タワービルの51階から、ライトアップされたマリーナ・ベイ・サンズが遠目にもよく見えた。上空では飛行機がストロボのような光を放ちながら、窓の向こうへフレームアウトしていく。
 応接間で少しの時間待たされていたが、無言で煙草を吸う殺月の横で、コウメイはしばしその夜景に目を取られていた。

 殺月のビジネスのフィールドは日本だけではなく、アジア内の先進国に広く及んでいる。マフィア人口が多い中国はもちろん、香港、台湾、タイ、そしてシンガポールもそうだ。
 コウメイはJUSTISのサポートを担うかたわら、スケジュールが合えば殺月に帯同して日本を離れる事もあった。
 問題人物だらけのギャング集団をまとめるのは決して楽ではない。窮屈でストレスの多い日本をファーストクラスで飛び出し、殺月の仕事を手伝えるだけで十分な褒美だと思う。

 シンガポールは煌びやかな街並みや治安の良さなど、上辺の美点ばかりが取り沙汰される。確かにマリーナ地区の高層階から見下ろす街は、青や紫のライトが芸術的な様相を生み出している。神室町の猥雑なネオン群とは比べ物にならない。
 しかし中心部から外れた場所には灯りのない区画があり、殺人や暴動、売春が行われるエリアも点在している。繁栄に取り残されたスラム街には、明日の生活も知れず犯罪を繰り返す人間が夜の闇に息を潜めている。街が生み出す光と影は、人間の運命に似ていると思った。

 決して良い生まれではない。故郷の景色などはとっくに忘れてしまった。ただ、異常なまでに高い知能がコウメイの武器だった。一度見聞きした物事は絶対に忘れる事はなく、語学ならテキストを一度読めば内容を丸暗記できる。今では数人が違う言語で会話をしていても、内容は全て勝手に頭に入ってくる。
 まともな家庭で教育を受けていれば、然るべき機関や集団に属して幸せな人生を歩めたはずだ。しかしコウメイは、学歴や品格とは無縁の裏社会で生きていく事を選んだ。そして偶然か必然か、殺月という人間に辿り着いた。おぞましく壮絶な過去を持つ殺月は誰も信用しない質だったが、コウメイに何か通ずるものがあったのか、出会ってからは好んで側に置いている。主従関係の延長としてベッドを共にするのにも、時間はかからなかった。
 歪んだ人格を自覚しているコウメイにとって、それ以上の人間に従い支配される事は屈辱ではなく、ある種の喜びと言えた。

 応接間の奥の扉が開いた。ようやく対面に座ったのは、シンガポールに拠点の一つを置く福建マフィアの幹部だ。
 上背のある体をアルマーニのスーツで包み、組んだ足の先にはパイソン柄の革靴が見える。オーデマピゲの腕時計は看板モデルのロイヤルオークだが見た事のない珍しい型で、華美さからして2000万は下らないだろう。浅黒い肌に濃い目元、気取った風のデザイン髭で、マフィア特有の濁った欲望を巧妙に隠している。この世の裏を知らない人間が見れば、気鋭の実業家だと言っても通りそうな風貌だった。
 彼らのシノギは密輸を専門にしており、薬物の密売を始め、人身売買や諸外国への密航斡旋などで財を築いている。今回は彼の依頼で、日本製の銃器の取引に呼ばれた。既に輸送は完了しており、殺月がわざわざ出向いたのは、足がつきにくいよう現地で用意した日本円を受け取るための渡星だった。口座振込や、日本での換金を避けるのは常套手段だ。
 戦後の日本は製造拠点こそ少ないものの、64・89式ライフル、ブローニングなど、国産の銃はどれも性能が良く世界的評価も高い。粗製乱造がはびこる中国からすれば、少々値は張っても高い買い物にはならないのだろう。

「ところで殺月さん、となりの彼は」
 葉巻を吸いつけながら、男がコウメイに好奇の目を向けた。
「ボディガードに見えるか?」
 現金が詰め込まれたアタッシュケースを受け取った殺月は何食わぬ顔で答える。
「いいや。秘書にも見えない。けど今夜は、二人で同じ部屋に泊まるんだろう?私にはそう見える」
 話がおかしな方向へ向かっている。殺月の顔をちらりと盗み見た。
「よく俺の予定がわかったな。何泊かしていくが、どうしてもって言うんなら、一晩くらいは貸してやってもいいぞ」
 顔には出さなかったが、背筋にぞっと鳥肌が立った。口を挟む事はしなかったものの、殺月以外の人間に触られるなど想像するのも耐えられない。
 男の葉巻が、クリスタルの灰皿の上で細い煙を立ち上らせていた。
「はは、やめておくよ、後が怖い。しかし、殺月さんがこんな若い男を連れ回してるのは新鮮だね」
「趣味が変わったんだ」
 こいつが生粋のゲイなのか、それとも両方いけるのか、そんな事はどうでもいい。見たところ殺月と年齢が近く、以前から交流はあるような口振り。もう少し穿って見れば、二人は過去に関係があったのだろうかと疑わせるような物言いだった。
 過去の想像はさておき、幹部の椅子についているだけあって、男の腹の中身は相当黒い。隙や弱みを見せれば、殺月を踏み台にして日本への進出を企んでいるようにも見えた。殺月との間で力は拮抗しているように見えるが、どちらかが欲を剥けば争いは一瞬で終わる。コウメイにも独自のシノギのルートや兵隊はいるが、もし殺月が落ちてしまえば刃向かう事は不可能だろう。決して対等ではない、危ういバランスで保たれた関係を見せつけられた気がした。

 談話を終えて、マリーナのホテルへ向かう。ガラス張りのエレベーターから、ベイエリアの夜景が見えた。殺月は普段以上に無口だった。監視カメラがあるとは言え、触ってくるどころか何も話しかけてこないなんて、意地の悪い人だ。夏でもないのにジリジリと肌が熱く不快に蒸しているのは、この国特有の気候のせいだろうか。
 到着したホテルの部屋は湾岸を見渡せる作りになっており、シアターを構えたソファの隣にはバーカウンターまで設えられている。しかしここまで来て最早待つ事はできず、アタッシュケースをゴトリと床へ落とし、殺月の背中に取り付いた。スーツには男の葉巻の香りが残っていた。それが無性に憎らしかった。

 今宵は一段と、物のように乱暴に扱われたい気分だった。コウメイの衝動とその理由を殺月は全て見通していた。「お前は子供より単純だな」「頭、中身入ってんのか?」「このままかち割って見てやろうか」後ろから髪を掴まれ、耳の中に舌が入り、罵倒の言葉が突き刺さる。視界が潤み体は蕩けそうで、四つん這いになった腕や膝が震えて言う事を聞かない。それなりに体力のあるコウメイが翌日の夕方までベッドから起き上がれない程、ほぼ暴力と言って差し支えない行為に耽った。

 件の男が台湾で現地のマフィアに拉致され、数日に渡る拷問を受け死亡したという報せを聞いたのは日本に着いてからだった。シンガポールの倉庫に保管していた3000丁あまりの銃が狙いだったようだ。
「向こうの奴らは過激で怖いな、コウメイ。しばらく旅行はやめとくか」
 殺月は週末の天気予報でも聞いたように、熱のこもらぬ顔でせせら笑っていた。