「あーあ、場代全部スッた……」
 ぶつぶつと唸りながら六蘭荘を出たのは午前一時過ぎ。気分は戦果なき敗残兵だった。
 すっかり夜も更けた虚空を見上げて深く息を吸い、わずかな唸り声を交えて吐き出した。春先とは言え夜はまだまだ気温が低く、研ぎ澄まされた夜風が首筋をえぐっていく。ジャンパーの襟をかき合わせて、当て所なく歩き出した。

 同じ卓のおっさんが注文したラーメンの臭いが服や髪に染み付いて、しばらくは気分が悪かった。数分も歩けば新鮮な外気のおかげで脂の匂いは大分消えてくれたが、それでも頭は冷め遣らぬ苛つきにじんじんと唸っていた。
 今日はとことん、ついてない。昼間からボルケーノに入り浸っていたら、あの口うるさいトレンチコートが飛び込んで来て大目玉を食らった。せっかく確変に入った所で店から引っ張り出されたせいで、不完全燃焼だった。そういう訳で夕方から六蘭荘に入り浸っていたら、次は純粋に負けた。
 ボルケーノのあの台はまあまあ当たるし、他の警らの目を逃れる完全な死角にあったのだが、おそらく上司の耳にまで及んだのは密告者の仕業だろう。密告なんてやるのは、暇人に違いない。身内の行動を監視している暇があったら真面目に街を巡回して、少しでも検挙率に貢献してほしいものだ。
さてこれからどうやってその愚か者をあぶりだしてやろうかと思いながら、胸ポケットから煙草を取り出した。
「……ふう…」
 指先でトンと箱を叩くのと、
 ……自分の背後に何かの気配を感じたのはほぼ同時だった。
 気づかない風を装って煙草に火をつけると、雀荘のある道から少し奥まった袋小路へと歩いた。
 不穏な気配はじりじりと、一定の距離を保ちながらついてくる。草むらに背を低めてこちらの隙を狙うような、押し殺した暴の気配。ただのチンピラではない。一体何者だろう、こいつは。
 袋小路の隅は廃材の溜まり場になっているが、廃材を囲むようにスタンド灰皿がある。そこへ向かう様に見せて、襲いかかって来るようなら腕の一本でも取ってやろう。そう考えながら、灰皿へあと二、三歩の所でふと立ち止まる。
「……?」
 さっきまでの濃密な気配が消えたのだと気付いた。それが急すぎたのを不審に思い、目線だけをほんの少し横へ流す。
 しかし、一瞬でも前方を疎かにしたのが間違いだった。
「!」
 背後から太い腕が首に回り込み素早くロックされる。衝撃で、咥えた煙草が地面に転がった。
 すり抜けようと思ったが、俺の意図を読んだようにもう片方の腕で手を後ろに取られ、肘と指の関節を同時に極められる。全く身動きが取れなくなってしまった。
 ものの数秒で完全に一本取られてしまったのだが、俺を更に驚かせたのは、中年と思しきその男が俺の顔を見ながら、気色の悪い声で囁いてきた事だ。
「やっぱり、近くで見てもカワイイ顔しとるのお、ニイチャン」
 背筋がゾッとする。
「何、あんた、金じゃないなら……そっち系?」
 息苦しい喉で声を搾り出すと、そいつは口元ににやりと笑う音を作った。かと思えば次には簡単に腕を解き、俺の体を前方に突き放してしまった。
「おっと、」
 数歩たたらを踏んだが、これ以上隙を晒すまいと、よろめきながらもすぐに振り返る。
 立っていたのは大方予想通りの男だった。ごつい骨格に目の据わった凶悪な人相、派手に染めた髪を後ろに撫でつけている。値の張りそうなダブルのスーツにたくましい体を包み、磨き上げられた革靴は真っ白なパイソン柄だ。
 明らかに、そこらの一般人ではない。
「あんた、一体……」
「……………………」

「いや、待てよ」と、頭の中の自分が訝しげに顎を撫でる。
 対面から然程もかからず、俺はこの明らかな不審者に対して妙な既視感を覚えていた。
 この物騒な出で立ちはさておき、注目すべきは人間の最も特徴的な部分、ずばり顔だ。骨格、鼻の形、目、ポイントとなるパーツの一つ一つを観察してみる。記憶に刻まれた数多の人間の中からたった一人を絞り込むため、凄まじい速さでモンタージュしてみる事にした。
「あれ?あんた……」
 ようやくピンときた。そう、この顔に無理やりにでもメイクを施してみると、俺がよく知っているあの人に、なりはしないだろうか。
「もしかして、サキちゃん?」
 そこから弾き出された名を呼ぶと、目の前の強面は雲間を裂いた太陽の様に、パッと明るくなった。
「ああん、遅いっ! マーちゃんってば全っ然気づかないんだから、もう!」
 今しがた耳に吹きかけられた声とは到底似つかない甘ったるい声で、不審な男の正体・サキちゃんは嬉々としてまくしたてる。
「いや、そう言われても……」
「それとも、ちょっと違う雰囲気にドキドキした? ドキドキしたのね? て言うかコレ、スッピンなんですけどね! やだあーっ」
 胸の前で両方の拳を二つ突き合わせて、屈強な体を揺すっているのはファイティングポーズではなく恥ずかしがっているのだと、サキちゃんを知っている俺でなければ判別できない動作は相変わらずだ。
 ようやく肩の力が抜けた。漏らした吐息は限りなく溜息の色だった。
「……で、何なのその格好。とうとう足洗った訳? 中身はそのまんまみたいだけど」
「たまたまよ。広島の同期から久しぶりに飲みに誘われてね、いつもの格好で行く訳にもいかないじゃない? タンスの奥から引っ張り出してきたって訳よ」
「へえ……」
 と、言うと、これがかつて広島県警で名を馳せた「鬼のサキ」の普段の装いという事だろうか。
 どう見てもその筋の人間にしか見えないが、これくらいの渋さをもってして初めて、向こうのタフな職業の輩とは渡り合っていけるのかも知れない。

 袋小路の壁に二人背を凭れて少し話した。
 久しぶりにシェラックへ行こうと誘ったが、「明日仕事なんでしょ」とすぐに見通されてしまう。
「変わんないわね、そのサボり癖は」
「いや、最近ちょっとやりづらいんだよ。上司が変わって、監視の目が厳しくてさ……」
 昼間の怒鳴り顔を思い出して舌打ちすると、サキちゃんは「それはマーちゃんが悪いわよ」と苦笑しながら、目線を遠くに遣る。
「マーちゃんもだけど、神室町も相変わらずね。揉め事は絶えないし、毎年みたいにでっかい事件だって起きてるし」
 まあさすがに今回ばかりは、上の連中には呆れたけどね、と息をついて、「でもさ」と上げた顔は明るかった。
「それでも、あたしはこの街が好きなのよ。だってここの人達ってさ、どんな事があっても、いつも笑ってて、キラキラしてるじゃない」
 路地の向こうから漏れてくるネオンの光が、サキちゃんの骨張った顔を柔らかくぼかしていた。
「この街と、ここに住む人達を命がけで守ってくれる人がいるからよ。あなただってそうなんだから」
「俺?……そうかなあ」
「そうよ、頑張んなさい。あなたに救われてる人は、あなたが思ってる以上に大勢いるんだからね、谷村刑事」
 サキちゃんはにっこり笑った。いかつい容姿に不釣合いな、どこか人を和ませるその笑顔に、俺はこれまで結構励まされてきたと思う。
 俺の出生は曰くつきだ。母親の顔も知らないけれど、もし母親がいたら、その人はこういう穏やかな目で笑う人なのかも知れない。
 そこまで考えると何だか気恥ずかしくなって、
「……まあ、サキちゃんが言うんなら、頑張らない事もないけど?」
 そっぽを向きながら呟いたら、「あらあら、褒められて照れちゃった?」と面白がってサキちゃんは俺の顔を覗き込む。 
「照れてないって」
「嘘! その目は嘘をついてる目だわ! 刑事として長年培った私の勘に間違いは……」
「はいはい、帰りますから、どいて下さい。明日早番なんで。俺真面目なんで」
 しつこく突っかかって来るサキちゃんの肩をぽんと叩いて押し退ける。
「もう! ほんっと可愛くないんだから」
 背中に浴びせられる声に、「気が向いたら連絡するよ」と軽く手を振り返した。

 腕時計に目を落とすと2時を回っていた。
 正直、早番なんてもともとやる気はなく、適当な手段で他の人間に交代してもらうつもりだったが、今日の所は大人しく、夜が明ける前に帰るとしよう。
 ……この街の平和を守る為に、なんてかっこいい事は言わないけど。
 俺は欠伸を一つして、箱に残った最後の一本を眠たい唇に挟んだ。