【二時】

「灰沢さん」
 呼びかけに返事はなく、ただ何かがいる気がしてそっと部屋を覗きこんだのは午後二時の気怠い真昼。
 黒革のソファに長躯を投げ出して、腕組みだけをした格好で灰沢が目を閉じていた。
 規則的に上下する広い胸と、殆ど音をさせない息遣いに気づき、それ以上声をかけるのは躊躇われた。
 灰沢が休んでいる姿を見る事はそうそう無い。今がたったひと時の休息なのだろう。
 しかし人より獰猛で獣より狡猾なこの男は、一たび目を瞑ればこれ程静かに眠るものなのか。
「……」
 もう少し眺めていたいと思ったのはおそらく、真昼の妙な生温さのせいだ。



【血と肉と、】

「いっ、」
 ナイフを持ち替えた一瞬、軽く指の腹が刃先に触れた、それだけで電流のような痛みが走る。
 咄嗟に手を放したので、ようやく足首近くまでカットしたハモン・セラーノに血が落ちる事はなかったが、これでは続けられそうにない。大凡生活臭のない事務所だが、流石に刃物の類はよく管理されているらしい。
 しかしこの半端な形になった食材をどうするか、と指を舐めながら眉を寄せていた所にぬっと声がかかる。
「…何してんだ」
「えっ」
 ネクタイを解いた灰沢が憮然とした顔でこちらを見ている。
まずい。
 言い訳を考えていると、黙って手を取られた。
「……」
 灰沢の無表情からは何も悟れないが、黙っているのもばつが悪い。
 ここまで見られたからには、変に取り繕うのは諦めた方がいいと思った。
「すみません…切っちゃいました」
「ああ、よく切れんだろ。いざって時に切れねぇとここに置いてる意味がねぇ」
「はぁ…」
 笑っていいのか判断に困る冗談を呟きながら、灰沢が手でこちらを追い払うジェスチャーをした。
「あっち行ってろ、続きは俺がやるわ」
「え?」
 ……できるんですか?
 もう少しでそう口に出してしまう所だった。 

 ワインを空けた後、灰沢から乱暴に抱かれた。
 酒が十分に回って蕩けた体は灰沢を容易く受け入れ、軽い酩酊を起こした頭は理性を脅かし、面白い程愛撫を悦んでしまう。
 背後から何度も突かれ、言葉にならない声をあげながらシーツを握りしめたが、力が少し強すぎたらしい。指先が大きく、ズキリと痺れた。
 反射的に手を緩めたが、傷口は既に開いてしまった。
 指の腹からは小さく膨れた血の玉が浮き、それが次々に垂れてシーツに赤い染みを落としていく。
 どんどん熱を持っていく傷口を浮かされた意識で半ば朦朧と、他人事のように目の端へ留めていたが、そこへ重なった大きく無骨な掌に心臓が大きく鳴った。
 誰でもない、灰沢のものだった。
 そのまま顔を寄せて生傷を舐められ、密着した背が筋からぞくぞくと粟立つ。
 肉厚の舌は熱く、血に濡れてなお赤く、それはこの男の欲望そのものといえた。
 歯の奥が震え、名前を呼ぶこともできない。
 ……喰われる。
 俺は体の奥で疼くものから逃げる様に目を閉じた。



【落ちる】

 背後から抱きすくめると、殺意でも感じたのか面白いくらいに慄く葉山の体があまりにも弱く、知らず腹の中にある口がにやりと笑う。
 身を守るのは得意なはずだが、自分の前ではまるで腰が抜けている子供のようで、手応えの無い詰まらなさを弄ぶのが、今では存外愉しい事でもあった。
 女のような甘い香りのする髪を掬い、指に幾筋か絡ませて自分の方へ引っ張ると葉山の顔も無理矢理上を向く格好になり、露わになった首筋へ舌を乗せてやった。
 肩がひくりと攣った。上擦った息を漏らす喉は、刃を立ててやりたくなる程に生白い。
 音を立て肌を吸い上げながらネクタイをむしり取り、力任せに開いたシャツの中に手を入れて胸をまさぐる。葉山の体が一層強張っていく。
 両膝が崩れるのも時間の問題だった。
「…灰、沢さん…」
 その言葉に何の意味があるのか、葉山は戸惑いと恐れに塗られた声で灰沢の名前を呼び、それ以上を語らない。
 何も答えず、冷たいチタンピアスに歯を立てる。
 それは死んだ骨を齧る感覚に似ていた。



【アジテーション】

 まるで女だ。
「ああ、あっ、…灰沢、さ、っうあ」
 横広のソファに膝をつき、背もたれにしがみついて背後から灰沢に責められる。
 腰の奥から腹まで、ナイフを突き立てられるような気分だ。
 もう嫌になる程灰沢を知ってしまった体は、そのナイフすら喜んで飲み込むのだから恐ろしい。
「はァ、いっ、い、ぁっ、あ…」
 たっぷり塗られたローションが中でぐちゃぐちゃと熱い。
 暴力に近い動きに必死に耐えていると、不意に心当たりのない着信音が鳴った。灰沢のものだ。
 灰沢が上着から携帯をとったようで、動きが少しだけ緩慢になった。
「…あ?どうした?」
 声は普段とほぼ変わらない。これくらいで疲労の態を晒すような男ではない事は重々知っている。
 灰沢の気が済むまで付き合った日は、物を食べるのも嫌気がする程だ。
「ああ、そうだな…わかった。しかしよ、お前はいつも取り込み中にかけてくるなぁ、真虎。どこかで見てんのか?」
(…真虎さん、か)
 何故か胸がざわりと、暗いものに舐められる心地がした。
「はっ、冗談だ。冗談。…あ?」
 途切れずに喋っていたせいか、一瞬考える風に灰沢の言葉が止まったのが気になった。
「…ああ、近くにいるな。代わろうか」
「な、」
 ソファに押し付けられたまま、携帯を耳元に当てられる。拒み様はなかった。
「…はい、」
『あー葉山?真虎です。お前、そこにいたんだ』
「…はい」
『灰沢さん、どう?この間は食事に行ったって聞いたけど』
「…ええ、…そうですね、よくして、もらって、…」
『そっか。でも必要以上に気に入られないように、気をつけな。こき使われるから』
「はい…、んっ、く…!」
 声が大きく上擦った。
 背後から、灰沢に腰を深く沈められたせいだ。そのまま中を掻き回される。
 内臓を押し上げるようなその重圧に、嘔吐感に近いものがこみ上げ、腹に力をいれて堪えた。
 灰沢が苦笑するのがわかった。
 自分が動揺しながら、尚且つそれを悟られないよう必死になっているのを面白がっているのだ。
『…葉山、どうしたの?具合でも悪い?』
「いえ…大、丈夫です、」
『そう?あんま無理しないでよ、これからが大事なんだからね?社長』
「ッ…わかってますよ…貴方に、言われなくてもね」
『あ、そう』
 後は言葉にならなかった。
 携帯を自分の耳元に戻し、一言二言を交わした灰沢はその携帯をソファの上に投げ捨て、半ば覆いかぶさるように体を押し付けて腰を打ちつけた。
 下腹から前立腺を狙ったように突き上げられて、目の前が眩しく明滅する。
「あ、んんっ!ん、くぅ…ああぁ、」
 灰沢の激しい愛撫に責められ、そして必死に抑えつけていたものが解放された所為で、事務所の中だったがそれも憚らずに大声をあげた。
 灰沢の余る程のものが抜き差しされるたびに、ローションか何なのか区別のつかなくなった粘液が溶け出していく。
「は…灰沢さん、あ、あ、んぁっ、あ…ひぃ…っ!」
「おいおい、いいのか?んな声出して。携帯切ったなんて一言も言ってねーぞ。真虎に聞こえてたらどうすんだ」
「あ、もぅ、許して、くだ、さ…」
 駄々のような涙声を最後まで聞いてくれるはずもなく、更に奥を突き上げられて悲鳴に近い声をあげた。
「ま、別にどうでもいいんだけどよ」

 この男に捕らわれたと気付いた頃には、道らしい道はとっくに見失っていた。
 今、顔を見られない格好なのはうまく出来た僥倖だった。
 俺は犯されながら、歯を噛みしめても浮いてくる笑いをどうしても抑えられなかったからだ。



【最高の訃報】

「…灰沢が、死んだ?」

 自分の出した声が驚く程平淡だった事に、一瞬考える。おそらく頭の隅にさえ無かった事を聞かされ、それを事実としてすぐに認識できなかった所為だろう。
 こちらに背を向けたまま、関がスポーツ新聞を気だるく捲る。
「ああ、そうらしい。香港島の浜辺で死体が上がったんだってよ。海外旅行なのか何なのか知らねーけど、腹ん中に竹やらコンクリの屑やらが入ってたって言うから、建設中のビルか何処かでやられたんじゃねぇのって話だ。じゃなきゃ、…パンダ園?あ、パンダは笹だっけ?あれ?どっちだ?」
「……どっちもです。パンダは雑食ですから、肉とか魚も食うんですよ」
 キーボードを叩く手はいつの間にか止まっていた。
「フーン。ところでよ、竹の足場って向こうじゃスゲーらしいのな。でっけぇビルなんかも、鉄パイプじゃなくて足場は全部竹で組み立てんの。クオリティやべぇぞ?もうそれ自体建築物じゃねーのってくらいだわ」
「……」
「俺もそういう所からこだわってさぁ、自社ビルとか、実物大ガンダムとか作りてぇなあ。よーし旅行すっか、旅行」
「……そうですね」
 言葉を返しつつ、自分の目線はPCの画面上にあったが、何故か焦点が定まらない。
 呆然と、関が放った最初の言葉を反芻していた。

 ―――灰沢が死んだ。
まるで、嘘のようなニュースだ。

 灰沢は天野と並び、柚木組の後継を争う実力者だった。
 最近では歌舞伎町のビル火災を皮切りとして、美竹組による紋舞会組員への発砲事件など、同門でありながら灰沢と天野は互いに過激な牽制を繰り返す抗争状態にあった。
 柚木組の後継は、組長である井和丸が直接選任するのではない。
それこそ香港の極道を倣う様に、組の次代を背負う人材を、組の人間が票を投じて選出する。
 勿論だが、彼らは票集めの為に真っ当な演説活動などを行う訳ではない。
 天野に関しては金に物を言わせてある程度の票は買い占めているのだろうが、灰沢も天野に並ぶ狡猾な男だ。政界人も舌を巻くようなやり方で上層や外部に取り入り、独自のネットワークを形成して票の獲得に動いていたのだろう。
 それが何故、こんな簡単に幕切れてしまったのか。
 頭から血が引く心地だったが、関に動揺を悟られたくはなかった。
「…これで柚木組トップの座は、ほぼ天野で確定という事ですね」
 唇を舐めながら言葉を作ったが、特にこちらの動きに気付く様子もなく、鼻を鳴らした関がつまらなそうに紙面を畳む。
「へっ、ヤクザなんて誰が上になっても同じだって。あいつらの世界は戦国よ。灰沢が天下取ったにしても、間違いなく天野が黙っちゃいねぇ。どっちにしろ長生きはしなかっただろうな」
 ソファに座ったまま、関が少し姿勢を変えて「なぁ葉山」とこちらに声をかけるので、一瞬ぎくりとした。
「お前は嬉しいだろ?灰沢がおっ死んでよ。バーストの時は、ヤローに随分いじめられたそうじゃねぇの」
「……」
 溜め息とも、苦笑ともつかない声が奥歯から漏れてしまう。
 ……そうだ、関は何も知らないのだ。一体何を、動揺する必要があるというのだろう。
「……別に。あなたに比べたら優しいもんでしたよ」
「カッカッカッ!そう来たか!やっぱお前オモシレーな」
 出会った時から鼻につくその笑い方が、今は不思議と気に障らない。
 ただ熱に浮かされるように、頭がぼんやりとしていた。

 関が部屋を出て、自分以外の人間が全て事務所から消える。
「……」
 俯いた視界に長い前髪がかかり、鬱陶しい。しかし掻き上げる気は起きなかった。
 腕は自分の物でないようにだらりとぶら下がっているだけだった。
 何故か、笑えてしまう。
「…ざまあみろよ、クソ野郎が…」
 肩を震わせながらボソリと呟く。
 最早この世のどこにもいない男に向かって放った声は、やがて虚しく沈黙の中に溶けた。