
動揺に震えるおれは、この薄く大きな掌に人間らしい温度があるのかないのか、そんな事も感じられずに唇を噛んで、上目でただ兄を見た。
「お前に彼奴等を一斉に殺す覚悟があるか?我らの下に暮らす民を守る覚悟、それがすなわち彼奴等を殺す覚悟だという事がわかるか?」
「……」
「今ここで、この生き物の命すら受け取れぬお前はあまりに弱く、脆い。何百万、何千万の人間の命は更に重いのだ、体一つでは足りぬ程にな」
詩を語るような口調、そして手元に沸き立つ肉臭が鼻腔を満たし煙の如く喉へからみつく。
眩暈のさす頭に、死人を下敷いて旗印を翳す兄の姿が、夢幻のように巡っていた。
「私の言う事がわかるだろう、曹植」
…お前ごとき臆病者に国は背負えぬよ。
兄の目はそう言っていた。
「……っ」
おれはこの兄を心から恐ろしいと思った。
今すぐここから逃げてしまいたいが、こんな時に限って父の姿が見えない。
それもおそらく兄のせいだ。兄は父の心をよく読み、都合よく事を動かすのが得意なのだ。
この婉曲的なやり方も、仮初の笑い顔も台詞もそうだ。おれの心を打ちのめすためなら兄は打算を惜しまない。
押し付けられたなきがらの沈黙が、無言にして怨嗟を叫んでいるようで。
…ああいつかおれも、その手の中で儚い命を握り潰されてしまうのだろうか。
目奥の窪みが引き絞られるように疼き、何も言えぬ口に変わり熱いものが溢れては流れ出し、
端正な兄の顔が歪にぼやけた。
戦乱の時代に生まれ落ちた男子が鳥獣の屍骸に心痛める事は、人様に言わせれば女々しいのだと思う。
が、この日に受けた仕打ちは如何様にしても拭えるものにはならず、おれの中に重いしこりとなって残った。
嫉妬深く陰湿な兄の嫌がらせは他にいくらもあり、それぞれおれを苦しめたが、
この出来事がおれの心の暗闇の入れ物とでも言うべきか、兄の事を思うたびにおれの頭にはあの光景が蘇り、恐怖の感情はいっそう、滴るほどに膨らんだ。
それは寝床でまどろんでいても首を絞められれば痛さに目が覚めるように、おれを捕らえて離さないとでもいうようだった。
あの春の出来事から幾年月が過ぎ、父は老い、やがて泉下の人となった。
兄は父を丁重に弔った。勿論おれも。
そして兄がおれに対してとる目線がこれからより冷ややかになるであろう事を想像した。
父が床に伏せるようになってから、いや、思えばそれより遥か昔から、次代は果たしてどちらに、と囁く声の聞こえなかった日はない。
そう。おれ達は選ばれて産まれてきたのだ、互いに互いを蹴落とそうといがみ合わねばならぬ。それは十分に判っていた。
出来うる限りそれを避けておれはここまで生きおおせた。ただあの兄と争う事が怖かったのだ。
しかしそれも最早これまで。
甘い猶予は父の死をもってついに途絶えてしまった。
間もなく、おれは屋敷を追い出され地方の役につくことになった。
勅令は受けたおれは黙って従った。
今まで左遷もせず兄がおれを扱っていたのは、ひとえに父の存在があったからだ。
父だけが軋みあうおれと兄の鎹だった。
その父のいない今となっては、あの高飛車な鼻笑で、おれが塵のように吹き飛ばされたって誰も咎めるものなどいはしない。
家を離れることになっても、兄の影に怯え続ける今の屈辱的な暮らしよりはいいと思った。
むしろあらぬ疑いをかけられて命を奪われなかっただけ、十分な僥倖といえた。
旅立ちの日はあっけなく訪れた。
最低限の調度品を持ち、数人だけの臣を侍らせ、おれは家を、否、恐るべき兄のもとを去った。
兄は勿論見送りになど来てくれなかった。
これでいいと思った。
一国を担う職とはいえども、兄はこの弟を気が遠くなるほどの場所へ追いやったのだ。もう会う事もないだろう。
おれはようやく解放されたのだ。解放されたはずなのだ。
それは悪夢から目覚め、鮮やかな恐怖が一瞬で目の前から拭われた事への安堵、そして虚脱と共に迫る一抹の不安に似ていた。
季節が巡り、六年の時が巡る。
この国にまた暖かい春が来た。
おれは従者を一人もつけず、私邸から出て数里離れた小さな緑園に来ていた。
秋のうちから目をつけていて、きっと春には素敵な事になる、と庭師を遣わせ整えていたので、兼ねてより春が来るのを楽しみにしていたのだ。
急いた心と共に踏み入れば、そこは思う通り一面の桃景色である。
色は新雪のごとき淡い白、恥じらうように色づいたもの、それから艶々と深く染まりきったもの、それらが今時を得たように美しき極彩の態を晒している。
おれはにんまりとしながら、桃の花を眺めて逍遥した。
心地よく享楽的な春の風が、甘い香りを胸に送り込んでは誘惑する。
桃の花柄は一つ一つがとても短く、喩えればたおやかなる美人が、首をきゅっとすくめて笑う様子である。
指先で触れると擽ったそうに、ふるふると揺れるのがよい。
仙人達の愛した神気の宿る果実を実らすこの花は、絹の道を通り、遥か異国にも伝えられたという。
それを思えば枝に隙間なくついてびっしりと咲き開く姿が何とも無邪気で、誇らしげではないか。
朗らかな白い陽光を受ける桃木に誘われるよう、おれは腰を降ろした。
胸の中に数多の言葉が浮かび、それらが自ずから、宿命されたように順序よく並んでゆくのが感じられる。
それに応えるよう、おれはすっと手馴染みの筆を取り出した。しかし、
「……む?」
おれは不審なものを見つけ、遠くへ目を凝らしてみた。
点かと思いきや、不意に向こう側へ馬影が現れたためだ。
そしてそれが何であるかを認めた時、おれは心の臓が止まるかと思うほど驚愕した。
(…ああ!)
口が大きく呻きそうになるのを寸での所で食い止めた。
桃のにおいが降りかかるほど咲き乱れた木々の間に馬を止めて、その人はゆっくりと顔を動かし花の景色を見渡している。
気だるく結った髪を黒い外套に垂らし、時折風にはらはらと揺れるのは雄大な鳥が翼を整える仕草に似て、
端麗だが、見る者の気負いを殺ぐ氷のように冷たい容貌が、否応なしにおれを戦慄させた。
(…何て事だ…)
その人はまさしく、おれの兄だった。
幻ではない。
そんな控えめな存在などでは決してない。
おれは震える手で筆を懐にしまい、近い木に身を隠した。
頬の内側から舌の根までが炙られるように干上がり、どくどくと胸が鳴る。
猛禽の動向を注視する弱小な動物のように、おれはじっと兄を見た。
背に大弓を携えているので、またどこぞやへ狩りを興じに来たのだろう。
桃の花びらが風に遊び、一つ二つと栗毛馬の雄雄しき鬣を不似合いに飾る。それを指で弄いながら、何か物思う顔の兄。
あの頃から何も変わってはいなかった。
都から随分と離れているのに、従者をつけている様子はない。
この緑園は殊に人を遠ざけた所にあるから、いくらかの側近は別地で馬を休ませているのかもしれないが、気まぐれな兄は昔からしばしば一人で出歩きをした。
おれが庭師を通わせていた場所だと知っての徘徊だろうか。
そんなはずもなかろうが、おれの密やかな楽しみをここに来てまた一つ、兄に奪われた心地が否めなかった。
あの別れから実に六年。
おれにとってはようやくこの身が枷を脱ぎ捨てみずみずしい生を得たような、幸せと呼べる日々であった。
しかし、兄はこの国の最も誉れ高き位に立つ人。
この大陸のどこへ行っても、おれは結局、兄の影の下でその日その日をひっそりと生きているに過ぎないのだ。
おれは何を今まで、馬鹿のように浮かれていたんだろう。
心が形を得たように重くなり、体中の血が地に吸われていくようだった。
兄はひとしきり花を楽しんだ後、桃の木伝いに茂った森へと馬を走らせて行った。
日頃好んで纏っていた香の匂いまでもが、こちらに漂ってきそうだった。
「……」
鳥のさえずりがいつの間にか止んでいる。
おれはただ下ばかりを向いていた。
考えても考えても、自分が次に何をすればよいか、わからない。
…このまま黙って屋敷に帰れば、何事もなく一日は終わるだろう。
だが、それでよいのだろうか。
夜になれば、きっと身を締め付ける不安がおれの眠りをおびやかしに来る。
あの日以来、おれは自由を得たように思い、この安楽の日々により忌まわしい記憶の数々は半ば薄れたものとなっていた。
しかしこの瞬間からまた兄の存在が息を吹き返し、そして今度は空想の中でおれを罵り始めた。
体は木偶のように動かず、胸だけが脈々と張り裂けそうに苦しかった。
頭の中に黒い手が押し入り脳を掻き乱すようだ。
御しがたい感情が胸に込み上げる。これを何と表せばよいのかと、言葉を操る事が得手とは思えぬ程に悩ましく歯痒い。
おれはたまらなくなってぎゅっと目を閉じた。
感じる。脳漿の海を渡り、闇の中からおれの声を使って何者かが語りかけてくる。
(怯えて動けぬのがおれという人間なのだろうか。
誰彼の足元でいいように玩ばれるのがおれの人生なのだろうか。
この命が果てるまで、おれはこの面に醜い皺ばかりを増やしていかねばならぬのか。)
「……」
(…あの日、無残に頭を射抜かれた鳥の暗い両眼はこのおれだ。
覇を掴む手で首を押さえつけられ、生殺与奪の全てを受け入れる虜、それは紛れもなくおれ自身ではないか。)
暗い感情が蛇のように地を舐め、俺の腹へと張い上がって来る。
(何もできぬから、何も為せぬ。
あの恐怖の掌から逃げきる事叶ったと、幻想でも抱いたのか。
否、元より己は何も行動なぞ起こしてはいない。逃げてすらいないのだ。)
「……(違う)」
(勅の儘に翻弄され、細腕で日がな文字ばかりを書き、己が変えられもしない世の流勢を一人前に憂う。
そうしてまた明日も、身を小さくして安穏と、何も起きぬように暮らしてゆくのが相応なのだろう。
何と脆弱で、狡い人間なのだろうか。)
「…ちがう…」
肝を絞ってやっとこぼれた言葉に、浴びせらるるは咆哮とも言うべき怒涛の哄笑。
目玉が抉られるような頭痛、臓物まで戻したくなる嘔吐感、あらゆる感覚が一つとなり、
(ならば動いてみよ、臆病者めが!)
あの兄の笑い顔が眼前に炸裂した。
……。
おれは地面に伏していた。
おそるおそる眼を開けると、草を握り締める自分の細い手指が見えた。
ぼうっと、顔を上げる。
先程までの長閑なる春景色が、鈍たらしく色褪せているように思えた。
おれはふらふらと立ち上がり、歩く。
足取りは危ういが、頭は非常に、恐ろしい程に冴え渡っていた。
緑園の脇に停めていた馬がおれを見ると一瞬たじろいだようだったが、それへ無造作に跨り、迷いないこの足先で彼の横腹を軽く蹴る。
軽快に馬が地を跳ね、次には風のように駆け出し、
おれはまるで間者のように、兄の後を追っていた。
悲しいかな、今のおれの目には桃の絢爛たる色が映らず、それらが奏でる香りもこの鼻腔にはもはや届かぬものとなっていた。
黒衣を翻して駆けるあの後姿だけが見える。
ああ、夢から覚めたような心地だ。
今のおれには見える。
彼はか弱き旅人を迷わせんと悪光を放つ、星を装った魔物だったのだ。
森へ入ると、金刺繍を使い鳳凰の飛翔する様を描いた黒衣が前方にはためいていくのが見えた。
兄だ。到底散策しているとは思えない速さで馬を駆って行く。
おそらくこの先に穴場があるのだろう。兄が度々、好んでこの森に脚を運んでいることが伺えた。
おれは兄に気付かれないように距離をとって続く。
草木が避けるように道を作り、その道の最前に兄の背中があった。
「……」
おれは軽快に馬を走らせながら、馬の腰に取り付けていた弓矢をそっと引き抜いた。
目は真っ直ぐに兄を睨みながら、指先で矢の本数を数える。
…やり損じても余裕がある。大丈夫だ。
おれは背を正して弓を構えた。
あの頃に比べて、兄程ではないが体はよく育ち、馬上で弦を引き絞っても力は有り余る程だ。
上半身が揺らがぬように膝で馬の腹を十分に押さえつけ、片目をつむって狙うはあの締まった馬の後姿だ。
それ以外が見えぬ程に視界を鋭く狭めた。
張り詰めた弦がきりきりと鳴き、己の野性が耳元で「今だ」と囁く。
おれは全身の気を以ってビュッと矢を放った。
矢は長い弧を描いて飛び、おれとの間に誘導線があるかの如く的確に、その馬の左の尻肉を突き刺した。
彼は走りながら頭を仰け反り、雷のような大音声で吼え猛る。
おそらく今自分に何が起こっているのか判らず、ただ肉体が受けた刺激に反射的に驚いているのだろう。
背に乗せた主人を忘れた様子で滑稽に跳ね、上の兄は抑制を試みるが無駄だった。
その体が人形のように宙を跳び、兄は大木に背中をしたたか打ち付けて、どしゃりと地面に倒れ伏した。
馬は後ろ姿に矢を飾ったまま狂うたように走り去っていった。
「……」
指で数える程の、あっという間の出来事である。
まるで自分が都合よく設定した芝居を眺めるような、あやしげな心地。
少し汗ばんだ肌にうなじの髪が絡みつくのを指で払い、おれはすぐ傍に馬を停めて、木の下の黒い塊に近づいた。
黒い外套を寝布のように纏い、横向きに倒れた体には息遣いこそあるが動く様子はなく、今の一撃で完全に気を失ったようだった。
覗き込んだその顔は確かに兄だった。
近くで見ればあの頃より若干痩せて、更にぎらりとした鋭い人相が備わっている。
髪は無残にも乱れていたが、意識がない癖に眉間にはしっかりと皺を寄せており、それは神経質な父の寝顔によく似ていた。
おれは。
幼い時から、命あるものが傷つく事をとても悲しく思っていた。
この乱世も早く終わればいい。
言葉を判りあえるというのに、何故彼らはいたずらに血を流すのか。
数多の屍の背後でまた数多の命が嘆き悲しみ、その恨みを晴らそうと皆必死ではないか。
ずっとそう思ってきた。
おれがこの国、すなわち兄にとって必要のない人間でも構わない。
この静かな場所で季節の花を眺め、好きなように物書きをして一生を過ごせたら、もうそれでよかったというのに。
これはおれに与えられた一つの可能性だ。
時の流れに迷い込んだようにぽつりと現れ、この手で掴まねばあえなく消えてしまう。そして二度とやってこない待望の瞬間、それが今だ。
おれはそれを掴んだ。ここであなたを止めねば、おれは気が済まない。
自分のものではない心を与えられたように、感情は何もなく、しかし冷淡であった。
貴方のせいだ。
おれを何十年と苦しめ、この地にまで追い遣り、そして今ついにおれを思い切らせたのは他の誰でもない、貴方なのだ。
まだらに散った雲が濃い橙色に焼けている。
夕暮れは刻一刻と空を侵食し、端の方においてはもうじわじわと紫勝ちの墨色に染められている。
格子の窓からそれをぼんやりと見ながら階段を降り、すっかり視界の取りにくくなったその部屋に、おれは灯をつけた。
私邸の奥に、他の部屋よりは少しばかり低いところに作ったもので、いわば地下室とでも言うべき場所だ。
したためた書簡や衣服、季節の品、諸々を片付けておく為の小さな空間は、おれ以外の人間がいるだけで酷く違う意味を持つように思えた。
あれから気絶したままの兄の体を外套に包んでおれは帰った。
自分より大きな荷物を抱えたおれに侍女は訝る目を向けたが、声まではかけようとしなかった。
仕上げたいものがあるから先に休んでいてください、とそれだけを伝えて、
おれは今この部屋で兄が目覚めるのを待っている。
「……」
兄は浜に打ち揚げられた大きな魚のように無造作に身を横たえ、時折そのまぶたを微かに震わせている。
おれは高所の荷物を取るための簡素な踏み台に腰をおろして、その顔をじいっと見下ろしていた。
もし起きたらすぐに足元を捕まれそうな距離だ。
早く目を覚まして欲しい。きっと吃驚するだろう。
「…」
灯に黄色く照らされて陰影をはっきりとつけた顔が、ぴくりと動く。
おれの胸が微かに昂揚した。
うっすらと持ち上がった睫毛が頬に長い影を作る。何度か瞬かせて、兄はようやく己の意識を掴んだようだ。
兄の寝起きの顔など物心がついてからは見た事もなかったが、起き抜けのぼうっと無防備な目つきはやはり人間である。
しばらく目線を彷徨わせていたが、おれの足先に気づくとそこから徐々に目を上げてゆき、
そして二人の顔が合った瞬間に、その琥珀の双眸は信じがたいものを見るように開かれた。
おれは兄が目覚めたら言おうと思っていた言葉をまず呟いた。
「…おはようございます」
「……っ…」
流石の兄も咄嗟には言葉が出ないか、眉間を悪しく曇らせるばかりだったが、
いかな経緯にせよ弟のおれから見下されているこの状況に屈辱を覚えないはずがないだろう。
次にはもう体を起こし、その長い腕をこちらに伸ばして、おれの足を…
「!!」
締め上げるはずの腕ががくんと突っ張った。
当たり前だ、おれに近づけるはずはない。
その両腕は背中の後ろで一つに括ってしまっている。
無理に動いた反動で再び石床に伏した兄は、忌々しげに後ろ手を睨む。
上から眺めていても、その横顔がわなわなと震え煮上がっているのが瞭然だった。
しかし、自分の状況に気付かず遮二無二おれを狙おうとしたのがらしくもない突発さ。
おれはなんだか可笑しくなった。
「…お久し振りです。お元気そうで、何より」
「おのれ…私の馬を射たのは貴様だろう、植!」
兄はすぐさま俺を睨み上げ、唾すら飛ばしかねない勢いで恫喝した。
静まり返った石造りの部屋に兄の声が反響する。
「…気づいていたのですね、さすがは兄上だ」
「お前如きが、あのような所を一人でうろつけるとはな。少しは鍛えられたか」
見下ろされているというのにその態度はあくまで尊大だった。
片方を僅かに余計に吊り上げた唇はこの状況でもおれを気高く罵る。
「このような馬鹿げた真似が、よもや許されると思っているわけではなかろう」
「当然です」
兄は口元を歪めた。兄を兄たらしめんとする倣岸な微笑、敵なきが如き自信の表れである。
「そうか、ならすぐにこの小細工を解くのだな。そして己の処罰をじっくりと考えろ」
「…処罰」
「そうだ、好きな方法を言え。私も鬼ではない、死に方くらいは選ばせてやる」
おれはゆっくりと立ち上がり、蚕の真似事かと思しき横倒しの兄を真上から見下ろした。
…全くもって、おれには不可思議でならない。
今ここで、おれの手によりいかなる不遇を被ってもおかしくない立場にあるはずだというのに。
これがおれの兄。呆れるほどに独善的だった。
「…不遜なことをぺらぺらと。貴方らしいといえば貴方らしいが」
「何…?」
「やはり、うるさい」
帯に差した匕首を惑いもなく引き抜いて、おれはうつ伏せた兄の背にひらりと跨る。
ぎょっとする兄の真上で、おれはその広い肩へと思いきり刃を突き立てた。
どすりと鈍く、勢いに見合う音で切っ先は深く肉の奥へと食い込んだ。
「ぐ、…っ!」
兄の顔が、この仄暗い一室でも目に見えて驚愕の形に一変し、体が引き攣った。
たちまちそこが出血する。豪奢な絹が火をつけられたように赤く濡れてゆく。
一切の抵抗もない人間の体を刺す感触、それをおれはここで初めて知る事になった。
「く、…う…」
兄は言葉を発する事もせず、息さえ押し殺して、耐え難いであろう痛みに打ち震えていた。
彼の心は今、想像もし得なかったこの狂乱の事態により嵐のように乱れている事だろう。
蔑み落とし、足元に押さえつけていたはずの愚かな弟が、今兇器を用いて兄を痛めつけているのだ。
「…これで静かになりましたね」
おれの声に反応する様子もない。
射止めたままの匕首の柄を握り直して一気に引き抜くと、下敷いた背筋がびくりと跳ねた。
刃が血の流れを押しとめていたようで、抜いた途端にどくどくと傷口から血潮が滲み、徐々に立ち上るその生臭いにおい。
顔をしかめるべきものであるが、おれはその命の呼気に胸の中から喜びが一つやってくるのを覚えた。
「…いかがですか、体に穴を空けられる気分というものは」
「…貴、様…」
兄が唸るも声はか細い。余程息苦しいか、不規則に上下する背中が弱々しくまるで兄とは思えぬようだ。
気持ちは馬の背に腰掛けているようで面白かったが、歯がゆい思いをしているであろう兄の顔を見たくなり、彼の手首を緊縛した縄に刃先を当ててぶちりと千切った。
だらり、両の手が死者のよう、力なく床に垂れた。
おれは兄の体から身を離して、ぐったりした脇腹をつまさきで掬い、その体を物のように仰向けに返してみる。
為すが儘に身を転がした兄は、未だ目の前の出来事を信じられぬような、醜怪な絵図を見る形相だった。
しかし流石に鍛錬もこなしているか、肩を抉っただけでは身を崩す事はできないようだ。
悶絶を漏らしながら何とか肘を立てて体を起こし、おれから離れようと下半身を引きずるようにじりじりと後ずさる。
おれを睨みあげ、兄の体が蚯蚓の這うに等しい鈍さで動いてゆくのが非常に滑稽だった。
「何をしているのですか。まさか、逃げるおつもりで?」
「…無論だ」
「その傷で、」とおれは可笑しくなり、ちょっと漏れる笑いを着物の裾で隠した。
「よしんば逃げられてもね、屋敷の外へは無理でしょう。使用人が目を覚まします。
彼らは都でも貴方に辛酸を舐めさせられた者ばかりです、皆それぞれが貴方に恨みを持っている」
心当たりがあると見え、いまわしげに口の端を引き攣らせる兄の顔。
血を失い顔面蒼白と化しているが、骨髄にまで染み付いた権高は決しておれに綻びを晒そうとはしない。
これだ。このいかなる時でも僭越とした面がおれの恐怖であり、おれの心に住まう影であった。
「…答えよ。何故、私を襲った」
兄は傷をかばいながら静かに問うた。
指の間から染み出でて腕を伝い、赤黒いものが床にぽつぽつと滴ってゆく。
「おれがやらなければ、おそらく遠くない先に他の誰かがやりますよ」
「何…」
「…貴方は人から数多を奪う。奪った挙句に、人を見放す。そうして亡者を、大勢の亡者を作っているのです。
おれは我慢ならないんですよ。同じ腹から生まれた兄が、人の皮を脱ぎ棄て鬼畜と成り果ててしまう事が」
怪訝な目つきの兄。生理からくる汗が肌蹴た首元に浮かんでいる。
「だからおれは、せめて貴方の弟として」
「…笑止だな。お前如き一個の人間に私の大望が見えるか」
「…」
おれの弁を兄はいとも簡単に打ち切った。
誰が見ても痛ましい傷を負いながら、この態度。
生々しくも冷徹な目から放たれる重圧、顔を逸らす事も認められぬような威の気配に、今までのおれなら肝を潰されとっくに膝をついていたかも知れない。
しかし、
ぐったりと寝そべる兄の胸を靴で踏みつけ、これ以上後ろへ下がれぬように体重をかけた。
「う、ぐ…ッ、」
「大望、ですか。さて、さぞかし美しい夢なのでしょうね」
兄は既に出血のため血塗れになった手で、おれの足を掴む。
やわく掴まれている程の軽微な力だったが、何となく凍るような寒気が布越しに走る。
たまらなく不快だった。
「…父を思え、弟」
兄の声は掠れながらも一句一句を発した。
「数多を悉く奪い蹂躙し…要らぬものは容赦なく見放す…奸だと謗られようとも、天意は父を愛したであろう…?それこそが、父の才であった」
「ならば貴方も同じだと?…言葉巧みに…やっている事は殺しや簒奪でしょう。亡者は貴方を許さない」
「亡者には、恨み言を言わせておけばよいのだ…。この世を築くのは生者。それ以外に…ない。
私の大望は父と同じ所にある。父が唱えた覇道を私が生きて為す…ゆえに私は背負える、…生者も、亡者も、国も、天意も。これが私の才だ」
「……」
そこまで言うと、兄の顔はやおら卑しく笑い始める。
「だが、…言った所でお前には判らぬだろうな」
「…何ですって」
「お前の心は、脆い。脆い心では人の本懐は見えぬ。見えぬからその虚ばかりを取り立てる。
父の影に隠れ…次は私の影に取りすがり、そして死ぬまで難なく暮らす事のみを考えているお前には、私の心など理解できるはずもない」
「…」
兄の体の下にうっすらと影が溜まっている。赤い影だ。
見る限り出血は夥しいものだったが、それでも何ら意に介さぬ様子で兄は続けた。
「殊に曹植よ。同じ腹から生まれるとは、その命にあらかじめ役割を分けられている事だとは思わぬか。お前と、私のように」
「…何が仰りたいのですか。今更おれに何かを為せと」
「くく…そうではない。安堵せよ、曹植。お前にできる事は何もない。お前の役割は何もせぬ事よ。
与えられたのは私だ。お前にできぬ事は全てこの私がやってみせる」
「な…」
「お前は何も労さずに、私の大業をただ眺めていればよいのだ。…泉下で屍となって、な」
「……」
何なのだ、貴方は。
何故ここまでされておきながら、おれを罵れる。
俺は知らずの内に、匕首の柄を潰しかねない握力で握り締めていた。
誰が見ようと劣勢を強いられているこの様で、兄はそれでもおれを貶した。
この時おれの背筋に疾走したのは慄きではない。
おれより下で身を解しているというのに、目の前に何倍も大きく広がって見える兄への純粋な憎悪であった。
…この人には何を言っても、意味のある言葉にはならない。
全て咀嚼し胃液で消化するよう、おれの言葉はひとたび兄の中に入れば、あとはただ死ぬだけなのだ。
「…馬鹿らしい!」
おれは自分より上背も体重もある兄の胸倉を無理矢理に引きずり上げて、顔を殴った。
拳骨を作って人を打った事もおそらくこれが初めてだ。
抵抗もなく倒れ伏す兄の体。
おれはそこへ今一度馬乗りになって、上を向かせた。
噛み切ったと思しき唇から顎まで、無様な血塗れである。
こんなものでは足りない。
まだ抉っていない方の腕を取り上げて床へ押さえつけ、おれは翻した刃をそこへ一突きに振り下ろした。
「ぐあッ!ッ、ああ」
兄が叫び声をあげて仰け反る。
獣を射止める行為に似ていた。
石畳にまで刃は貫通しなかったが、兄の腕は明らかに串刺しになっていた。
針のように細かい血飛沫がおれの顔に飛び散った。
二人の息遣いが絡み合うほどに近く、触れ合う体の感触には嫌悪感が込み上げる。
「…本当に馬鹿らしい」
先の言葉を噛み締めるようにもう一度呟いた。
今のおれはひどい姿をしている。
美しい春の桃を見るために選んだ白絹の服は土埃と血で染め上げられ、侍女達が見ればきっと色を失う。
頭の上で結った髪も解けて兄の胸にふりかかる程だ。
顔は返り血の臭いを放ち、目の奥がどくどくと疼いて止まらない。
言い表せない怒涛の昂ぶりが脳内で裂帛していた。
「貴方と言葉を交わす事が、こんなに馬鹿らしい事だなんて、思わなかった」
兄は髪を乱して、息は絶えんばかりだった。目も開けていられない程の痛みなのだろうが、それでもその目はおれを頑なに睥睨していた。
「確かに全て貴方の言うとおりですよ。おれには貴方のように人を操って政はできない」
「…っ…」
「国を動かしてゆこうとする気概も、人々の総意を抱いて立つ勇気も持たない」
ですが、とおれは目を細めた。
拾い物をするように兄の腕から匕首を抜いて、兄の眼の前にかざしてやる。
「ですが今ここで、これを貴方の胸に突き立てる事くらいはできます」
兄は向けられた刃の光を見上げ、みるみる、額の血管を膨らませた。
「…私を殺すか…とうとう狂うたようだな!」
指の一本も動かせないかと思った兄は、負傷を押しておれの腕を払いのけた。
それは執念だった。屠られようとする獣が満身創痍でなお抗おうとする気高い醜態だった。
「命乞いとは愚かしい!貴方の食い物は命でしょう!好きなだけ奪っておきながら自分の命だけは惜しいというのですか!」
兄はどこにそんな力が残っているのか、ぞっとするほど冷えた手で俺の首を掴んだ。
「愚かしいのはお前だ曹植!お前は世の趨勢を読まず、己の思いつきで振舞う感情だけの人間よ!」
首に食い込む指は最早生者のものとは思えない。
「私は帝だ!今私が死ねば、再び世が乱れる…悪辣凄惨が蔓延る…そのような繰り返しをお前は望むのか!」
それは尋常ならぬ剣幕だったが、おれは気付いた。
怒号する兄の顔にじわじわと浮かびつつあるもの、それはおれに対する恐怖の色だった。
加減一つで生かすも殺すも思うがままにされる底なしの怖さ。ただ与えられるのを待つだけの恐ろしさ。
同じ顔だ。おれが今まで兄の前に何度となく晒してきた顔を、鏡のように兄がおれの前に晒していた。
おれはその喜ばしさに、息を塞がれたまま知らぬうちに笑っていた。
あの日彼に首を断ち切られた、哀れな猛禽の目の光が蘇る。
もうおれは被害者ではない。
おれはここで、狩られるのではない、狩る側の人間になるのだ。
「…貴方と今日再会してようやくわかったのです」
笑いながらおれは己の首に手をもってゆく。
「おれの望みは泰平ではない。この世が何度崩落しようと、微温湯の中で息を吹き返そうと、どうだってよいのです」
首元にかかった冷たい手を、ゆっくりと剥がしていく。
兄の力はもうおれを拒む事もできない程に憔悴していた。
「おれは貴方さえいなくなれば、それでよいのです」
「…曹植…!!」
兄は血走った目を燃え上がらせ、腹の底から捻り出すようにおれの名を呼んだ。
おれはそれに応えるように、そっと愛刀を振り上げた。
「お恨み、申し上げます。さようなら」
…以上である。
おれはこうして兄を、この大国を戴く帝を凶刃の下に嬲った。
恨みは晴らした。
そして、おれもきっとまもなく死ぬ。
虚言ではないが故に、おれの足元には自らの影の如く黒い血溜まりが一刻ごとに広がっていた。
とどめをさされた兄が、血を吐きながら胸に刺し込まれた刀子を辛うじて抜き出し、最後の力でおれの脇腹へとそれを突き立てたのだ。
さすが兄は、最後まで兄だった。
喉奥が火照り、内側の熱とは比べようもない程に皮膚は冷え切っており、意識が朦朧とする。
命の雫果てるように、墨も僅かだ。新しく拵える力など最早残ってはいない。
おれはそろそろ、このあたりで筆を止めるとしよう。
そして、動かぬ兄の隣に身を横たえて少し眠ろうかと思う。
…褪せた記憶がうすら目を開く。
まだ母に手を引かれて歩いていた頃、嵐が怖くて眠れぬおれに兄は笑いかけ、眠りにつくまで傍らで詩を読んでくれた事。
万事に秀でた兄はいつでもおれの自慢だった。
幼いおれの憧れだった。
そんな事を思い出したのは、横たわるその顔がかつてのように、穏やかに見えたからだ。
おれ達がもし一人の人間として生まれてきたならば、争わずともよかったのだと思う。
おれは貴方の一部ではなく、もう一人の貴方として生まれたが為にその在り方を妬まれてしまった。
そしておれも、貴方に否定され続けた苦しみを恨みに変えて、貴方を屠った。
おれ達は兄弟ながらも確かな憎しみを晒し合い、ここでとうとう決着をつけたのだ。
時は前へと進むが、決して巻き戻る事はない。
この体も段々とおれのものでなくなってゆく。脳が甘くぬかるみ、眼の前がかすんでゆく。兄の横顔がぼやけてゆく。
……。
全てが終わった今、おれはぼんやりと考える。
兄の厳しさと、恐ろしさ、そして肉親であるおれへ向けられていた確かな情というものを。
おれが今日ついに自分の兄に手をかけたのは、彼への激しい憎しみに他ならなかった。
しかし己の手で殺しておきながら、忘れていた灯火の様、この胸に染み渡るほのかな哀惜は、一体何だというのだろう。
この狭い心のどこかでおれはまだ、兄の事を僅かでも好いていたのだろうか。
そしてこの恐ろしい兄にも、おれの事を好いてほしいと思っていたのだろうか。
…馬鹿げた矛盾だ。このような迷い、手記には残せない。
否、もう筆を取る気力など少しも残ってはいなかった。
おそらく朝になれば屋敷の者達が、姿を見せないおれを探しにやってくるだろう。
彼らの目に晒されるのはこの惨状、そしておれの浅はかな暴挙を記した書簡、それだけでよい。
おれは兄に次代の長たる座を奪われ、一時の激情に狂った愚か者の弟。それでよいのだ。
…おれはゆっくりと目を閉じた。
無となった視界の向こう側で、じわりと眼尻を伝い冷たい頬へと流れたものは、堕ち星か。それとも涙か。
夜が滔々と流れ去るように明けてゆく。
今この時は赤子のように貴方に寄り添い眠ろう。
静かになった貴方の隣は、何故だかとても落ち着く。
この蕩けるような眠りの先には何があるのだろうか。
ここではない場所か、この世の続きか。
おれ達はそこでようやく、一人の人間になれるのだろうか。
わからない。しかしそれまではさようなら、兄上。
落ちる所まで落ち、大海に光を得、温かい血肉に包まれて生まれる日が、また、来るならば。