【1】

 休日の寝起きは目を開けた瞬間から、体がだるい。
 毎日がほぼ休日のようなものだが、何もしないと決めた日は動く気が起きない。それに、ひんやりとした手足が隙間なく巻きついているせいでそもそも身体が動かない。
「…おい…」
 自分の胸に顔を埋めて眠るハザマを少し揺すったが、全く起きる様子はない。自分同様何も着ておらず、健康的とは言い難い青ざめた肌に彫り込まれた絵が、薄暗い部屋の中でも異様な鮮やかさを衒っていた。
 ……蛇だ。一つ一つに艶が光る緑青の鱗をびっしりと纏い、腹はぬるりと光沢のある銀色。長い胴は、ハザマの華奢なうなじから身体中を這い巡り太腿を絞めていて、背中に描かれた頭は何処からが始まりで何処までが終わりなのかを暈かす無限性に則り、自分の尾を貪っている。
 男である事もだが、こんな不気味な柄をした腕や足が鬱陶しく絡みついてくるのは、捕食のために締め付けられる様で気分のいいものではなかった。

 無理矢理剥がそうともがいていると、不意に、巻きつく力が一層強くなる。
 思わず怯んでしまったその間、胸元に押し付けたハザマの顔が少し動き、その生温かい舌にベロリと肌を舐められた。
「うわっ」
「…おはようございます」
 裸の肌にハザマの息が溶ける。起きた途端に何をしているのだろうこいつは。
「離してくんない?」
「…嫌です」
 昨晩さんざん踏みにじられた肌はまだ鬱血痕も抜けていない。痺れが残る肌にしつこく唇がまとわりついて、それが記憶を呼び起こす様に皮膚の奥をくすぐり、ぞくりと身体が震えた。
「やめろ…って」
 危ないと思った。
 このまま無抵抗を続けていたら、朝から余計な体力を使ってしまう恐れがある。いっそ思い切り、離れた方がいい。
 一瞬の隙をついて腕を振りほどき、ベッドから離脱した。
 ハザマは気怠げに寝転がったまま、こちらに向かって唇を指で拭いながらにやにやと笑っている。
 腕からは解放されたが、逃げられた気がしない。目の届く所、届かない所全てに網を張られている様で、つくづく嫌な空気を作る男だと胸中舌打ちをする。
 こちらの気など何ら意に介さない様子で目線を逸らして、ハザマがベッドサイドの時計を見た。
「…あら、もうお昼ですか。ラグナ君、ご飯でも食べに行きましょう」
「あ?何でだよ」
「いいじゃないですか。たまの休みなんですから付き合って下さいよ」
 ぐっと喉が詰まる。断る理由はないが、もとより大抵の物事に対して、自分に拒否権というものは与えられていない。
「…まぁ、いいけど…」
「よかった」
 存外嬉しそうに微笑むので、それ以上は何も言えなかった。

 不承不承ながら着替えを済ませ、共に玄関を出て眩しい日光の下に出る。
 何だか新鮮だった。
 この生活を始めてからそう日は経っていないが、まともに日中食事を共にするのは初めてかもしれない。
 ハザマは基本多忙で、帰宅も疎らで実質は寝に帰るだけだ。目を覚ますともう出かけてしまっている事がほとんどなので、自分のような人間に留守を任せてもいいのかという呆れは少なからず抱いていた。
 同時にハザマに放っておかれるのは自分がこの関係から逃げるおそれを持たない、またそもそも持つ事自体が許されない、覆しようのない服従関係にあるからだという事が、悔しくもあった。
「ここです」
 後ろをついて歩きながらぼんやりと考えていたが、街に出て間もなくビルの一角でハザマは足を止めた。
「…ここ?」
 二階より上が住居、一階が店舗になっているビルで、ハザマが迷いなく入っていくのは大凡イメージとは当て嵌まらない、極々普通の定食屋だった。
 とりあえず後ろからついて店内に入ると、昼時という事もあって客が多い。見たところ皆一般人ばかりで、あやしげな取引をするような集会場ではなさそうだ。
 ハザマの先導のまま、カウンターの真ん中に並んで座る。
「私と同じものでいいですか?」
「ん?ああ」
 顔見知りらしき店員と世間話を交えて注文をした後、おしぼりを取ったハザマは我が家にでも帰ってきたように安穏と溜め息を吐いた。
「やはりここは落ちつきますね…」
「こういう店が好きなのか」
「ええ。日頃はなかなかのんびりできる場所がありませんから。周りを気にせずゆっくり食事ができるのはありがたい事ですよ」
「うん、まぁ…」
 神経質にいつまでも手を拭きながら語るハザマの横姿は何処か素朴だ。
 想像の内では、こういう部類の人間は毎日高級車の行列で割烹へ乗りつけて貸し切りでもやるのだと思っていたが、違った。どうやら映画の見過ぎらしい。
 少しの時間を要してテーブルにあがってきたのは、大きなプレートに乗った焼き鯖定食。
 ……どこから見ても普通だ。
 ハザマはこちらの不安など構わず早速汁物に手をつけている。何を信じて何を疑えばいいのかわからないが、無為に探って挙動不審に思われるのも癪だと思い箸を取った。

「アンタ、ずっとこういう仕事やってんのか?」
「そうですね。私には親兄弟がいませんでしたから。普通の人ほどまともな選択肢がなかったんですよねぇ」
「…そっか…」
「一応親代わりと呼べる人ならいますけどね。私がこうして焼き鯖を食べてるのも彼のおかげではありますが…」
 ハザマの饒舌が一瞬籠った。
「?」
「何と言うか…私はどうにも彼に滅法弱くて。とにかく気難しい人で、ご機嫌を損ねた日にはもうたまりませんよ。差し詰め蛇に睨まれた蛙って所でしょうか」
 蛇はアンタだろう。
 出かけた言葉を味噌汁で流した。
「彼は人の頭の中を覗き見するのが趣味でね。だからと言って人が苦しんでるのに気づいても助けようとはしないんです。あくまで観察を楽しんでるだけで、まぁ何を考えているのかはわかりませんが、典型的なサディストだという事は明らかですね」
「……」
「…何か言いたそうじゃないですか?」
「いや何でも」
 そうですか、と特に気にしない風でハザマは湯飲みを置き、軽く手揉みをする。
 何やら妙に勿体をつけ、最後に皿に残ったゆで卵を取った。
 長い指が宝石を握る様に取り、カウンターの角にそっとあてて殻を剥く。洗われた瑞々しい身に惜しげもなく振りかけられる塩は繊細な粉雪を想像させた。
 ぱくりと一口にして、ハザマが浮かべた恍惚の表情がその味の全てを物語っていた。
「……」
 まるで神聖な儀式を見届けている気分だ。こんなに愛おし気に卵を食す人間を見るのは初めてで、声をかけるのも躊躇われる。
 たっぷり時間をかけて完食したのを見届けてから、そっと自分の分け前を手渡してみた。
「…えっと…俺のも食う?」
「おや、いいんですか?ありがとうございます」
 心から嬉しそうに受け取り、それもパクパクと食べ始めるので、思わず雛鶏の食事を見守るような気持ちになってしまう。
「…何個でもいけそうだな」
「ええ、それはもう」
「あんま卵ばっか食ってると血がドロドロになるぞ」
「そんな物は俗説です。おそらく貴方がびっくりする程毎日食べてますが、私は健康体そのものですよ」
「そ、そうか…」
「でも、心配して下さるのはありがたいですね。やはりラグナ君は、優しい方だ」
「何だよ、気色悪いな」
「そうですか?嘘をついたつもりは、ないんですがね」
「…いいから早く食えよ」



 ハザマは絵に描いたような慇懃な男だ。一般人にも、鉄のような無表情をした部下にも腰が低く愛想を欠かさない。
 こういう人間ほど、腹が捻くれて胡散臭いものはないのだ。あの夜ハザマを見た瞬間、第一印象から感じた危険な予感は間もなく的中した。
 最悪の出会いだった。薬で押さえつけられ、最中にどんな劣情的な言葉を囁かれたか、記憶はないに等しい。猛烈な吐き気と倦怠感、皮膚の内側から隙間なく撫で回される様な掻痒感で、気が狂う寸前まで責められたのは体が覚えている。
 二度目は抵抗をしなかった。この自分を手懐けたという認識は得たはずだが、そうとは思えない乱暴な行為をハザマは強いた。
 何度目か、数える事をやめた頃にはこうして互いに無防備な姿を晒し合うようになっていた。
 異常だと思う。が、この生活からは抜けられない。自分とハザマは利害が一致しているからだ。自分が長らくの時間を費やしてなお見つからない、たった一つの大切なものを、この男ならいつかきっと探してくれると思ったからだ。
 根っからの悪人を相手にしている事はわかっていた。わかっていても、その手に縋らざるを得なかった。
 しかしこちらがハザマからあらゆる面での手助けを受けるという明らかな条件に対して、あちらが求めてきた物は不可解な事に自分の体だった。
 わからない。女には不自由しないのだろうが、不条理な世界を渡り歩いてきたこういう人間は、もう普通である事に飽いてしまうものなのか。
 そして恐ろしいのは、この奇妙な生活が徐々に、自分にとっても当たり前になりつつある事だった。

 ハザマは今夜もやはり、自分に巻き付いて眠っている。
 油断しているといつか本当に喉を絞められ頭から食われてしまいそうだ。
「ラグナ君は、温かくて気持ちいいですね…」
 ただ今は、寝事のように囁くその声が髪の一本一本まで甘く染み、逆らう事は叶わなかった。
(アンタは冷たくて気持ちいいな。)
 ……言えない。
 もし言ったら、この男は一体どんな顔で自分を見るんだろう。
 それでも言葉にしてみたくて一瞬薄く開いた唇を、悪い夢から醒ます様にそっと噛んだ。



【2】

 長たらしい一日が終わり、ようやくたどり着いた玄関前で鍵を探しながら「あれ」と顔を上げた。
 どんなに帰りが遅くなろうと時間を気にする癖はないが、部屋からかすかに灯りが漏れている事に気付いて、何となく腕時計に目を落とした。申し訳なくなる程の夜分だ、きっと消し忘れだろう。
 一応いつもより静かに鍵を開けて部屋に入ると、リビングのテーブルに人影がある。
 ジンだった。
 普段より若干落とした照明の中で、テーブルの上に伏せた頭がゆっくりと持ちあがった。
「…おかえり、兄さん」
「…よぉジン。まだ起きてたのか」
「うん」
 コーヒーが少し残ったマグをかたわらにジンが目を擦る。その後ろを通り抜けて、冷蔵庫を開けた。
 ジンが自分の為に欠かさず買い置きしているブラッドオレンジジュースを手に取り、パックから直接呷る。酔いでむかついた胃にはこれが覿面だ。ついでに頭に取りついて離れないむかつきも飲み干せたら、どれ程いい事か。
「……」
 一しきり落ちついて息を吐くと、背後の視線にそろそろ気付いてやらなければならないと思った。
 自分の行動を後ろからじっと見ながら、ジンはこちらに話しかけたくてたまらないようだ。
「…あのさ、お前明日学校だろ。早く寝ろ」
「…兄さん、最近ずっと遅いけど、何かあったの」
「……別に」
「全然帰って来ない日もあるし…電話くらい出てくれてもいいじゃないか。あんまり心配かけないでよ」
「ああ、わかってるよ…」
 自ずとうんざりした声になりながら、ジンの方を振り向く。
「けどお前も、夜更かししてまで待つ事ねぇだろ」
「…でも、」
「ちゃんと勉強して、警察官になりたいんだろ。俺の事はほっとけ。お前には迷惑かけねぇようにするから」
「そういう意味で言ったんじゃ…」
 椅子から立ち上がったジンは、やがて勢いが消え入る様に言葉を噤んで下を向いた。
 不満を表すのに、目を伏せて唇を尖らせる癖は子供の頃からまるで変わっていない。
「…ジン」
「兄さん、僕に内緒で危ない事してるんでしょ」
「……」
「僕は嫌だよ。兄さんが、このまま帰って来なくなるんじゃないかって考えながら待つのは、嫌だ」
「……」
「…もし兄さんまでいなくなったら、僕はどうすればいいの」
泣きそうな顔でせがまれては、溜め息しか出ない。
「…情けねぇ事言うな、バカ野郎」
 言いながら歩み寄り、腕を伸ばして同じ色の髪をくしゃりと撫でてやった。
「ジン。お前は俺なんかよりずっと出来がいい、俺の自慢の弟だ」
「……」
「グダグダ言ってねぇで、自分の事だけ考えてろ。んで夢叶えて、俺を安心させてくれよ。わかったな?」
「…兄さん」
 ジンの、薄く潤みの膜を張った大きな目に自分が映っている。
 少しは兄らしい顔が出来ているだろうか。
 押し流したはずの酔いが重く胸につかえた気がした。



【3】

 犬はとりわけ嗜好性の低い生き物だ。ただ犬の中には、妙に選り好みをするものもいる。
 初めてそれを口の中に出した時は目の前で吐き戻してくれたが、今は合図をするだけで、こうして体の上に跨り自ら舌を差し出すようになった。
「んっ…ぐ」
 時折呻きながら顔を動かす。その額から流れた汗が瞼に乗り、睫毛に染みる。それが涙のように見えて小気味が良い。こちらが密か口元で笑うのをジロリと見上げる強気な目つきはもっと良い。

 時々家に戻る以外、ほとんどの夜をラグナはここで過ごす。
 自分があまりここに帰らない分、彼に留守をさせ、この部屋の中で十分な自由を与えた。
 野良犬を飼うなど、以前の自分なら考えられなかった事だ。
 自分の領域に知らない足跡がつく事も、飲み物くらいしか入れていなかった冷蔵庫に、野菜や肉などの食材がいつの間にか詰め込まれている事も、
 いつしかそれらの全てが当たり前になっていた事も。

 先程まで口の中で舐めていたものを、開いた脚の間にしっかりとくわえる淫靡な図が下からはよく見えた。自分の腹に跨り、あまり慣れない動きで騎乗位に励む姿を眺めるのも面白い事ではあるが、やはりそのぎこちなさに一言口を挟みたくなる。
「もっと腰使って下さいよ…くすぐったいだけなんですが」
「あ、っ…クソッ…、」
 心底憎たらしそうにこちらを見下しながら、胸に手をついて、先程より大きく腰を動かしてくる。時折根元まで密着した体をぐりぐりと前後に揺すりながら懸命に身を弾ませる。
「ふっ…ぁ、あ、あッ…」
 噛み鳴らした歯もすぐに浮き上がり、喉が仰け反る。汗の雫が次々に腹に落ちた。
 幾つもの吸い跡と噛み跡が浮いた太腿に、強く爪を立てながら揉むように撫ぜる。
「うぁっ、あ…くぅう」
 ガクガクと震える肘は、もうほとんど体を支える役目を果たしていない。ついに腕が均衡を崩し、こちらの身体に覆いかぶさる格好になってしまった。
「…貴方にしては頑張りましたね」
「はっ、うるせぇ…っ」
 腰を抱いて次はこちらから律動を与えた。
 目の前にある胸を吸いながら、今まで受け身になっていた分を込めて強く突き上げる。
 密着したラグナの喉が、絞首される動物のようにきゅうっと縮む音を漏らした。それでも乱されるまいと必死に唇を噛み、両手で首にすがりつき耐える姿は十分すぎる程に情慾を煽った。
 同じ温度に火照った体を絡ませながら、どちらからともなく、唇を重ねる。
 言葉では足りない言葉を舌の上でただ、交わした。



 薄ら眠りに落ちる頃、枕元に投げ放しだった携帯が無遠慮な振動音を上げた。
 手の中に拾ってディスプレイを一瞥し、隣の寝顔を起こさないよう背を向けながら通話ボタンを押す。
「…はい?」
『ハザマ。先日の件だが』
 抑揚のない声で、こちらの都合を伺わずいきなり要件から入る所が、やはり、彼らしい。
「ええ、話は纏まりましたか」
『予定通り、会長が来週から中国出張で不在になる。心配をおかけしないよう留守をやってくれ。勿論だが余所の連中には会長の不在を知られたくない。くれぐれも内密にな』
「わかりました」
『それから彼女も連れて行くらしい。彼女が向こうでどうしても野生のパンダを見たいんだと』
 彼女。
 頭の中に記憶の断片がよみがえる。
 ……そうだ。生憎の雨天で、会合を終え料亭を出た時に自分は見た。迎えの先頭に停まったベントレーの後部座席に、人形のようにぽつんと乗っていたセーラー服の少女を。
 半年程前の事だ。顔を見たのはその一度きりだった。
『正直あんな小娘の何がいいのかわからん。風俗宿に売る所だったそうだが、余程気に入ったんだろう』
「……」
『あと面倒な事に、会長から依頼もきてる。彼女の家族の事だ』
「…どういう依頼です?」
『彼女には親はいないが、父親代わりの兄がいる。多分彼女を探してるだろうから、もう関わらないでくれって事だ。何より彼女が嫌がってる。贅沢三昧の愛人生活の方が幸せなんだろう。まぁ、女なら当然か』
「……」
 間接照明の下に沈んだ暗闇が、一瞬ぐらりと歪んだ気がした。
 そうですか。その一言が何故か出てこない。
 視線が覚束なく、泳ぐ。
 これは、動揺だろうか。
『そういう訳で、お前、見つけたら消しておいてくれ。方法は任せるが、できるだけ早めにな』
「……」
『どうした?』
 電話口の声が、微細だが怪訝の色を含んだ。
 汗で少し湿った髪をかきあげ、誤魔化すように息をついてようやく喉が開く。
「…いいえ、大丈夫です。それより、彼の名前を教えてくださいませんか?さっさと探して、始末しちゃいますんで」
 心の内で舌を打った。
 背中にじわじわと、嫌なものが這いあがる。
 聞きたくもないというのに。そんな男の名前など。



 電話を切ると、後ろでもぞもぞと温かいものが動く。
「…すみません。起こしてしまいましたか」
「何…電話してたの?」
「ええ」
「大変だな…こんな夜中に」
「…いいえ」

 ……全くその通りだ。
 嫌な予感というのはよく当たる。
 いや、予感などではない。握っていたのは元より全てが、覆しようのない事実の一端だった。それだけだ。
 薄々、勘付いていた。
 自分が一度見た人間の顔を忘れるはずはない。あの時濡れたガラス越しに見た少女と、彼に初めて会った夜、彼が後生大事そうに持っていた写真の中の少女は、とてもよく似ていた。
 写真の幼い姿に少しばかりの成長と麗しい憂いを湛え、あの日自分の前を横切った寂しげな少女は、おそらく。
 しかし、どこかでそれを有耶無耶にしたいという心があった。そうでなければいいと、暗い予感を胸の奥に押しこんできたのだ。
 一体誰の為に?
 ……。

「ラグナ君」
「ん?」
「これからちょっと、忙しくなりそうです」
「あ、そう。だから?」
「だから私の目が行き届かない所で、貴方に勝手な行動をしてもらっては困るんですよ」
 ちらりと横目に捕らえた顔は不服気に鼻から息を吐き、そっぽを向いて髪を掻く。
「今更何なんだよ…」
「心配なだけですよ。貴方もここでお尋ね者にはなりたくないでしょう。部屋なら郊外にいくらでも広い所を用意してあげますから、そこで大人しくしてて欲しいんです。今まで通り、不自由はさせません。どうですか?悪い話では、ないと思いますが」
「ああ、お気遣いありがとうよ」
 感謝にしては淡々と、少しもこちらを見ないままラグナが呟く。
「……」
「…悪いが、俺はこの街から出るつもりはねぇよ。自分の足で歩かねぇと、どんどん腑抜けになっちまう。アンタばっかりにも頼ってられねぇからな。これから忙しくなるんなら尚更だろ」
「……」
「まぁ、出歩く時は気をつけるよ。アンタみたいな変態野郎に捕まったら、大変だからな」
 軽口でさらりと流し、提案を聞き入れてはくれなかった。
 背中を向けて寝に入ろうとするその後ろ姿が、それ以上の問答を拒絶していた。

 肩をずらして彼の背に寄り添い、温かい腹に腕を回してそっと引き寄せた。
「……」
 抵抗はなかった。
 更に強く抱きしめる。きゅっと高くなる布擦れの音が耳に甘く溶けた。
「何だよ、俺もう眠いんだけど」
「…貴方は私のものだ」
「……」
 耳に唇を押しつけて、一言一句をその肌に深く刻むよう囁いた。
「誰にも渡さない」
 同じソープの香りがする髪は柔らかくて麻薬のように心地良い。
彼を抱く両腕に籠る力は強くなるばかりだった。
「…忘れないでくださいね」
 ラグナの表情は見えない。が、少し考えるように数度瞬きをするのが、後ろから微かに見える睫毛と頬の動きでわかった。
「あのさ…いきなり、何なの?」
「別に」
「おい、あやしいな…浮気か?コラ」
「ふふ…怒ってくれますか」
「どうぞどうぞ、盛大に、ご自由に」

 ……言えない。
 どんな嘘を吐こうと、事実は事実のままであるという事。
酷なのはその事実であるのか、それを告げない自分であるのか。

 彼をこの夜の中に隠せたら。
 誰にも触らせず、誰にも奪わせない場所を作れたら。
 その心も体も全て、自分だけのものにできるだろうか。

 抱いた体の温かさで、少しずつ眠くなる。
 やがて来る朝を、とても疎ましく思った。