神室町、亜細亜街。
 『故郷』の一日が終わり、午後十一時になる頃。最後に店の扉を開けた客は谷村だった。

 この中華料理店は谷村が我が家のように慣れ親しんでいる場所だ。現れた小さな店員の第一声も、お決まりの「歓迎光臨!」ではない。待ちわびた家族の帰りを、暖かく迎える言葉だった。
「マーちゃん、おかえりなさい!」
「ただいま、メイファ。……あ、どうしたの? 何やってんの? これ」
 軽く手を上げてから、店内の一角に目を見張る。
 店主の趙がテーブルに蒸籠を並べていた。もう店仕舞いしたはずだが、こんな時間に客でも来るのだろうか。訝る谷村の様子に気付き、趙が苦笑する。
「マーちゃん、今日はメイファの誕生日だよ」
 谷村の目が丸くなる。
「……あ」
 やれやれ、と趙のため息。
「忘れてましたって顔だね」
「お父さん、いいじゃない。マーちゃんは毎日忙しいんだから」
 谷村を席につかせて、手際よくメイファは大皿を給仕し始めた。最後に目の前に置かれた蒸籠の蓋を開けてみると、白い湯気が視界いっぱいに広がる。やがて現れたのは、出来立ての水餃子だった。よく見れば一つ一つが、花や鳥を模した細工作りになっている。三人前を優に超える数だ。おそらく夕方くらいから、厨房でせっせと作っていたのだろう。
「へえ、こんな器用にできるもんなんだ」
「すごいでしょ? 全部私が作ったんだよ。一緒に食べよう」
 横の席についたメイファが促すので、じゃあ、と早速箸を伸ばして一つを口に入れる。熱々とした皮が破れて口の中いっぱいに広がる、柔らかい挽肉の舌触り。普段脂っこい食事が多いせいか、肉を包む素朴な生地や薬味の具合が、とろけそうな程優しく感じた。
 しかし、ふと口の中に違和感をおぼえた。簡単には噛めそうにない堅いものが、しきりに歯列にぶつかるのだ。
 それを摘み出すと、思わず我が目を疑った。
「え? コイン?」
 日本ではまず見ることがない、体を丸くうねらせた龍が描かれた金色のコインだった。おそらく中国でコレクション目的に流通しているものだろう。コインを見たメイファが、隣で頬を膨らませた。
「もう、マーちゃんずるい! 私の誕生日なのに」
「ずるいって、何だよ」
「あのね。私が生まれた所では、誕生日に水餃子を食べるの。それで、その中にコインが入ってたら大当たりなんだよ」
「へえ、それは知らなかった」
 趙がにやりと笑う。
「マーちゃんは引きが強いからね。ハズレを当たりにした方がよかったかもな」
 痛い横槍に、じろりと目線を流してやる。そのやり取りに気づく様子もなく、メイファが一口を飲み込んで続ける。
「それから、誕生日には三つの願い事をするんだよ。コインが当たれば、すっごく効き目があるんだけどねえ」
 まだ名残惜しそうな目を向けられるので、頭を掻いて視線を避けながら、話の続きを促した。
「願い事か。もう決まったのか? 教えてよ」
「もちろん! えっとね、まずは、料理がうまくなりますように。それから、お父さんが元気にお仕事できますように。それから……最後の一つはね」
「うん?」
「教えない!」
「何だよ、意味ありげに引っ張っといてそれ?」
 どうやらメイファの作戦にはまってしまったらしい。計画的ないたずらが成功したからか、その顔がにんまりとほころんだ。
「最後の一つは教えちゃだめなんだよ。それを内緒にしてたら、願い事が三つ全部叶うんだって」
「なるほどね。ま、女の子が好きそうな事だよな」
「うん……」
 メイファの顔が少し下を向いた。さっきまでの弾んだ笑顔に、不意に寂しげな影が差した。
「……願い事のやり方はね、お母さんから教えてもらったの。けど、ずっとやりたくなかった。お母さん達に置いていかれた事、思い出すから」
「……」
 少し間があったが、思いきったようにメイファは「でもね、」とこちらを見上げた。
「今だって、私には大事な家族がいるもん。お父さんとマーちゃん、亜僑会のみんな……わたし、もう寂しくないよ。だから、今年から願い事するって決めたんだ」
 驚いた。感慨でもあった。
 小さな子供だったメイファは、この亜細亜街で育ち、いつの間にか一つの意思を持った人間へと成長していた。このささやかな宴も、メイファが取り仕切ったものだ。帰宅がいつも深夜になる谷村を、もてなしの料理を用意してこんな時間まで健気に待っていたのだ。
「そっか」
 谷村は頷くと、自分の懐にちらりと目を遣ってから、メイファの方に向き直った。
「あのさ、メイファ、ちょっと目閉じてな」
「え? うん……わかった」
 言われるままに目を閉じたメイファに、谷村は少し背を屈めると、その結った髪に手を差した。メイファは不安そうに固く目を閉じている。
「……マーちゃん?」
「……よし、こんなもんかな? 趙さん、鏡持ってきて」
「はいよ」
 鏡を覗き込んだメイファが、両の頬をぱっと赤く染める。
「わあ……!」
 こめかみに差し込んだのは、白い睡蓮をモチーフにした髪飾りだ。水面から浮かび上がったような可憐な一輪は、幼い少女の黒髪によく映えている。留め具には小さなクオーツが揺れ、華の傍を漂うほのかな光を思わせた。
「お、似合うね。まあ、俺が見繕ったんだから当然ってやつかな」
 一つ彩りを開いた自分の姿を、夢から出てきたもののように見るメイファ。
「メイファ、白が好きだって言ってたろ?探すのに結構骨折れたんだぞ」
「マーちゃん……」
「俺がお前の誕生日を忘れるわけないだろ。家族だからな。おめでとう、メイファ」
「えへへ……ありがとう。えっと、それから、あのね……」
「ん?」
 覗き込んだメイファの顔はいつになく照れくさそうにはにかんでいた。
「……三つ目の願い事、ちょっとだけ、ちょーっとだけ叶ったかも」
「……?」
「あ、そうだ。明日のスープの仕込みしなきゃ」
 立ち上がり、前掛けの紐を結い直すメイファの背中に趙が声をかける。
「おい、今日は私がやるから、ゆっくりしてなさい。お茶も淹れてるし」
「いいの!」
 せっせと厨房を行き来するエプロン姿を見ながら、谷村は湯のみを軽く呷り、しみじみと微笑した。
「メイファは働き者だな、趙さん。俺も少しは見習わないとダメかな」
「……そうだね」

 神室町、亜細亜街。
 街の喧騒に乗って、胡弓の音色が誰かの遠い郷愁を歌い。
 夜は今日も更けてゆく。