夏と言うにはあまりに早いが、春と言うにはあまりに暑い4月の真昼。目的地へ向かう道中、普段あまり汗をかかない顔には塩辛いものが細い筋になって滴っていた。
 ビニール袋をぶら下げて、古びた自動販売機のある角を曲がり、細い路地を突っ切る。いつもならここで足音を聞きつけて、二階建てアパートのベランダから犬が顔を出して喧しく吼えるのだが、今日は静かだ。犬と同じくらい喧しい飼い主が、珍しく散歩に連れ出しているせいだろう。

 ようやく目的の場所にたどり着いた。すっかり錆び付いた鉄筋造りの階段を見上げて、額の汗を手の甲で拭った。
 二人の住処は外階段を上がった二階の部屋だ。ちょうど昼飯を済ませた頃だろう。料理上手なあの子が今日は何を作ったのか、考えながらの事だったので、
 次に我が身に起きた事は、全くの想定外だった。
「どおおっ!」
 冷たい衝撃だった。強烈な水飛沫を横面に浴びせられたのだ。
 どこから出たかわからない声を上げて階段から退り、缶ビールと氷水が入ったビニール袋を、もう少しで地面にぶちまける所だった。
 罠にかかった猿のように後ずさって顔を覆うと、水飛沫の方から甲高い笑い声が近づいてくる。
「何、真島さんなん?怪しい人や思うて、ぶっかけてしもたわ。ごめんなあ」
 振り向くと、ホースを握って何でもないように笑う前掛け姿の少女。
 靖子だった。
「……いや、今のはわかっててやったやろ」
 元々汗で湿っていたが、極め付きでびしょ濡れになった髪を後ろへかきやる。
 返事の代わりにけらけらと笑い、靖子はホースを繋いだ水道を止めに行く。ホースを蛇口にひっかけてしまうと、前掛けで手を拭きながら戻ってきた。
「靖子ちゃん。今日は一体、何しとんのや。打ち水かいな」
「ん、暑いのは暑いねんけどな。うち、お昼になったらこの子らに水あげてるんや」
 靖子が示すのは密接した隣のビルとの壁。そこへ出来たわずかな隙間に、影のようにひっそりと花が咲いていた。
「へえ、こないな所に……気づかんかったわ」
「うちとお兄ちゃんがここに来た時から咲いててな、可哀想やから枯らしたないねん」
 近寄って見ると、それは靖子により十分な水を与えられて、みずみずしく水滴を含んでいた。土から身を伸ばし、壁のパイプに寄り添うよう蔓を巻いて、蓄音機のホーンに似た形の花を咲かせている。
 子供の頃に名前を覚えた花ではあった。しかし目にしたのは何年ぶりだろうか。
「せやけど、街のど真ん中にでも咲くもんなんか、朝顔」
「朝顔ちゃうわ。朝顔やったら、昼過ぎにはもうしぼんでるわ」
「え、」
 見た目でてっきり朝顔だと思ったが、どうやら違ったようだ。植物に造詣など深くはない、というかあるはずもないので、「せやったら何やねん」と聞くと、
「しゃあないなあ、なら大ヒント。花言葉は『絆』や」
「……ますますわからんわ」
 靖子は大袈裟に首を左右に振って、肩を落とした。
「うーん…真島さん全然っ駄目やなあ。お昼になっても咲いてるから、これは昼顔って名前やねん」
「はあー、なるほど」
「お兄ちゃんが教えてくれてん。うちのお兄ちゃん、物知りやろ」
「はあー、……」
 想像したくないが、頭の中に、小さな花をしっかりと握り締めて花言葉を囁くむさ苦しい巨体が浮かんだ。
「……何やあいつ、男のくせに花言葉なんかよう知っとるのう、気持ち悪いやっちゃ」
「あはは、ひどい」
「せや、あいつ部屋か?」
「ううん、笹井のおじさんとこ。何や大事な用事なんやて」
 ……。
「……そうか」
 ふと空いた間を靖子に気取られないよう、ビニール袋を持ち上げた。
「ほな、これ冷やしとってくれや。あいつが帰る頃にはキンキンになってるやろ」
「うん。いつもありがとな」
 こちらの微妙な間に気づく様子はなかった。兄とは似ても似つかない愛らしい顔を緩ませて笑っている。
 屈託の無い笑顔に、ふと複雑なものがよぎった。
 ……冴島の用事は想像ができた。計画の日が、近づいているからだ。

 笹井組を東城会で成り上がらせる為に、自分は冴島と共に動く事を命じられた実行犯だ。根回しも、入念に行わねばならない。全ては笹井の為だ。上野誠和会を潰せば組長である笹井の名も上がり、直系への格上げも夢ではない。
 しかし、どう考えても死地へ赴く行為だった。成功しても、失敗しても、おそらく帰っては来れない。自分は太く短く生きられたらそれでいいと思っているが、冴島はそうではないだろう。一人残された靖子がどんな思いでこれから生きていく事になるのか、冴島自身もよくわかっているはずだ。
 自分でさえ、何も知らずに笑う靖子を見ているのは辛いというのに。

「また出直すわ」と手を振り、靖子が階段を昇って部屋へ戻っていくのを見上げてから、踵を返した。
 去り際にもう一度、あの花を見た。ビルの影で誰にも気づかれないように咲く昼顔。そしてそれを子供のように可愛がる少女は、今日がなければ知りえなかっただろうその花言葉を教えてくれた。
「(……絆か)」
 絆、
 柄にもないので口にした事はそうそうないが、この世界に転がりこんだ人間なら誰しもが背負う言葉だ。家族を持たない自分を拾ってくれた嶋野への恩義、それに報いるのは確かな絆であり。そして自分がよく知っている、血の繋がらない兄と妹を結ぶのも、また絆だった。
 ただそれはとても重く、しかし脆くもある言葉で、一度壊れてしまったら、もう二度と、結ばれることはないように思えた。
 可憐な花と小さな少女の姿はどこか重なって見えた。
 計画の日は迫っていた。もう何処へも、戻る事はできない。
 たとえこの日常がなくなっても、あの花が枯れてしまわないように。
 俺は誰もいない路地で、誰にも気づかれないように祈った。