大河に垂らされた雫は心の血だ。世を嘆き荒れ狂い、そしてただひたすら終わりへと流れゆくのみ。

 この二つの碧眼にはそう映った。

 

 兄・孫伯符が刺客に殺され鬼籍に入った。

 天下掌握のために堂々と踏み出した兄を待っていたのは、あまりに早すぎる終わりだった。

 人々は多いに悲しみ、そして再び望んだ。

 父が礎を築き、兄がその先を描こうと抱えた孫家の軍閥を、孫権はこの年、齢若くして戴く事になる。

 他の誰でもない、兄の遺言である。

 悲しむ暇など与えられてはいない。次代を任されたのは自分なのだ。

 

 兄の死は、清廉なる道士を屠った呪いであるだとか邪推で吹聴する者さえおり、耳にするのも心苦しい。

 しかし何もせずに悠然と構えていればよいのか、いっそ触れを出して罰するべきか、茫然自失の心が判断できるはずもなかった。

 それだけではない。父の代より受け継がれた力、臣を果たして背負うことができるのか。

 皆が自分の発する声を待っている。一筋の光に群がらんと、望む者も、望まぬ者も、誰もが頑なに息を潜めている。

 それらは今の自分にはあまりに重かった。

 

 葬儀を終えて、孫権は忍んで馬を出した。

 大岩が重なった高台の頂上からは、長江の流れを汲む悠大な川を眼下に敷く事ができる。

 ここは、迷い事がある時に度々訪れる場所だった。清流は何時の時も穏やかに流れ孫権の心を癒したが、今宵の大河は酷く荒れていた。まるで世の動乱が渦となったように、水は真っ白く吹き上がり、さざ波が手招くように迫っては引き返す。

 そこばかりを見つめていては、ついと体がのめり、ややもすればそれを追って足が動いてしまいそうだ。

 この川も泣いているのだ。そう思うとまるでもう一人の自分を見ているようで、離れがたくなる。

 願うなら、夜が明けてゆくまでこうしていたいと思った。

「……」

 そうしてしばし黙っていたが、思案半ばで孫権は顔を上げた。背後に人間の気配を認めた為だ。

 全くうんざりとする。ここへ来て、果たして二刻も過ぎただろうか。

 どうやらひと時でも一人にはさせてもらえぬらしい。憮然の色がさぞかしあらわな顔面なのだろうと、己の感情の起伏甚だしい事がまた憎たらしいと思った。

 後ろに佇む気配は、孫権がよく知っている者だ。

「……周泰か。いるならいると言え」

「……お一人ですか」

 ぼそりと囁く程の微かな声だが、何故かこの男の声は耳に響く。

「そうだ。そういうお前は私を連れ戻しに来たのだろう。大方、あの爺達のお使いか」

「……」

「答えん所を見ると、そうらしいな」

「……」

 口答えを知らないように沈黙されては、鼻で微笑する他ない。

「……私がこれからの事を憂いて、この水底へ間違いを犯しに行くとでも思ったのか、さて……知りたくもないが」

 ようやくこちらから馬首を翻して顧みたその男は寡黙の将。

 己が一存で兄より譲り受け、指を動かせばついてくる影のように侍らせている男である。

「私は帰らんぞ」

 堂々と言い放ってやると、向こうが返してくるのはこれもまた堂々とした無反応だ。

 

「……ついて来い」

 

 

 

 周泰を連れ、私邸から一刻ほど馬を走らせた所にある小さな屋敷へたどり着いた。客人は希であり、最後に訪れた日から随分時間の経っている事が、扉に積もった埃の厚さで計りしれた。

 着物の裾で埃を払い、扉に手をかけるが、これがなかなか開いてくれない。周泰が手を貸そうとするのを気丈に振り払いつつ、孫権は肩を持ち上げて気を吐いた。

 少々足を踏ん張って、重圧な扉は留まっていた時の流れが再び蘇るようにゆっくりと開いてゆく。

 久方ぶりに外気を迎え入れたその部屋はしんと静まり、窓もないため真っ暗だ。扉の足元に分解されている灯皿の、皿の部分だけを使いどうにか火を焚いてみた。

 赤い光に部屋の中が照らされ、ここが一面の物置である事を後ろの周泰に悟らせた。

 手製の武器、盾、狩りとった生き物の皮を剥いで敷物のようになめしたもの、時にはいついただいたか不明である少女の帯など、それらが全て一つの空間に収まっている。

「久しぶりだ。最後に来たのは兄上がまだご自分の足で歩かれていた頃だな」

 書簡は広げてみれば一人前に兵法等を書写している。重ねられた文字の数々は注釈といえば聞こえはよいが、その実奔放な落書きであった。

「それよりずっと昔から、私と兄上はここでよく語らったものだ。まあ、秘密の幕舎とでも言おうか」

 お前は知らんだろうが、と付け足して、手当たりに触れた物を目線より上に翳しては目を細める。

 そうして皮布をめくると、紐でくくられた木箱が現れた。

「……」

 指先を這わせて紐を解き蓋をそっと開けると、待ち構えていたように灰色の埃が舞い上がる。

 顔をしかめながら確認した物は、沈黙していた水面が一陣の風に綻ぶよう、孫権の碧眼をしかと見開かせるに十分なものであった。

「……これは」

 取り出したものは鉄の長剣だった。それを片手で水平に構え、後ろに待たせた周泰の方へと振り返る。

「私の父が敗れた後、あの袁術めの下で私達兄弟が苦心していた事は知っているな」

「……はい」

「これはその時、兄上が毎日研いでいたものだ。

 彼奴の前では、『これは他でもないあんたを守る剣だ』と言っていたがな、勿論その場の口上よ。兄上はこの剣で、いつかあの首をかっ飛ばしてやると笑っていたものだ」

 すらりと抜き出した剣は所々が錆びつき、孫策により幾度も錬磨されていた事が遠い過去のものである事を物語っている。

 しかし紛れもなく、生き物を屠る道具である。

柄を握ればぴたりと掌に吸い付くような合致感、己が体の一部となる心地だ。

 灯皿が送るかすかな光を招き、静かにぎらつく刃は恐ろしくも雄雄しく、気高い。

 ……兄上に似ているな。

 孫権の目際がわずかに翳った。

「……周泰よ」

「……」

「今宵はここで今一度、兄上を弔おうと思う。戦好きの兄上には剣舞が相応しかろう」

 お前はそこで見ていろ、と背を向けると、怪訝な周泰が傍に寄ろうとする。

「お前が私の言いつけを違える男ではないと知ってはいるが、いいか、邪魔だけはしてくれるなよ」

 剣を携えた孫権はそっと息を吸った。

 

 

 

 大きすぎる父の背中を見、そして自分を守るよう横に並んでくれた兄の肩を見、育った。

 兄は人の上に立つべくして生まれた人だった。

 至極快活、人の見地と獣の野性を持ち合わせる、この世に二人とはいない人だった。

 思えば思うほど口惜しい。

 兄の事を考えればそれは全て過去の言葉で締めくくられる。兄はここで死ぬにはあまりに惜しい人、だった。と。

 これから先、世は動く。兄を残して。兄以外の全てがこのまま止まる事なく動き続ける。

 歩む度に自分は世というものの仕組を知り、やがてその世は無情にも、自分から大切なものを一つずつ奪ってゆく。

 何故。

 何故、与えておきながら奪うのだ。

 

「権」

「俺がいなくなってもさ」

「お前の周りにはお前を助けてくれる奴が大勢いるんだ、忘れんなよ」

 

 剣先を翻す毎に、頭の中で懐かしい記憶が灯明のように揺らめく。

 この秘密の場所で、父に隠れて二人何合も剣戟を交わし調練した日を思い出していた。

 兄はただ強かった。その振りかざす切っ先をかわして、今こそと勝てると思った瞬間。

 兄の姿は幻のように消え、次には孫権の背後にいた。そしてこの首筋に、ぴたりと冷たい刃を宛がったのだ。

 結局、兄に勝てたためしなどなかった。

 天下の趨勢を追わず、両手で囲えるほどの狭い世界でひたすら剣を振るう。そんな自分に、この大きすぎる国が背負えるのか。

 そう、兄の代わりに私が倒れればよかったのだ。きっと自分に向かってこうべを垂れる重臣共も、腹の底では皆そう考えており、さぞつまらなそうに目を眇めているはずだ。

 天意とは何と気まぐれなのか。兄を攫い、何も持たない自分を一人置き捨ててゆくなど。

 何と、無情なのか。

 

 

 

 ……孫権の舞いは止まらない。

 腕の先に伸びる剣が、夢とうつつを蕩かすように眩しく煌いた瞬間。

 

「!!」

 

 体に、どんと鈍い衝撃が走る。

 深い夢から叩き起こされた心地がした。

 取り戻した意識が、視界に周泰を捉えた。

 遠ざけていたはずの周泰の姿は目の前にあった。その大きな掌が、どうした事か。こちらの腕をしかと掴んでいた。

 ……どういうつもりだ。

 訝りながら手元を見ると、次にははっとする。

 自分が構えた刃が、違うことなく己の喉元へとあてられていた。

 首筋に、紙一枚隔てた程に肉薄した鉄の凶器。

 ひやり、背中から喩え難い感覚が這い上がる。

 磨かれなくなって久しい剣だが、鉄は人の柔い喉を薙ぐには十分過ぎるほどに強く鋭い。

「……」

 意識の底で、自分は一体何をしようとしていたのか。兄が望みを託したこの剣で。

 胸の奥から吐き気のような熱さがこみ上げ、孫権はそろそろと舞いの形を解き、腕を下ろした。

「……」

 ようやく孫権が目を覚ましたと判断したのか、周泰が一歩下がり、目線を少し落とす。

 手を出すだけ出しておいて何も言わない周泰に、孫権は確かな苛立ちを抱いた。

「……周泰。邪魔をするなと言ったはずだが?」

「……」

「お前には、今の私がさぞ滑稽に映っているだろうな」

「……いえ」

 鼻笑に伏したくなるような返し言葉だ。

「私には大きな責務がある。孫家の築いてきた地を、兵を、民を私はこの身ひとつで背負わねばならん。が、それを捨て置き、こんなところで死のうとするとは……兄上もさぞかし泉下で嘆かれている事だろうな」

「……」

「お前はずっと、兄上と私を比べていたのだろう?私は兄上と違い、頭の固い爺達を黙らせるような力や技は持っていない。それどころか、お前に赤子のようにお守りをされる始末だ。

 私がいかに無様な男か、これでよくわかっただろう。お前も元々を言えば兄上に召し抱えられた男だ。そろそろ、私を見限ってもよいのだぞ」

 決して広いとは言えない場に自分の声だけが響き、虚しくなってくる。

 孫権は深いため息を一つついた。

「……なあ、周泰よ。容易く口を開かぬ事は、時に都合のいいものだ。この世には言わずともいい事を口走り、舌禍で命を落とす馬鹿がごまんといる。しかし、言うべき場で、言うべき事を言わぬのは、馬鹿と同じくらい無能だ」

 理解していた、こんなものはただの八つ当たりに過ぎないのだと。しかし、泥のように重いこの苛立ちは、口に出す以外に抑えようがないものだった。

「……ここまで言われても黙っているつもりか。何とか言ったらどうなのだ、周泰」

 床に目を落とし、吐き捨てるように呟いた。

 歯がゆい。頬が引き攣り、額に走る血管がぴくぴくと震えているのを認めたくなかった。

 さんざん言葉を漏らしても、いっこうに胸は空かない。

 ただ俯くしかない孫権の肩に、ややあって暖かい温度が重なった。

驚き、顔を上げる。触れたのは周泰の大きな手のひらだ。

「何をしている、」

「……孫権様。無礼を、お許し下さい」

 熱い血が走る手、それが孫権の肩を引き寄せた。あまりの強さに抵抗を忘れ、体はすっかり周泰の胸に収まってしまった。背中にぐいと回される腕も熱い。

 肩を揺すって退けようとするが、更に強く腕を締められる。抗えば抗うほど、逃げ場を潰されそうな気がした。

 考えてもいなかったその行為に、手のひらから滑り落ちた剣が鈍い音を立てて床に落ちた。

 見上げるほどの長駆を持つ周泰の前では、この自分の体はとても小さく弱いものに思える。ようやく絞り出した声は自分でも可笑しくなるくらいに弱々しく震えていた。

「……無礼だ、」

 このもたれかかった体の何と逞しい事か。

 しばらく忘れていた父の胸だ。そして、なくしたばかりの兄の胸だ。

「何と無礼なのだ、お前は」

 薄着の着物越しに力強い脈が伝わる。それを聞き、知らず己の胸までが息づくように鼓動を高めている事に気づいた。

 確かに生きているのだ、私もこの男も。

「今すぐ詫びよ。首を差し出せ、周泰」

「……やれません」

「……」

「貴方を、一人にはさせない…この先もずっと」

 耳のすぐ近くで囁かれた言葉が、胸の方寸に柔く突き刺さった。

「孫策様でも、貴方の命令でもない……俺が決めた事です」

 抱擁されたまま、しばらく唖然とする。

「……くくっ」

 やがて噛み締めていた孫権の奥歯から、笑いが漏れた。

「少しは生意気な言葉を言えるではないか、周泰、……ふふっ」

 その先が、声にならなかった。

 周泰の厚い胸に押し付け放しだった顔が震え、滲んだ涙が着物をじわじわと濡らしてゆく。

 嗚咽を漏らしながら、周泰の広い胸を、何度も叩いた。

 周泰は何も語らない。

 大の男が、威厳を見せつけるべき臣の前で子供のように涙を流す。恥に値する事だったが、胸中は何故か妙にすがすがしく、止まっていた時流の堰を優しく開け放たれた心地に包まれていた。

 

 

 

『は?こいつが欲しいって?』

 語らずの大男を挟んで二人の兄弟が対峙する。

 酒の席であったが、弟の顔は赤らみながらも大真面目だった。

『そうです』

 その対象を指差したままの兄が、困ったような、呆れたような溜息をつく。

『どうして弟ってやつは、当たり前みたいに兄貴の物を欲しがるんだろうな、おい』

 

 兄が自分に遺したものは、あまりに大きすぎる国と、強くあたたかな心を持つ男。

 静謐な弔いの夜に光はまだ訪れない。しかし今宵孫権の胸には、この先どのような嵐が来ても、決して消えない篝火が一つ生まれていた。