「真虎、あのさ…」
 怒鳴りたくなるのを抑えて、俺はできるだけゆっくり、一呼吸をおいた。
 自分はここでは大分、気の長い人間だと思っている。と言うか、気の長い人間が一人でもいないと、ここはいつ爆発してもおかしくないと思っている。
「……」
 俺の向かいには憮然とした顔の真虎。ソファに浅く腰かけているが、俺に遠慮しているからという訳ではない。この面倒くさい説教が終わればすぐ立ち上がって帰れるように、だろう。
 顔はこちらを見るつもりはないようで、鬱陶しげに指の関節を鳴らしたり、爪をいじったりしている。喧嘩ダコの上に重なった擦り傷が真新しかった。
「…お前もわかってると思うけど、こういう仕事だからこそ我慢って大事なんだよ」
「…」
「俺ら仲介が店側とモメたら、分が悪いのは当然こっちになる。
ましてやウチにはケツモチがいねえ。この街で商売するのにバックをつけないって、どういう事かわかるよな?」
「つければいいじゃないですか。金さえ握らせとけば問題ないでしょう」
「社長の方針なんだって。やりたいままに暴れるか、うまく立ち回って穏便に済ますか…皆その辺は考えて動いてんだから、いくら頭にきてもこっちから手は出すなよ。絶対だぞ」
 絶対、にアクセントをつけてやると、俺とは対照的に真虎の返しは淡々としたものだった。
「…わかりました。なるべくそうします」
「お前なぁ、だから俺が…」

「まーまー、馬頭ちゃん。その辺にしときなって」
 思わず浮きかけた俺の肩に重みが乗っかかり、そのせいで俺はソファから立ち上がれなかった。
 いきなり会話に入ってきて、俺の肩を抑えつけたその男。
「……辰巳」
 顔を見なくてもわかる名前を、舌打ちの代わりに呼んだ。
 歌舞伎町に未だかつて存在しなかった、スカウト専門の会社・ミネルバを立ち上げた辰巳幸四郎。
 もっともこの辰巳という男に、一見で社長の格を感じられる人間はいない。いたらこちらが会って見たいくらいだ。
 たった今事務所に戻ってきたのか、「さみ~」と裏声で言いながら外の冷えた気を纏って俺の横を通り過ぎて行く。今日のゴタゴタは耳に入っているはずだが、何でもないような素振りをしていた。
「……」
 ……正直、腹立たしい。
 今日一日、店側へのフォローで仕事は丸々潰れてしまった。
 釣り逃したネタが明日、明後日、将来いくらの金になっていたか考えると、溜め息がでる。こんな時に社長のこいつは、何処で何をやっていたんだろう。
「…おい」
 俺は苛々しながら辰巳に声を張ったのだが、そこで辰巳の顔を初めてまともに見て、ぎょっとした。
「…辰巳、お前その顔どうした?」
「え?何が?」
 こちらを向いた辰巳は、右目の上を赤く腫らしていた。
 唇の端には元々皮膚が捲れる程のかなり目立つ切り傷を持っているが、それも何処にあったかわからない程に口元の色が変わってしまっている。鼻血を拭いた跡もばればれだ。
 誰がどう見ても、ぶん殴られている。ケンカの強い辰巳にしては珍しく思い切りやられたらしい。
「何がって…不細工に磨きがかかってんぞ」
「…そりゃお前の気のせいだ。美しすぎる俺への嫉妬がなせる技だよ」
 指摘されないとでも思ったのだろうか。あまりに陳腐な言い訳が更に痛々しい。俺は今日一番、大きな溜め息をついた。
「…どいつもこいつもケンカかよ。社長のお前がそれじゃ、下に示しがつかねぇだろ…」
「悪い、これから気をつけるって」
「お前のこれからは始まったためしが無い」
 言い合う俺達の向かいに座った真虎が何か言いたそうな顔をしていた。
 それに素早く反応したのは辰巳だった。
 ……何か、変だ。
 急にしおらしくなった真虎に向かって、辰巳はまるで「いいよいいよ、気にすんな」とでもいいたげな顔で、手をひらひら振るようなジェスチャーをしている。俺が気づいてないと思っているのか、歯まで見せて笑っていた。
「……」
 どうやら俺の知らない所でこいつらは何かあったらしい。呆れるほどに分かりやすいが、辰巳はまず口を割らないだろう。
 俺は辰巳の様子には気付かなかった振りをして、チラリと真虎の方に目線を動かしたが、
「……」
 表情を読まれたくないのか、俺の疑わしい目を避けるようにうつむいた真虎の顔は、長い髪に遮られて見えなくなった。



「…はあー?」
 俺は腹の底から、ひっくり返るような疑問符を捻りだした。
 辰巳が帰った後、無理やり吐かせた真虎の話を要約すると、こうだ。
 俺の説教を受けるべくここへ帰る道中、複数の男にいきなり襲われたが、そこに登場した辰巳が身代わりでボコボコになってくれたらしい。
 ……まったく要約じゃない。さっぱりわからない。
「店とは俺がきっちり話つけてやったろ。何で後腐れしてんだ、またお前が何か吹っ掛けたのか。てゆか、何でそこで辰巳が出てくんだよ」
 問い詰めると、ばつが悪そうに唇を噛む。先程まで泰然だった真虎の態度は、辰巳が去った今は何となく萎えているように見えた。
「…突っかかってきたのは、店の奴らじゃないです。俺が前モメたっぽい、どこかのチンピラ。偶然俺を見つけて追っかけてきたんじゃないですかね」
「どこかの…って、どこのだよ」
「わからないです」
「馬鹿にしてんのか」
 俺が思わず声色を荒げると、真虎は若干ムッとした様子で顔をあげた。
「本当にわからないんですよ。昔から揉め事ばっか起こしてて、心当たりがあり過ぎるんで。
でも辰巳さんは、相手が誰かも、何でこうなったのかも聞かないで俺を庇ったんです」
「……」
 否応無しに辰巳の酷い顔が頭に浮かぶ。
 俺も辰巳とは何度も衝突してやりあったが、あんな無様な状態を見たのは初めてかもしれない。
 多分真虎の言う奴らに対して、最初から無抵抗の姿勢で向かって行ったんだろう。
 場が形としていち早くおさまるには、どちらかが黙ってやられるのが最も効率がいいものだ。
「辰巳さんは悪くない」
「………。そっか」

 ……話はわかった。よくわかったが、他にもう一つ大事な事もわかった。
 ここは社長を中心に、とんでもない馬鹿達が集まる会社らしい。

「……なぁ真虎」
 俺の声が存外静かだったからか、真虎の口元が少し引き攣る。しかし怒る気なんかはとっくに失せてしまっていた。
「…昔の事は、仕方ねぇ。けどお前は今ミネルバの人間なんだ。お前の行動イコール、ミネルバの行動なんだからさ。この調子でまたいつか馬鹿やらかして、辰巳一人の怪我じゃ済まない事になったらどうするよ」
「……」
「お前だけじゃない、全員が看板背負ってんだ。だから行動に責任持て。社長に甘えんな」
「…はい」
「わかったんなら、もういいよ」
 帰るぞ、と俺が立ち上がるのに続いて、真虎も腰を上げる。
 今が一体何時なのか、時計を見るのが億劫だった。きっとうんざりするような時間に決まっている。



「本当、ここにいると寿命が縮むわ。もうやだ」
「辞めるんですか?」
「んな訳ないだろ」
「お願いしますよ。馬頭さんがいないと、ウチは秩序が成り立ちませんからね」
「お前が言うなよ…」