コーヒーの香りが鼻腔をくすぐり、役立たずのアラーム代わりに遅い朝の訪れを知らせていた。テオはうっすら目を開けて、それから辺りの景色に視線を巡らせた。ぼやけた視界でも、ここが自分の部屋じゃない事はわかる。もしここが自分の部屋なら、ベッドの周りは大量の電子機器や油くさい工具、無尽蔵に伸びた配線に占領されている。そうだ、ここはまるで死人が住んでいるように整理整頓が行き届いた、キーナーの寝室だった。彼の部屋で夜を過ごした事を、テオはようやく思い出した。
 片方の肘を立てて、かろうじて頭を起こす。いつ眠りについたのか覚えていない。明らかに寝不足だったし、軽い熱と痺れを伴うだるさが体のあちこちに残っていた。加えて目が見えないと余計に気持ちが悪い。昨夜、彼に外されたきり行方の知れない眼鏡を探しにいかなきゃ、一日は始まりそうにない。とにかく眠気を飛ばすためにまぶたを擦っていると、ベッドの左側がゆっくり沈んだ。隣に腰掛けたキーナーが、マグカップを差し出していた。
「おはよう、テオ」
 極度の近視を抱えているとは言え、こんなに近くに来るまで全く気付かなかったのは、さすがに申し訳なかった。
「おはよう。……ああ、ありがとう」
 体をちゃんと起こして取り繕いながら、マグカップを受け取った。ステンレスから伝わる熱が、寝起きの冷えた手のひらをじんと温めてくれる。入れたてのコーヒーだ。睡眠状態から覚醒しかけているテオがベッドでモゾモゾ動き出した頃から、ケトルを火にかけてくれていたのだろう。
 一口飲むと、ローストが醸し出す酸味に、砂糖の甘さがちょうどよく溶けている。初めて甘いコーヒーを知ったのは彼のおかげだった。コーヒーに砂糖を入れるなんて、ケーキミックスを塩で作るくらい邪道だとテオは考えていたが、案外効率的だった。テオの仕事は専ら頭脳労働だ。それも、ピクニック気分でパトロールへ出かけるJTFの連中より何倍もカロリーを消費する。テオの計画を全面的にサポートしているキーナーは、共に朝を迎える日は甘いコーヒーを振舞ってくれる。正直彼がここまで細やかな人間だとは思わなかった。
「……美味しい。けど何だか悪いな。本当はこういう事って、僕がやらなきゃいけないのに」
「気にしなくていい。インスタントだから誰が入れても味は一緒だ」
「あー、そういう意味で言ったんじゃなくって」
 興を削がれた振りをしてみせたら、同じく宥める振りの苦笑いが返ってきた。
「わかっている。が、これくらいのご機嫌取りはさせて欲しい。こんな時間まで寝坊させるくらい、昨日はテオを疲れさせてしまった」
 淡々とした口ぶりは、一夜が明けた今となってはむしろわざとらしいギャップだ。彼に暴かれた自分の醜態を思い出して、うまい言葉がすぐに出てこなかったが、キーナーは口の端をかすかに釣り上げたまま、マグをすすっている。そんな横顔も悔しいくらいハンサムだ。視界不良なせいもあって、普段より遠慮無く見つめてしまった。
 ……他愛のない会話とは、こういう事なのだろう。ドラマで恋人同士が交わすような、ディベートでもブレインストーミングでもない薄っぺらい情報交換を楽しむ意味がテオには理解できなかったが、今は少し面白いと思うようになった。それ以上に感慨もあった。今まで彼が他人の前で食事をしているどころか、コーヒーを飲んでいる姿さえ見た事があっただろうか。彼にとってテオは、リラックスした姿を見せても問題がない、限られた人間の一人なのだ。その事実は優越感をくすぐるには十分だった。今日は午前中なら、スケジュールに少しは余裕がある。もう少し、二人きりでしかできない会話ややり取りを楽しんでも許されるだろうと思った。
 しかし、キーナーの時計が企みを阻止するように通知音を上げた。彼は手首の簡易な通知を確認して、続いて空中へ顔を傾けた。スマートウォッチと情報を連携する時、持ち主の視界はコンタクトレンズを経由して視界にHUDを表示する。対して、テオの時計は鳴っていない。彼の判断を必要とする、重要度の高い案件なのだろう。眉を皮肉げに持ち上げたキーナーが、マグカップを片手にベッドを降りようとした。
「もう行くんだ」
「ああ」
 いつもと変わらない落ち着いた声に、「見ればわかるだろう」と暗黙に諭す色が含められていた。
「僕に留守を任せても? こんな秘密だらけの部屋で。最近、ちょっと無用心じゃないのか」
 軽口にしては調子に乗り過ぎているとはわかっていた。しかし意味のないやり取りこそが、こういう関係に刺激を与える事をテオはおぼえてしまった。振り向いたキーナーは既によそ行きの顔だったが、すぐにはベッドを離れなかった。おそらくテオが言葉とは裏腹に、「待て」のまま放置された犬のように情けない顔をしていたのだろう。少しの間ベッドの上で見つめ合っていたが、キーナーはテオの肩に腕を回した。互いの額を優しく重ね合って、そして静かにキスをしてくれた。唇が触れるくらいの軽い挨拶だったが、くっついたままの口元は穏やかにくつろいでいた。
「明日は、テオが入れたコーヒーを飲みたい」
 唇に囁かれたのは同じコーヒーの味と、そして次への期待を含ませた言葉だった。これが初めて迎えた朝の出来事だったら、舞い上がって全てを鵜呑みにしてしまう所だが、生憎そうは行かない。どんな約束をしても、彼はショートメッセージ一つでテオの大事な予定を簡単にキャンセルしてしまう。リップサービスを間に受けて、一喜一憂するのはいつもテオの方だった。
「……インスタントなんだから、誰が入れても味は一緒だろ」
 精一杯の皮肉をつぶやいてみせた。まるで教師の板書の些細なミスを指摘するようなチープな行為に、言葉も出ないくらい呆れてしまったのかも知れない。彼は何も答えず、彫像めいた左右対称の微笑を浮かべるだけだった。